「恥を知れ! 恥を」

 ’22年6月、居眠り議員らに対してこう怒りをあらわにした若き市長の姿が大きな注目を浴びた。人口2万7000人の広島県安芸高田市の市長を務める石丸伸二氏だ。その後、市長と市議会のバトルは日を追うごとに全国の関心を集めるようになり、今では同市の公式チャンネルの登録者数は23万人を突破している。市長に就いて約3年半。石丸氏は議会とぶつかりながら何をしようとしているのか?

◆市議会との「対立」という表現は不適切

――恫喝疑惑や副市長選任を巡る問題、道の駅の改修事案、『市議会だより』の予算停止など……あらゆる面で市長と市議会との対立が深刻化してますね。

石丸:「対立」という表現は不適切だと考えています。互いに正当な主張をして初めて成立するものだからです。一方、“反市長派”と呼ばれる安芸高田市議たちの主張は根拠を欠き正当性がありません。道の駅の改修については、事前調査にかかる450万円の費用を専決処分で捻出したことを「議会軽視だ」と主張し、それをもって実際の改修工事にかかる3300万円の予算案を否決しました。改修の意義など考えず、市長のやり方が気に食わないからという理由だけで、反対したのです。

――その予算案否決後に、市議会は問責決議案を可決した。

石丸:おかしな話ですよね。そのすぐあとに提出された私に対する不信任案は否決しているんですから。私が市長に不適任だと主張するなら、当然、不信任案を可決させて辞職に追い込むべき。ただ、可決されたら市長は議会を解散できる。つまり、反市長派は「解散市議選挙が行われたら自分たちは落選する」と考えて、不信任案を否決した。

――遡ると、市長が居眠り議員を糾弾したことがきっかけでは。

石丸:市長になってすぐに安芸高田市議会が機能不全に陥っていることには気づきました。政治が腐敗しきっていた。居眠り議員はその象徴じゃないですか。だから、政治再建のために、これを話題にしていこうと考えた。燃やせるものは全部燃やそうと。

◆安芸高田市・石丸市長の経歴を辿る

――もともと喧嘩っ早い性格?

石丸:喧嘩っ早い? いや……小さい頃から非常に真面目な子供だったと思います(笑)。ただ、小学校2年生のときから先生は「伸二くんは自分にも厳しいけど、他人にも厳しい」と三者面談で母に話していたようです。

――その厳しさは両親の影響?

石丸:父は厳しかった! 行儀が悪いとか、約束を守らないとか、事あるごとに怒られました。拳が飛んでくることもあった。

――昭和のげんこつ親父!

石丸:実際には普通の田舎のおじちゃんですよ。中卒の。そのせいか、中学2年生の終わり頃に父から「お前はこの先どうするんだ?」と聞かれました。普通は、当然のように高校に進学するじゃないですか。進学しない道もあるの?って自分なりに考えて、「高校に行かせてください」とお願いしましたけど、そのときから自分で選択するよう求められた。自分で決めた以上、頑張らざるをえないから、広島市内の高校へ進み、最終的に京大を目指しました。

――大学卒業後には銀行マンに。

石丸:裕福な家庭ではなかったので、大学は国公立しかないと考えていた。さらに、安定して稼げるようにと経済学を専攻し、金融機関を目指しました。

――いつから政治に関心を?

石丸:入行から3年目にエコノミストになってからですね。経済は政治に紐づいているので。日本はかつて「経済一流、政治三流」と言われましたが、政治三流なら経済も三流になっていく。日本の失われた20年、30年の背景にあるのは、政治の問題だと考えるようになりました。

――それで安芸高田市長に?

石丸:たまたまきっかけが生じた、というのが本当のところ。東京で仕事をしていた’20年7月に、あの“河井克行事件”で当時の安芸高田市長が辞職して、7月7日には「なお、現在、市長選に立候補を表明しているのは副市長だけ」というニュースが流れたんです。「無投票で市長に選出されそうだな。誰か出ろよ」と思ったんですけど、その直後に自分が出ればいいかと思って飛んで帰りました。

◆市長選のあとに恋人と別れて……

――誰かに相談した?

石丸:しなかったですね。7月8日には会社に退職の連絡をして、両親には地元に帰ってから選挙に出ると伝えました。

――お付き合いしていた人は?

石丸:……いましたね。市長選に出ると話したときはびっくりしてました。ただ、その少し前に彼女に「あなたは、いつか何者かになる気がする」と言われていて、その評価が出馬の後押しになったと感じています。

――その後、彼女とは……?

