2004年の秋、当時10歳だった私は中国・杭州の地に降り立った。これは誰に言われたからでも無く、自分の意思で決めた事。それは、映画「少林寺」でも有名な、胡堅強という私の師匠が作った武術学校・少林武術中心への留学のチャンスが舞い込んできたからだ。ここには中国全土からプロの武術家を目指す生徒達が選抜され、集っている。歳もそう変わらない生徒達が周りの期待を背負い、確固たる意思の強さを持ってここにいるのだ。そんな中、私のような他国の小学生に中国で学ぶ機会を与えてくれたことを幸せに思う。

食事と就寝の時間を除いて、朝から晩までずっと武術の鍛錬に励む毎日。全身の筋肉痛がしばらく続くほどの過酷な練習。煌びやかな映画や舞台の裏側の厳しさに挫けそうになった事もある。それは皆同じなはずなのに、師匠達や友人達は優しく励ましてくれ、敬意を持って接してくれる。強く優しい、武道の志を持つ彼らの振る舞いを心から尊敬していた。だからこそ私一人だけ泣き言は言えない、と自然に思うことができた。尊敬できる人達と共に切磋琢磨できるこの機会に感謝し、日々の訓練に必死で食らいついていた。

滞在中に、師匠達のご好意で中国武術の大会に出場する機会を頂いた。私は左足の付根を怪我していたので不安もあったが、練習の成果を皆に見せる時だ、と意気込んでいた。私は長拳の型を披露した。基本の歩型である弓歩、馬歩、仆歩と続けて足を運んでいく。しかし、特に片脚を伸ばしたまま深く腰を落とす仆歩は負傷している私には難しい姿勢で、バランスを崩してその場で尻餅をついてしまった。失敗した！瞬時に頭によぎった。続いて、感情がふつふつと内面から湧いてくる。悔しさ、悲しさ、そして自分に対する怒りが。師匠達や友人達の「加油！」の声にハッと気付かされる。最後までやり遂げるしか私に残された道はないのだと。

そこからは、失敗もなく型を終えた。無我夢中で上手くできていたかは自分には分からなかったが、結果は銀メダルだった。しかし、銀メダルだからこそ達成できなかった時の悔しさや、失敗を恐れずに物事を果敢に挑戦する勇気を学ぶ事ができた。

そんな日々が続いたある日、日中関係に端を発したデモが行われた。この時、私は改めて「異国」にいることを痛感し、なんだか一気に遠い所に来てしまったように感じて、途端に恐ろしくなった。少しピリついた空気を肌で感じた。ホームシックになったことは無かったが、この日初めて本能的に、ここは危険かもしれない、日本に帰った方がいいかもしれない、と思った。不安からか堪えられずに涙が出た。未知への恐怖が大きかった。

師匠達の配慮や、友人達が寄り添ってくれたこともあり、私の不安や恐怖は少し和らいだ。皆の優しさに触れて、なぜ恐いと感じたのか改めて向き合う事ができた。

まずは、私の中で私の知る「中国」という国が一気に大きくなった事だった。なぜなら、それまで私の知る「中国」は私の周りの中国人達の事であり、苦楽を共にし、絆を深め合った彼らに守られたあの環境の事でしかなかったからだ。しかし、デモで知った「中国」の新たな一面は、今まで私に優しくしてくれていた師匠達や友人達と比べ、私の中で大きなギャップを感じ、ショックを受けたのだと気づいた。

次に、「嫌われる理由を知らない事」だと思った私は、今回のデモの原因を周りの大人達に尋ねた。当時10歳の私にどう説明するか悩んだ結果、彼らは「歴史の教科書に載っている事が日本と中国で違っているから」だと簡単に説明してくれた。学ぶ歴史が国によって違う事を初めて知った私はびっくりした。そして、国が違えば、育つ環境も得る情報にも違いが生じる事を理解した。また、それらが違えば当然、価値観や思想も変わる事も。そのため、もしかしたら私の周りの中国人達も日本に対する思いがあったかもしれないが、日本人である私を元気づけようとする心遣いが嬉しかった。

こうして、幼いながらに私の中で強烈な体験となったデモもいつの間にか落ち着き、私はその後も引き続き、杭州で学び続けた。うまくは言えないが、この一件で国という単位での物の見方や世界の広さに気づいた事で、もっと大きく物事を捉えながら日々を過ごしていたように思う。

10歳での中国留学は私にたくさんの気付きと勇気を与えた。私は中国を離れた後も、自らアメリカやヨーロッパへと留学するチャンスを積極的に掴み、その国々での教育を受けながら文化を学んだ。中国での学びは、広い世界へと続く扉の鍵となったのだ。そして、これからもその鍵でより広い世界への扉を開いて行こうと思う。

■原題：十歳の私が一人で武術留学した話

■執筆者プロフィール：住友麻野香（歯学生）

1993年岐阜県生まれ。2歳の時に、母の研究留学に連れられ、カナダ・モントリオールへ。帰国後、東京にあるニューインターナショナルスクールに入学。10歳の時に初めて一人で中国へ武術留学する。世界への興味に拍車がかかり、14歳でアメリカ・バーモント州にあるSt. Johnsbury Academyへ高校留学。医学の道を進むため、ハンガリー国立デブレツェン大学の医学部へ留学。ＥＵ医師資格取得。帰国後、新潟大学歯学部歯学科に編入学し、現在に至る。医科歯科のダブルライセンスを目指す。

※本文は、第6回忘れられない中国滞在エピソード「『香香（シャンシャン）』と中国と私」（段躍中編、日本僑報社、2023年）より転載したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。


私は改めて「異国」にいることを痛感し、なんだか一気に遠い所に来てしまったように感じて、途端に恐ろしくなった。