太極拳」の動きを取り入れ、格闘ゲームや漫画などのキャラクターの動きを細部まで再現する女性がいる。イナミ先生のもふもふ太極拳」を運営するイナミ氏だ。

 日本でも馴染みの深い中国武術の一派ではあるが、それにしてもなぜ太極拳なのか。四肢を自在に操り、二次元と三次元の垣根を超えた動画を数多くアップするイナミ氏の半生と素顔に迫った。

◆ゲームに熱中した幼少期

 実際に話してみると、画面のなかの鬼気迫る表情とはまったく印象の異なる人物だった。

「実はもともとしゃべることが苦手なんです。どちらかと言うと目立つのが好きではなく、当初は動画で顔出しをすることもかなり躊躇したほどです

 そう打ち明けると、イナミ氏は緊張気味の表情を少し緩めて笑った。

 第18回JOCジュニアオリンピックカップ武術太極拳大会 総合太極拳・42式太極剣女子2位、2013年全日本武術太極拳競技会 自選難度太極剣 2位のほか、総合太極拳は5度優勝など、全日本大会でたびたび上位に食い込んだ強豪。さぞ幼い頃から運動神経に恵まれ、活発でやんちゃだったのではないかと思えば、「全然違います(笑)」と首を振る。 

「幼少期の思い出といえば、週末に父と一緒にゲーム屋さんに行ってゲームソフトを購入するのが楽しみで。家の1階と2階それぞれにゲーム機を置いて、どっちでも遊べるようにしたりしていました。特に『FFX』と『DOAシリーズ』、『どうぶつの森』などのゲームが好きでしたね。人と話すのは得意じゃないけど、ゲームには熱中していられましたね

◆空手を習いだすが「これじゃない」と思った

 そんなイナミ氏と中国武術の出会いは運命を感じさせるものだ。

「母曰く、幼稚園くらいのころに私が自分から『中国の武術をやりたい』と言い始めたらしいんですね

 だが年端もいかない子どもに中国武術を教えてくれる教室は周囲にはなかった。

「仕方なく、空手を習い始めました。でも、ずっと『これじゃない』と思っていたんです。小学生になったあるとき、転校してきた子と仲良くなることができました。すると、偶然にもその子が中国武術を習っていたんです

◆友人との会話が続かなかった

 ひょんなことから念願の中国武術につながった。イナミ氏は、「教室に行ってみて、『これだ!』と運命を感じました」とやや興奮気味に話す。その出会いこそ、現在に至るまで20年以上にわたって付き合うことになる中国武術との接点だった。

 だが中国武術によって毎日に活力が宿っても、イナミ氏の生来の「話し下手」が改善されたわけではない。学生時代のコミュニケーションにまつわるエピソードはなかなか濃い。

「友人はいましたが、いつも『私といてもつまらないだろうに、何で居てくれるんだろう?』と思っていました。会話は一問一答みたいになって続かず、食堂で一緒にご飯を食べていても無言……みたいな(笑)。授業中もやたら眠くて、気がついたら休み時間もぶち抜いて寝てしまっていて」

◆実は「運動神経が悪い」

 画角いっぱいを縦横無尽に動く今のイナミ氏からは想像がつかないが、「いわゆる陰キャだったんです」という自己申告も頷ける。くわえて、衝撃の告白もある。

陰キャだけならまだいいんですけど、私、運動神経が悪いんですよ。体育もどちらかといえば苦手でして……」

 日本体育大学体育学部を卒業した彼女が、運動が苦手とはどういうことか。

「そもそも小学生くらいのときは身体も虚弱で、風邪をひいては学校をよく休んでいました。大学に入ってからも運動が苦手で、必修の体育で再履修になったこともあります。走るのは遅いですし、球技はめちゃくちゃ苦手です。

 ただ、東洋哲学などを学ぶことで心身の関係性を知って人間の理解が深まりました。それから、もともとの運動能力がなくても、中国武術によって基礎的な体力を上昇させることができました。それでも、現在もまだ筋力は弱いし、動画撮影の前のウォーミングアップで『疲れた』と泣き言をいうこともしばしばですが(笑)

顔出しで発信するのを決めた理由

 もともと人前に出ることが苦手で、スポーツ万能ですらない女性が、自らが修めた中国武術を駆使して配信すること。その目的は、こんなところにある。

「多くの人がゲームや漫画のキャラクターの繰り出す技を生身の人間ができるはずがないと思っているでしょう。しかし、武術の基礎を学ぶことで再現可能なものも実は結構あるんです。私が開催する『格ゲーキックセミナー』というイベントでは中国武術の基礎を体験してもらい、誰でもゲームキャラのように動けるようになる面白さを味わえます。

 過去の私がそうだったように、自分に自信が持てなくて悩んでいる人は多いのではないかなと思っています。『こんな面白い動きが真似できるんだ』という体験をすれば、生きるのが少し楽しくなるんじゃないか。そう考えています。だから太極拳を広めるために太極拳の先生を目指しました。とはいっても、特定の地域に住む人たちのためだけの先生ではなくて、もっと広い世界に呼びかけたいんです。そのために、苦手だったSNSにも取り組み、顔を出して活動しようと決めたんです」

 ままならない日常を生きるとき、ゲームや漫画などのサブカルチャーが心の支えになることは少なくない。けれども、そこに身体性を持たせ、生きるのにより前向きなエッセンスを加えられたら、幸せをもう一歩手繰り寄せることができる。動画だけを見ればその美技にひたすら圧倒され、“神業”ともてはやしたくもなるが、イナミ氏の哲学はもっと深くて温かい場所に通じている。

<取材・文/黒島暁生>

【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki