シンガポールを拠点に活動するアーティスト、ホー・ツーニェン。最新作を含む7点の映像インスタレーション作品からなる個展「ホー・ツーニェン エージェントのA」が東京都現代美術館で開幕した。

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文=川岸 徹

東南アジアとは何か?

 一口に「東南アジア」と言っても、各国の歴史や文化、言語、政治システムはまったく異なる。宗教も大きく違う。仏教(道教を含む)が主流のシンガポール、タイ、ベトナムカンボジアミャンマーイスラム経が主流のマレーシアインドネシア。約300年に及ぶスペイン統治が続いたフィリピンは国民の9割以上をキリスト教徒が占める。さらに最近ではミャンマーでの政変やロシアウクライナ侵攻などにおける政治的立場や考え方の違いから、ASEAN加盟国の分断が加速していると聞く。

 なのにどうして、これらの国々は「東南アジア」と一括りにされるのか。ホー・ツーニェンは説明する。

「この地域で暮らす人々は、自分から東南アジアと言ったことはありません。東南アジアという呼称が使われるようになったのは、第二次世界大戦時に連合軍がこの地域を日本の占領・支配から解放させるための作戦上の用語として使い始めたのがきっかけです。私は東南アジアの歴史や国のなりたち、思想、文化に興味をもつとともに、日本によるアジアの植民地支配にも大きな興味を抱きました。そうした興味や関心を元に徹底的なリサーチを行い、映像や映像インスタレーションなどの手法を用いて作品を制作しています」

 ホー・ツーニェンはシンガポールを拠点に活動するアーティスト。彼の作品は世界各地のビエンナーレや映画祭などで公開され、大きな反響を集めてきた。日本とも縁が深く、国際舞台芸術ミーティング in 横浜(2018年、2020年)、あいちトリエンナーレ2019(2019年)、山口情報芸術センター[YCAM](2021年)、豊田市美術館(2021年)で新作を発表している。そんなホーの個展「ホー・ツーニェン エージェントのA」が東京都現代美術館にて始まった。

最新作《時間(タイム)のT》を鑑賞

 展覧会ではホーが監督と脚本を務めたデビュー作《ウタマ―歴史に現れたる名はすべて我なり》(2003年)から、最新作《時間(タイム)のT》(2023年)まで、7点の映像インスタレーション作品が上映されている。いずれも見逃せない作品だが、何はおいても最新作を見たい。鑑賞疲れする前に、60分におよぶ《時間(タイム)のT》を見ることにした。

《時間(タイム)のT》は、奥と手前に重ねるように配置した2面のスクリーンを使った映像作品。奥のスクリーンにはホーが集めた過去の事件や映画などの映像が映し出され、手前のスクリーンには元の映像をアニメーション化したものが投影される。このスクリーン“2枚重ね”の手法により、現実と虚構が交差した幻想的な空間にいるような気分になる。あたかもホーの思考の中をさまよっているかのような。

 ストーリーはあるようで、ないような。時間に関する断片的なイメージが、次から次へと現れては消える。素粒子の時間、生命の寿命、宇宙における時間。そうしたものがシークエンスに編成され、60分間にわたって「時間とは何か」を考えさせられる。

 例として、1シーンをあげてみたい。カゲロウに関するエピソードだ。

「350万年以上の進化期間を経て、カゲロウは生の芸術を完成した。卵から生まれ、幼虫となり、生殖できる成虫となって水から出て、少なくとも400の卵を産む。その全てが2日以内に行われる」(《時間のT:タイムピース》(2023)より引用)

 その2日は短いのか、長いのか。そもそも時間とは何なのであろうか。アウグスティヌスは言った。「いったい時間とは何でしょうか。 誰も私に尋ねないとき、私は知っています。 尋ねられて説明しようと思うと、知らないのです」

徹底的なリサーチを重ねる

 永遠に答えられない疑問、時間とは何か。ではなぜ、ホー・ツーニェンは「時間」をテーマに作品を制作しようと思ったのだろう。ホーはこんなことを話してくれた。

シンガポールでは2度、時間が変わりました。最初はグリニッジ標準時が制定されたときで、30分の時間調整が行われました。2度めは日本による占領時でした。東京の時刻と合わせるように求められ、シンガポールの歴史は止まり、2時間を失ったのです」

 同じく本展で公開されている《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》(2021年)という映像作品は、大東亜共栄圏建設について考察した「京都学派」がテーマ。西谷啓治、高坂正顕、高山岩男、鈴木成高の4人が、真珠湾攻撃直前の1941年に座談会「世界史的立場と日本」にて意見を交換する様子が描かれている。鑑賞者はスクリーンの中に速記者という立場で入り込み、京都学派の思想の渦を体感することになる。

 ホーの作品には第二次世界大戦時の出来事に触れたものが多い。だが、そこに反日感情を感じることはない。ただ事実を徹底的にリサーチし、集めた情報をベースに尽きることのない思考を重ねていく。

「20年前に小津安二郎の映画に夢中になりました。調べてみると、小津は1943年シンガポールへ渡り、『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』というプロパガンダ映画を撮ることになったといいます。でも、映画が完成することはなかった。なぜ完成しなかったんだろう。そういうふうに思考を広げていくのです。《時間(タイム)のT》では、小津映画の『晩春』に出てくる“リンゴを剥く”シーンをオマージュしました。娘の結婚を経て、2度と戻れない時間の流れを表しているようで印象的なシーンです」(ホー・ツーニェン)

 

許そう、しかし忘れまい

 ホーの作品を見ると、自分の勉強不足を思い知らされる。日本軍が行った虐殺、いわゆるシンガポール華僑粛清事件について深く学んだことはないし、シンガポールの時計を2時間止めたことも知らなかった。

 シンガポール人が日本占領時代のことを学校教育の現場などで語る時に、よく使われる言葉に「Forgive, but never forget」というのがある。「許そう、しかし忘れまい」。忘れてはいけないのは日本人のほうだろう。

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