現在のJR中央線は、いまから135年前に新宿―立川間で最初に開業しました。現在は15の途中駅がありますが、その当時は、たった3駅だけ。最初にできた途中駅は、ちょっと意外かもしれませんが、その後の鉄道の発展を促しました。

135年前に開業した中央線、最初の駅とは

JR中央線が開通してから、今年で135年を迎えます。1889(明治22)年4月11日、私鉄の「甲武鉄道」として、新宿―立川間約27kmが開通したのが始まりです。

現在の東中野付近から立川まで長い直線が続くルートは、「当時の担当者が定規で1本線を引いて決めた」という逸話が昔から伝えられます。真偽のほどは定かではないものの、ほぼ“何もない”武蔵野の純農村地帯を線路が貫いていたことは、当時の地図を見ても想像できます。

いまでは東京23区西部と多摩地区の大動脈として、この区間には15の途中駅があります。しかし、開業当時はたった3駅だけしかありませんでした。

その3駅は、「中野駅」と「武蔵境駅(当時は境駅)」、そして「国分寺駅」です。

江戸時代からの幕府直轄地であり、今では一大ターミナルとなった中野駅はわかるとして、そこから一気に11kmも離れた武蔵境、さらに約6km離れた国分寺の2駅は、ちょっと意外かもしれません。

しかし、この2駅は黎明期の中央線に“なくてはならない”2駅であり、そもそも八王子までの開業を目指していた甲武鉄道が、わざわざ立川までを約2か月先行して開業した理由のひとつでもあるのです。

それは「桜」のためです。武蔵境駅国分寺駅のあいだには、北側に並行して「玉川上水」が流れています。その上水沿いに植えられた、小金井橋を中心とした東西計約6kmの桜並木は、江戸時代から「小金井桜」の名で轟いた名勝でした。

江戸市民からは遠すぎる存在だった小金井桜が、汽車でかんたんに行けるようになったというアピールは、大いに受けたようです。人々は境駅から、上水沿いを6km散策して、国分寺まで向かったといわれ、当時の雑誌などでもその人気ぶりを知ることができます。

周辺の農民は桜の時期には茶屋を営み、1年分の農業収入に匹敵するほどの稼ぎだったという話もあるほどです。

「桜狂騒曲」が鉄道を発展させた!?

早くから開設された境駅と国分寺駅は、当初から交通の要衝としても変貌していきます。

境駅の開設と同時期に、駅から北の田無までを直線的に結ぶ「境新道」が開通しています。当時の周辺で随一の“街”だったのが、青梅街道の宿場として発展した田無で、境新道には駅馬車も運行されています。この境ー田無間は、いまでも路線バスの一大幹線ルートです。

一方の国分寺駅には、5年後に「川越鉄道」が開通し、乗換駅となります。川越鉄道は現在の西武国分寺線新宿線にあたり、新宿方面から川越(現・本川越)駅まで直通運転も行われました。

大正時代は「いろいろな桜ルート」が誕生

大正時代に入るとますます小金井桜の賑わいは熱を帯び、1924(大正13)年、桜シーズンの仮乗降場として武蔵小金井駅が開業し、2年後には駅に昇格。小金井桜の中心地である小金井橋に最も近い駅となりました。

さらにその2年後の1927(昭和2)年には、西武鉄道(現・西武新宿線)の花小金井駅小金井橋の北側に開業。この駅名も小金井桜にちなんだものです。

1928年の春には、ついに国分寺駅から北へ向かって小金井桜を“突っ切る”鉄道として、多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)が開業。当然ながら旅客誘致に小金井桜を猛アピールしました。

このように、小金井桜は多摩地域の鉄道の発展に大きくかかわっています。「鉄道で花見に行く」という風物詩を生み出した武蔵境と国分寺の2駅が、その原動力になったと言えるかもしれません。

JR中央線。今年で開業135年となる(画像:写真AC)。