『家事か地獄か 最期まですっくと生き抜く唯一の選択』の著者である稲垣えみ子さんは、会社を辞めたことをきっかけに広い家から新居に引っ越すことに。しかし、狭い新居の台所収納はそれまでの4分の1程度しかなく、大々的に台所用品を絞ることになりました。不便になるかと思いきや、その片付けは「永遠に美味しい生活」に繋がっていたのです。そんな片付けから始まる実体験を著書から一部抜粋してご紹介します。

引っ越し先の収納に合わせて台所用具の4分の3を処分

まずは私が台所のものをどのくらい捨てたのかを書く。

ちなみに私は元々料理マニアだったので、それまで住んだ家は「クロゼットが広いこと」に加えて「台所収納が充実していること」が絶対条件。ゆえに新居の台所の狭さは本当にショックだった。

シンクとガス台の下、そして壁に小さなもの入れがあったものの、ざっくり言って、収納スペースはそれまでの4分の1といったところ。となると、鍋だの食器だの食材だの調味料だの、全てひっくるめて4分の3は処分しなければならない。

4分の3……。これは、えらいことだ。

これが服であれば処分したところで心が痛む程度だが、台所用品を処分するということは、早い話が「今まで当たり前に食べていたものが食べられなくなる」ことを意味する。

鍋や調理器具や香辛料を処分してしまったら、圧力鍋で炊いたモチモチの玄米ご飯、大鍋でゆであげるアルデンテのスパゲティ、小さなセイロで蒸しあげた餃子、フードプロセッサーで作る高野豆腐ニンジンそぼろ、エキゾティックな香辛料を使って作るアジア料理……みたいなものを食べる日はもう二度と来ない。

いやいやそんなことってあり? いくら会社を辞めたからって、自力で好きなものを作って食べることすらあきらめなきゃいけないなんてあんまりではないか。

食べることは間違いなく日々生きるエネルギー源である。それが削られるとなれば、我が幸せの相当な部分がざっくりとえぐり取られるような気持ちにならずにいられなかった。

そこまでして生きながらえる人生に一体何の意味が?

そう。これこそが、台所の断捨離メジャーにならない理由ではないだろうか。それをやってしまうと、あまりに人生の根本的なところに影響を与えすぎてしまうのだ。失うものがあまりに大きすぎる。それはいくら何でもやりすぎと思うのが当然であろう。

でも追い込まれた私には他に選択肢はなし。結局以下のようなことになった。

江戸時代の貧乏長屋の台所か?

まずは、調理道具。

・鍋……小鍋と小フライパン一個を残して、全捨て

・調理家電……全捨て

おたまやヘラなどのキッチンツール……しゃもじ一個残して、全捨て

・カトラリー……箸二膳と、スプーンフォーク一個ずつを残して全捨て

続いて、調味料類。

調味料……塩、味噌、醬油を残して全捨て

・香辛料……コショウ唐辛子とカレー粉を残して全捨て

まさに江戸時代の貧乏長屋の台所である。っていうかそれは当然で、まさしくそれをモデルとして何を残すかを決めたのだ。

これが何を意味するかというと、私はこれから、江戸時代の貧乏長屋のような食生活を生涯続けるということである。

上記の「残したもの」を見ていただければわかると思うが、これで作れるものといえばまさに「ご飯、味噌汁」。あとは、おひたしや煮物などの簡単地味な惣菜。私はそんなものだけをこれから死ぬまで食べ続ける人生を送ることを断腸の思いで決断したのである。

しつこいようだが、モチモチ玄米ご飯もアルデンテも蒸したて餃子もエスニックもなしである。

いうまでもなく、このような人生の一大事をやすやすと決断できたわけではない。ウジウジ悩み、がっくりし、何度も気持ちがぼきぼきと折れた。

でも最後になんとか自分を納得させることができたのは、以下のように気持ちを整理したためである。

もしご馳走が食べたくなったら、つまりパエリアとかアルデンテのスパゲティとかコロッケとかがどうしても食べたくなったら、店で食べれば良いではないか。これまではそのようなご馳走を自分の力で作れることを誇りに思って生きてきたが、餅は餅屋。ご馳走こそ、その道の専門家が作った最高のものをいただけば良い。

そうだよ。これまで毎日ご馳走を食べることを目指して生きてきたが、物事にはハレとケというものがある。日常はケであって良いではないか。その「ケ」があるからこそ、たまの「ハレ」がより嬉しい。

これからは、そんなふうにメリハリのある食生活を新たにスタートさせるのだ。私は決して負けたわけでも惨めなわけでも転落したわけでもないんだー! と、無理やり自分を納得させたのだった。

で、現実にやってみて一体どうだったのか。

予想もしていなかった新たな世界への入り口

美しいレシピ本、あるいは動画サイトなどを見て、あーこれ美味しそう! これも食べてみたい! と、毎日違う世界のゴチソウやら、絶品ナントカやら、無限ナントカやらを作って食卓にズラズラ並べる―それはもはや現代日本の「ごく普通の食卓」であります

ってことで、来る日も来る日も「メシ・汁・漬物」を食べて生きていると言うと、すごい勢いでドン引きされる。どこぞの宇宙人あるいは不審者でも見るような……ということを、この7年間何度繰り返してきたことか。

必ず言われるのが、コレ。

「それって……飽きません?」

うん。わかりますよ! 確かに飽きるとすれば考えただけで辛そうだ。もちろん飽きたとて餓死するわけではないが、だからといってドウデモいい問題かというと全くそんなことはない。辛いことばかりがはびこるこの世の中で、日々美味しいもの、好きなものを食べることは万人に残された数少ない希望だ。

