コロンビア大卒のギャル准教授 アナーキーに宇宙を語る

 金髪に小麦色の肌という“ガン黒系ギャル”っぽい容姿で、最後は「ピース!」の決めゼリフ。軽快な語り口調で宇宙や物理、哲学について語る動画を配信し、SNSの総フォロワーは60万人超え。4年前にTikTokを始めた「天文物理学者・BossB」氏が最近話題だ。実はコロンビア大卒で、現在は信州大学工学部で准教授を務める“エリート”。今年2月には書籍『宇宙思考』(かんき出版)を上梓した。その生き様、掲げるメッセージとは?

──大学の准教授と伺い少し身構えてましたが、動画のままフランクな方で安心しました。

BossB:そうですか(笑)。私自身は肩書で互いの接し方を変えるのは好きじゃないです。「天文物理学者」と一応名乗っているのは、素性を明かさないまま動画で宇宙のことを話しても、「おばさんウィキペディア読んどんかい?」みたいなコメントが多かったから。もともと、コロナ禍で社会貢献活動ができなくなったのでSNSで発信しようとしたことがTikTokを始めたきっかけです。宇宙を知れば、社会の物差しは、今の日本の大人たちの限られた視点でつくられたものだとわかる。もっといろんな視点があると知れば、ひとりひとりあるがままで素晴らしいと信じることができる。そんなメッセージを伝えたいという思いがあります。

──動画ではガン黒ギャルルックで宇宙や物理の解説をしていますよね。その意外性が話題になりました。

BossB:実は、若いころからずっと西洋にいたからギャルがなんだかわかっていないです。向こうで暮らしていたころから髪の色を変えたり、丸刈りにしたりはしていましたが、このスタイルにしたのは日本に帰ってきてから。でも、昔から肌は黒いほうがかっこいい、と思っていますよ。アジア以外の国々では、茶色い肌が美の基準です。

──大学から20年以上、アメリカやヨーロッパで暮らしていたそうですね。

BossB:そう。高校までは日本だったけど、当時は「昭和の教育」の真っ只中で、誰かが校則を破ると連帯責任で正座させられたり、談合で生徒会員を決めたりしていました。そのくせ、授業では自由や平和、民主主義の表面的事実を教えるものだから、「論理的におかしい!」と先生が信じられなくなりました。日本はアメリカに戦争で負けて半強制的に民主主義にさせられたけど、当時の大人たちは形だけの民主主義を標榜し、本質を理解していなかったように思えて。その矛盾を子どもながらに感じていたのかな。「こんな国出ていってやる!」って。

ニューヨークアングラ文化に傾倒

──学生時代は、いわゆる問題児だったのですか?

BossB:YouTubeの動画では冗談半分に「女版・桜木花道!」とか言っちゃったけど、別にヤンキーではなかったです。でも反骨精神むき出し。高校生になるとアナーキズムの本を読んだりしながら、「自由ってなんだ? 真の教育を受けたい!」と叫び、宇宙について学ぶうちに「私が生きている意味は何? 生きるとは?」と内省しはじめました。それらの答えを求めてニューヨークと宇宙を選んだんですよ。ニューヨークがヤバそうでかっこいいから、というチャラい理由もありますが(笑)。

──大学時代はニューヨークアングラ文化やアナーキーな政治活動に興味を引かれたとか。

BossB:当時のニューヨークはまさにバットマンで描かれるゴッサムシティみたいな感じの街も残っていました。貧富の差が激しく、犯罪も多いのはアメリカの良くない面ですが、メインストリームから離れた怪しい雰囲気のストリートから、新しい文化や発想が生まれるような気がするんです。そんな当時のニューヨークが私は大好きでした。パンクロッカーアナーキストたちとつるんでは、夜な夜なパーティにも行ったし。当時、オランダなどでは富裕層が投機目的で購入して廃墟化した住居に住み着いて居住権を得る「スクワット」が認められていましたが、ニューヨークスクワットだらけでしたね。

──大学卒業後は研究者になられますが、その後は子育てに専念されたそうですね。

BossB:博士号取得後、研究者になりましたが、子どもが生まれた瞬間、育児に100%情熱を注ぎたいと思ったんです。研究所を辞めて7年間、子どもとカリフォルニアで幸せな時間を過ごしました。何か手当があったわけではありませんが、私は楽感的で、遠い将来のことはあまり細かく考えないタイプ。今自分が何をしたいかに忠実に、情熱の傾く方向に突き進んできただけです。

──収入源がないなかで、一体食い扶持はどのように……?

