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 現地時間の4月5日、アメリカ・ペンシルベニア州フィラルフィアのウェルズファーゴセンターで、世界最大のプロレス団体WWEの名誉殿堂「ホール・オブ・フェーム」の授賞式が行われた。

【映像】涙と感動の約5分半スピーチ

 今年、WWE殿堂入りしたのは、ローマン・レインズ率いるブラッドラインの特別顧問で、90年代に伝説の団体ECWのプロデューサーとしてプロレス界にハードコア革命を起こしたポール・ヘイマン。元WWEタッグ王者コンビで、1985年の「レッスルマニア1」でも闘ったバリー・ウインダムマイク・ロトンドのUSエクスプレス。

 さらに元ボクシング世界ヘビー級王者で、1976年にはアントニオ猪木と格闘技世界一決定戦を闘い、「レッスルマニア1」スペシャルゲストレフェリーを務めたモハメド・アリ。黒人プロレスラーの先駆けで人種差別撤廃運動でも知られるサンダーボルト・パターソン。ザ・ロックの祖母で、ハワイプロレス界の女性プロモーターの先駆けとなったリア・メイビアらが選出。

 「レッスルマニア」40回記念大会にふさわしい豪華な顔ぶれが殿堂入りする中、日本プロレス界が誇る“女帝”ブル中野も日本人プロレスラーとして史上5人目のWWE殿堂入り(レガシー部門をのぞく)を果たし、授賞式に出席した。

 インダクター(殿堂入り紹介者)であるWWE参戦時(1994年~95年)のライバル、アランドラブレイズの紹介を受け、ブル中野は黒のドレスに身を包み、顔には現役時代さながらのペイントをほどこし、現役時代とは違うやわらかな表情で入場。「お久しぶりです。この賞を受け取れることを本当にうれしく思います。ずっとずっと待っていました」と、流暢な英語でスピーチを始めた。

 ブルは1994年、26歳のときに渡米し約1年間WWEに定期参戦。「最高の経験をしました」と振り返ると同時に、「生活は本当に大変で、プロレス以外何も知らなかった私は辛い経験をしました」と語り、英語が喋れない中、携帯電話もない時代に自分でレンタカー飛行機で移動し、ホテルを予約して全米をサーキットした苦労話を披露。「それでも、たくさんの友人と、みなさんの手助けがあり遠征を続けることができました」と、感謝の言葉を述べた。

 そして「プロレスは世界共通です。英語がしゃべれなくとも、同じ空間でリングでともにすごす、そこで私は生きていると感じました。それは夢のようでした。私は魂を込めて、心を込めて闘いました」と語り、ライバルのメドゥーサアランドラブレイズ)に「一緒に闘ってくれたこと、心から感謝します」とお礼を述べ、一瞬、天を見たあと、当時マネージャーを務めてくれた故ルナ・バションにも感謝の言葉を述べた。

 そして最後、身振り手振りを交えながらWWEユニバース(ファン)に対して「ブル中野を受け入れてくれてありがとう。私の心を貫きました。私たちはプロレスを通じて永遠に繋がっています」と涙を浮かべながら感謝の言葉を述べると、ここからは語気を強め、「もし生まれ変われるようなことがあれば、またブル中野として生まれ変わりたい。そして、WWEのリングに戻ってきます。みなさんとまた、お会いできるのを楽しみにしています。この賞は私の宝物です。どうもありがとうございます」とスピーチを締めくくると、場内約2万人のオーディエンスがスタンディングオベーションで祝福した。

 アリーナを感動に包んだブル中野の英語でのスピーチは約5分半にも及んだ。WWE殿堂入りが決まった際に行ったインタビューでブルは、「文章を読み上げるのでは、私の感謝の気持ちが伝わりきらない。必死に暗記してすべて英語でスピーチします」と語っていたが、まさに有言実行WWE遠征を始めたときは、英語がまったくできなかったブルが、心を込めて英語でメッセージを送った。

 ブル中野は2012年に引退式を行った際も「プロレスラーブル中野」をイメージを壊さず引退するために、15年間リングを離れ50kg台になっていた体重を再び現役時代の100kgまで戻す大増量を行い、引退後また60kgまでダイエットしたほどのプロ意識の持ち主。

 インタビューでは「日本で(WWWA世界シングル)チャンピオンになり、メキシコCMLL、アメリカでWWEチャンピオンにもなり、最後にWWE殿堂入りすることができて、これでようやく終われるなっていう感じですね」と語っていた。

 WWE殿堂入り式典で、プロレスラーとしての最高の締めくくり方、後輩たちのお手本となる姿を見せて、ブル中野はここに完結した。

文/堀江ガンツ

「私たちは永遠にプロレスを通して繋がっている」“女帝”ブル中野、涙と感動の約5分半スピーチ 日本人女子初のWWE名誉殿堂入り快挙