石丸:別れちゃいましたね。僕は当選して、4年間は安芸高田市を離れられなくなった。出馬表明から選挙までの約4週間も、忙しすぎて連絡が取れなかった。当選後に会うと、「おめでとう」と我がことのように祝福してくれたけど、喜びきれないところもあったと思う。

――安芸高田市に連れてくるという選択肢はなかった?

石丸:彼女を連れてきていたら、日本の損失になっていたでしょう。彼女は今、アメリカで仕事をしているんです。しっかり“4番”として活躍している。結果論ですが……心から(あのとき別れて)よかったと感じた。

――今の市長を取り巻く環境は「よかった」とは言い難い。

石丸:そうですか? 市長選の公約には「政治再建」「都市開発」「産業創出」の3つを掲げましたが、この1期目で政治再建はほぼ達成できたと考えています。

――そうは見えませんが……。

石丸:僕は彼ら(反市長派)が改心するとは一ミリも思ってないんです。だから、機能不全を解消するには、議員が入れ替わるしかない。政治再建とは市民の意識改革とイコールなんです。3年半弱で安芸高田市民の意識は間違いなく変わりましたから、今年11月の市議会議員選挙で入れ替わることを期待しています。

――1期目の誇れる成果は?

石丸:やはり、財政再建ですね。

――数字で表せる成果は?

石丸:僕が市長に就任する以前は5年連続で財政赤字を垂れ流していたのですが、一時的に黒字化を達成するなど財政の悪化には歯止めをかけることができました。わかりやすいところで言うと、ふるさと納税は2億円から4億円へと2倍に増え、YouTubeの市公式チャンネルで毎月200万円の広告収入が入るようになりましたね。

◆安芸高田市の名を日本に残すため

――それは安芸高田市の発展に結びついていると言えるのか?

石丸:政治再建はほぼ成し遂げましたが、都市開発には10年、産業創出にはさらに10年以上かかると考えています。ただ、それでも人口10万人以下の都市は20年後にかなり消滅するでしょう。そのことは市長就任以来、正直に市民に伝えてきました。’14年に増田寛也元総務相の「増田レポート」で、全国1700自治体のうち896が2040年までになくなる“消滅可能性都市”に該当すると発表されました。安芸高田市もその一つです。

――消滅することを念頭に、市長を務めているということ?

石丸:もちろん、いつまでも安芸高田市が生き残ってほしい。でも、いつかは必ずなくなるので、将来の日本に安芸高田市の何かを残したいと思ってやっています。例えば、サンフレッチェ広島や神楽を市の特色として押し出すようにしたのも、そのため。サンフレッチェの練習場が市内にあるんです。いつか日本代表がW杯で優勝を果たしたときに、サンフレッチェ選出の代表選手が「安芸高田市で育った」と言ってくれたら本望。もう一つの神楽は、皆さんにぜひ一度見てもらいたい。太平洋戦争後、神楽は禁止されたんですけど、当時の安芸高田市の人たちは「儀式でなく舞踊なんだ」と定義して、ミュージカルのように神楽を昇華させた。うちの神楽は、昨年のG7広島サミットでも、各国首脳にお披露目されたんです。

――そこまで考えていながら、いまだに今年の市長選への出馬を明言しないのはなぜか?

石丸:単純に決めてないからです(笑)。政治再建はほぼ成し遂げたので、この先のことは僕でなくてもできるんじゃないか?とも思う。ゴルバチョフ(ソ連最後の最高指導者)の「収穫のときに立ち会えないかもしれないが、できるだけ多くの種を蒔こう」という言葉がすごく好きなんですよね。1期目でたくさんの種を蒔くことはできたので、今後のことはおいおい考えていこうと思っています。

 国政進出の可能性を問うと、「その可能性はゼロ」と即答する石丸氏。若き改革派市長の身の振り方にも注目したい。



Shinji Ishimaru
1982年広島県安芸高田市生まれ。京大経済学部卒業後、三菱東京UFJ銀行に入行。為替アナリストとして働いた後、’20年の安芸高田市長選挙に出馬して初当選。政治再建を掲げて、議会やメディアとのガチンコ勝負を挑む姿が話題になり、市公式YouTube登録者数は23万人に

取材・文/池垣 完(本誌) 撮影/初沢亜利

―[インタビュー連載『エッジな人々』]―


安芸高田市長:石丸伸二