それを、餓死しない程度の最低限のものだけをボソボソ食べて生き続けるなど、まるで何かの刑罰のようではないか。

で、実際どうなのか?という話であります

それは、予想もしていなかった新たな世界への入り口であった。

「ノリ」一つで大コーフン…「ケ」こそが「ハレ」を生む

最初に起きたことは、毎日の「ケ」の食事が、飽きるどころか、逆に「おおっ」という楽しみで満たされ始めたということである。

というのは、献立が地味すぎるがゆえに「ちょっとしたこと」が全部「おおっ」になるのだ。わざわざ外食など行かずとも、この「メシ・汁・漬物」に一品を加えただけで「おおっ」となるのである。

で、この一品っていうのが、ノリ、とか、納豆、とか、大根おろし、とか、そういうものなのですよ。そんなものが全部「おおっ」。よく考えればそれも当たり前で、「空腹は最大の調味料」って言葉があるが要するにそういう類いのことである。

毎日春巻だラザーニャだタイカレーだ鳥のカラアゲエビフライだとめくるめくご馳走が日々取っ替え引っ替え食卓に並んでいればノリが出てきたってなんとも思わないでしょうが、っていうかノリなんぞ地味すぎて出番すらないでしょうが、毎日おかずは「漬物」とくりゃ、ノリなんて出てきた日にゃあ、あらまあ、なにこの鼻の穴が膨らみまくるような香りは? なにこのいい感じのパリパリ? なにこのご飯との絶妙のマッチング……? っとなるのである。

こうなってくると、肉屋で買う揚げたてコロッケとか、豆腐屋で買うがんもどきなんてことになれば、異次元のお祭り騒ぎ。つまりはですね、私、当初は単に、これからは「ケ」と「ハレ」を分けるのだと考えれば「ケ」の地味な食生活も耐えられるはずと思っていたんだが、そんな次元の話じゃなかった。

「ケ」こそが「ハレ」を生むのだ。「ケ」なくして「ハレ」なし。これまでは毎日がハレだったので、ハレはハレでもなんでもなかった。単なる当たり前として日常に埋もれていた。それが、日常の中に「ケ」を作り出したことで、高価でもなんでもない世間のフツウの食べ物が、そして自分の中でもまるっきり軽視あるいは無視していた食べ物が、次々と私の中で絶大なる「ハレ」の食べ物と化したのだ。

なんでもゴチソウ、なんでもアリガタイ。いや……これってめちゃくちゃお得ではないか! さらにこうなってくると、これまでは様々な情報を集めて電車に乗ってレストランなどにいそいそと出かけて「美味しいもの」にありつこうと努力し続けてきたわけですが、そんな必要もない。

何しろノリでコーフンしている身となれば、歩いて2分の町中華で食べるギョーザなんぞ食べた日にゃあ、その思い出を胸に半年生きていけるほどの満足感である。

あまりに嬉しそうにギョーザを食べるので、すっかり町中華のおっちゃんに気に入られ、ニコニコと見守られながらハフハフとギョーザを頰張る至福ったらない。ってことで超近所に行き付けの名店ができるわ家事は楽になるわでこれ以上の「美味しいこと」なんてないと思う今日この頃。

で、それだけでも大革命だったんだが、コトはそれだけじゃあ終わらなかったんである。

永遠に続く「美味しい生活」を手に入れた

最初のうちこそ、そのような「ハレ」にいちいちウキウキしていたんだが、この食生活を続けるほどに、むしろハレよりもケの食事が自分の中でウキウキの対象となってきたのだ。

今、食べ物の中で何が一番好きかと問われれば、それは間違いなく「メシ」である。日々食べている玄米ご飯。これが他のどんなご馳走よりも、心の底からわくわくする食べ物だ。

もちろん、これまでもご飯は嫌いってわけじゃなかったが、美味しいもの、好きなものといえば当然「おかず」の話であって、ゴハンはゴハン。好きとか美味しいとかいうものの対象外であった。

でも今はもう間違いなく「ゴハンが好きだー」と声を大にして叫びたい。ちなみに、次に好きなのは「味噌汁」で、その次に好きなのは「漬物」である。つまりは私が何が好きって、今や、日々のケの食事が何よりも好きになってしまったのだ。

もちろんここにノリが加わると「おおっ」とは思うが、それはあくまでご飯を引き立てる脇役として、うんキミなかなかいい仕事してるじゃんという話であって、なくてもそれはそれで全然OK。さらに、これがノリならまだいいが、自分が主役であるかのように勘違いしがちな脇役となると(例・ステーキ)、ややありがた迷惑である。なぜって脇役のおかげで大好きなご飯のうまさが霞んでしまうのが「もったいない」んである。

ってことはですよ。これが何を意味するかというと、私は永遠の「美味しい生活」を完璧に手に入れたのだ。

だって、「メシ・汁・漬物」が、食べれば食べるほど好きになる。そしてこんな粗末な食事なら、世の中がどう変わろうが、仕事がなくなろうが、相当なレベルでモーロクするまで、自分の力で無理なく作って食べることができるに違いないのである。

つまりは私は世の人の大方の予想を大きく裏切って、日々ご馳走を食べる暮らしを潔く諦めた結果、むしろ日々この上ない究極の「ご馳走」を、心から満足して食べる日々を死ぬまで過ごすことが決定したのであります

なんという皮肉であろう。今や、SNSで美味しそうなレストランやら素敵なホームパーティーの映像やらがいくら流れてこようがつゆほども心を動かされることはない。みんな良かったね。楽しんでね。頑張っているネ。でも私は今で十分。今が十分。そう心はどこまでも静かな湖面のごとく……。

稲垣 えみ子

(※写真はイメージです/PIXTA)