BossB:貯金もしていなかったから、貧乏生活でしたよ。アメリカ政府からフードクーポンをもらったり、当時大学院生であったパートナーの大学に行って、食べ放題の大学食堂にもよくお世話になりました。ヒッピー的なライフスタイルでノーメイクだし、髪の毛も伸びっぱなし。髪も7日に一回くらいしか洗っていませんでした。どーにかなると思っていたので、育児に全力を注いだ7年間は本当に楽しかったですね。あっ、でも今自分の老後を見据えると、もっと早くから金のこと考えておけばよかった(笑)。だから子どもにはお金のことも考えろとは言うけど。

──世間に流布するフェミニズム的な論調では、キャリアは続行すべきと言われています。

BossB:「は? 何それ?」って感じ。まず、社会一般では男性を基準として、それが「普通」とされていますよね。「普通」の男のように働くことがフェミニズムではない。彼らが定める枠内に当てはまらない「縁」にいるすべての人々の多様性と多様な生き方を奨励するのがフェミニズムだと私は思っています。だから、「女性はこうしなきゃいけない」なんておかしいし、私は拒絶します。だって、女性というか人の生き方は一つじゃないから。100%で育児をしてから、生きていくために仕事をする。あるいは新しい情熱に向き合い自分のやりたいことをやる。いつからでも遅くないし、こんな生き方もひとつのロールモデルであってもいいのではと思って発信しています。

◆日本の大学生はもっと遊ぶべき

──長い海外生活を終えて、日本に帰国したきっかけは?

BossB:きっかけは、パートナーとの離別です。私が好きなのは、アメリカというよりはニューヨークカリフォルニアですが、当時はパートナーの仕事の関係でミシガン州にいました。もともと嫌いな場所だったので引っ越すいいきっかけでした。日本で大人として生きたことがなかったから「日本に行ってみるか!」って感じで。それでたまたま自然の美しい信州大学に募集があったから、受けたという経緯ですね。

──アメリカでの暮らしが長いと、日本の常識に驚くこともありそうですね。

BossB:ありましたね。一つは日本の大学生がおとなしかったこと。「君たちの青春はこれでいいの? 暴れなきゃ!」って思いましたね。私が信州大学に着任したときは留学生担当でしたが、最初に信州大学の国際交流会館を24時まで使えるようにしてあげました。遊べ、ってことです。そしてもうひとつ驚いたことが、デモや政治活動に参加する若者が日本では少なかったこと。その理由の一つに、“抗議することは恥ずかしい”という日本の閉鎖的な空気があることを知りました。私は自分なりに世の中のためになることをしたいと考えていて、それを実行するのは良いことだと思っています。たとえば、コロナ前からエチオピアの貧困農村部で学校にさえいけない女子の支援活動をしていて、そうした社会活動が自分のエンパワにもなっています。

◆有名になりたくないアナーキー精神

──SNSの総フォロワー数が60万人超え。テレビの出演依頼もきそうですね。

BossB:いやいや、私は有名になりたくはないし、テレビ出演は全て断っています。メインストリームは私のアナーキー精神と相反するものがあるので。社会の「縁」にいる人々に、同じく「縁」からメッセージを届けたい。そのためにSNSを使っています。1990年代、インターネットができたときには「これこそがアナーキーだ!」と叫んだくらい。インターネット以前の海賊ラジオ的感覚です。今でこそSNS界はグーグルなどに牛耳られていて、人々は偏ったフィルターバブルにマインドコントロールされてしまっていますが、自由という基本精神は残っていると信じています。

──自由に意見するのは、日本で組織に属する人にとってはなかなか難しいです。

BossB:守るべき家族がいる人は、職場で意見することは難しいと感じるかもしれません。一方、年を重ねると立場が上になることも多いので、上の人間には下が意見を言いやすい土壌をつくってあげてほしい。発想が限りなく自由で創造性があるのは若者たちのほうだから。経験を重ねた人間には知恵がある。まあ、なかにはない人もいますが、ある可能性が高い。その知恵を未来ある若者たちの才能開花のためにどう使うかなんです。地位や権力のある中高年の知恵と若者の創造力とパワーが合体したときにイノベーションが生まれるのではないでしょうか?

──今後もSNSでそうした発信を続けていく予定?

BossB:そうですね。発信する手段としてSNSは続けていきます。あとは、日本のストロングポイントであるアニメや漫画を使って宇宙思考を広めたいし、全国ツアーもやってみたい。本が台湾語に翻訳されるから台湾や中国でも私のメッセージが届くのか試したいし、学者としては宇宙と哲学の複合領域で何か生み出したいですね。

──生涯現役ですね。

BossB:祖母も116歳まで自由奔放に生きたから、私も120歳まで生きますよ! ピース!



BossB
1971年生まれ。本名・藤田あき美。ニューヨークの工科大学に進み、’03年コロンビア大学大学院博士課程修了(天体物理博士号)。研究所勤めを経て、約7年間育児に専念。帰国後、’14年から信州大学工学部工学基礎部門講師。’22年から准教授

取材・文/櫻井一樹 撮影/武田敏将

―[インタビュー連載『エッジな人々』]―