2022年10月に79歳で亡くなったアントニオ猪木さんの「最も信頼した弟子」として知られるプロレスラーの藤原喜明。猪木さんの死以降、口を閉ざし続けてきた藤原の独白をまとめた『猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実』(宝島社)には、猪木さんとの秘話と愛憎のすべてがまとめられている。新日プロ草創期、異種格闘技戦、UWFと新日への出戻り、引退、そして死に秘められた真実までをつづった同書から、「道場破り」にまつわるエピソードを、一部抜粋して紹介する。

【貴重写真】技をかけられ苦しむ藤原…昭和61年の「猪木vs藤原戦」

■「道場破りが来たら半殺しにするもの」

 当時の新日本は、まあサル山の縄張り争いも大変だったけど、猪木さんが異種格闘技戦をやっていた時代だから、外から挑戦される。道場破りみたいなのがずいぶん来てたよ。面白半分で来たヤツもいたけどな。まあ、正直、この話はあまりしたくはない。楽しい話じゃないから。結局、そういう時は俺が相手をしなきゃいけなかった。それはしょうがないもん。みんな急に「風邪(かぜ)ひいた」とか言っていなくなるんだから。道場破りが来るたびに、風邪が流行(はや)ってた(笑)。

 俺だって新日本に入ってまだ4年くらいだよ。でも俺しかいないから、やるしかないんだよ。いい勉強にはなったよ。道場破りは、そりゃケンカだからルールも何もない。不思議なもんで、ああいう時にレフェリーがいて、「はい、こっち勝ち!」って言ったところで、負けたほうは1週間くらいすれば、「いや、ホントは俺のほうが勝ってたんじゃねえか?」って思ったりするんだよ。それでもって半年もすれば「勝ってたな」、1年もすれば「圧倒的に俺が勝ってた」って、そういうふうになるもんなんだよ。なぜか記憶が塗り替えられていく。それで周囲に「新日本の藤原に勝った」なんて言われたら、たまったもんじゃないだろ。だから相手に何か残しておかないとな。永久に肘が痛いとかな。俺はそういう覚悟でやってたよ。

 これはゴッチさんも同じ考え方なんだよ。グレイシー一族はチョークスリーパーで落とすのが得意だけど、ゴッチさんはチョークが嫌いで、基本的にやらないんだ。なぜなら、相手に「ギブアップ」と言わせないと気が済まないから。チョークで落とされた相手はギブアップしてないから、しばらく経つと「いや、俺は負けてなかった」なんて思うもんなんだよ。だからゴッチさんは、必ず相手の口から「参った」と言わせて、負けを認めさせるんだ。

 ちょっと話がそれたけど、道場破りっていうものも、今の総合格闘技のスパーリングみたいにタップさせて勝ちましたっていうわけじゃない。タップもへったくれもない。だってレフェリーがいないんだから。金的を蹴ろうが目潰しをやろうが、相手が「参った」って言うまでやるんだから。「参った」って言ってもやってたかもな(笑)。ファンやマスコミが、安易に「シュート」だなんだって言ったりするけど、シュートって本来そういうこと。だってシュートってうつことだから。つまり殺すか、半殺しにするかだもんね。今のヤツは何も知らないもん。あの頃の新日本の道場の中は、虐待だとか殺人未遂だとか、そんなところだったよ。

 ある意味、娑婆(しゃば)じゃないというか、世の中のルールから逸脱した世界だった。練習だって、道場は夏でも窓を閉め切って、そこでスクワット1000回やっても「水を飲むな!」だからな。今、「パワハラ」って言葉がよく使われるけど、パワハラの3乗、4乗くらいなものだったよ。小鉄さんなんか捕まって死刑だよ。当時は「小鉄の野郎、いつか殺してやる!」と思ってたわけだからな。夜(よ)な夜(よ)な包丁を持ち出したりして(笑)。「アイツ、何をするかわかんねえぞ」って思わせておくのも抑止力だから。練習が終わって夜になると出刃(でば)包丁で、道場の裏にあった白樺(しらかば)の木を「小鉄の野郎、殺してやる!」って言いながら、ブスッと刺すんだよ。そしたら白樺が半年くらいで枯れちゃってな。抑止力のためだったけど、白樺には申し訳ないことしたな(笑)。

 練習でもそうだよ。たとえばスクワットを1000回やるだろ。そりゃ苦しいけど、苦しいのを我慢して、みんなより5回多くやったりしてな。そういうのを積み重ねていって、サル山の4番になり、3番になるっていうね。ホントそういう世界だったよ。今では考えられないだろうね。だからこそ面白かったんだろうな。

 当時、新日本には1年に100人ぐらい入門してきたけど、俺のあとは3〜4年誰も残らなかったからな。1人もだぞ(笑)。ずいぶん離れて佐山か。俺と佐山の間は1人もいねえんだよ。すごい世界だったよ。みんな、「俺こそ!」っていうヤツばっかり来るんだよ。俺がいちばん下だった期間は4年くらいあったから、やっぱり抑止力を高めていかないと、俺だって生きていけなかったよ。

 でも、そこで生存能力とか生命力が鍛えられたんだろうな。俺もよくこの歳まで生き抜いてきたと思うよ。みんなよく言うじゃん。「若い時に戻りたい」って。俺は嫌だもん。今がいちばん幸せだもん。ホントだよ。20代に戻りたいってみんな言うけど冗談じゃないよ。あの時代の新日本道場での日々をもう1回やれって言われても嫌(笑)。あんなのもう1回やるなら、死んだほうがマシ! ホント、戻りたくないよ。何度も言わせてもらうけど(笑)、今がいちばん幸せなんだよ。

 少なくともさ、「今日殺されるかもしれない」って思わなくて済むもんね。やっぱり死ぬとしたら布団の上で死にたいもんな。銃で撃たれたり、棍棒でぶん殴られて死にたくはないよ。ホントに。まあでも、あの頃の新日本の道場が、抜群に面白かったことは確かだよな(笑)。

■藤原喜明(ふじわら・よしあき) プロフィール
1949年岩手県生まれ。72年に新日本プロレスに入門。新人時代からカール・ゴッチに師事し、のちに“関節技の鬼”と呼ばれる。84年に“テロリスト”としてブレイク。同年7月に第一次UWFに移籍し、スーパー・タイガー佐山聡)や前田日明らとUWFスタイルプロレスをつくり上げる。その後、新生UWFを経て、91年に藤原組を設立。藤原組解散後はフリーランスとして新日本を中心に多団体に参戦。2007年に胃がんの手術をして、今も現役レスラーとして活躍中。

笑顔で佐山聡と対談する藤原喜明(『猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実』宝島社刊より)