「世界初の動力有人飛行は、1903年12月17日、ライト兄弟によって成し遂げられた」実はこのことに異を唱える人たちも存在しています。

実は別の人物が初飛行してたかも!?

「世界初の動力有人飛行は、1903年12月17日、ライト兄弟によって成し遂げられた」

歴史の授業ではそのように習い、多くの人がそのように認識しています。アメリカの連邦航空局が発行するパイロットのライセンスカードの裏面にもライト兄弟の肖像画が描かれており、1999年には、LIFE誌により「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」にも選出されています。

ところが、このライト兄弟よりも先に動力飛行を行ったのではないかとされる人物がいます。その人の名は、グスターヴ・ホワイトヘッド。1874年にドイツで生まれた航空技師です。

ホワイトヘッドは少年時代から鳥の飛行方法や、凧を使って飛行理論を研究し、アメリカにわたって航空技師となりました。彼は1897年ボストン航空クラブで数奇の滑空機を作り、飛行実験を行いました。

実際に飛行機は地面を離れ、短い距離を飛行したといいます、しかし、これは滑空機であり、動力を使用していないため動力有人飛行とは認められません。

では実際の動力有人飛行はいつ行われたのでしょうか。当時の新聞、ブリッジポート・ヘラルド、ニューヨーク・ヘラルド、ボストン・トランスクリプト誌によれば、1901年8月14日にアメリカ、コネチカット州のフェアフィールドにて、ホワイトヘッドがエンジン付きの飛行機を800m飛行させた、と書かれています。写真は残されていませんが、ブリッジポート・ヘラルドの記者によるスケッチも残されており、機体は高度15mの位置で飛行したとされています。

この記録がもし本当であれば、ライト兄弟の飛行よりも2年早い記録ということになります。なぜ、この記録は残されず、ライト兄弟の方の記録が世界初として残されてしまったのでしょうか。そこには、現在、ライト兄弟が開発したライトフライヤー号が展示されているワシントンD.C.のスミソニアン国立航空宇宙博物館が大きくかかわっています。

民間人が動力飛行を成功したのを認めたくない!

初飛行を巡る問題は1914年頃に発生します。当時スミソニアン博物館では、飛行試験に失敗した飛行機を改造して博物館に展示しており、当時の館長だったチャールズ・ウォルコットは「世界初の飛行機は、スミソニアン協会の元事務局長サミュエル・ピエールポント・ラングレーの『エアロドローム』である」と宣言し、ライト兄弟のライトフライヤー号を所有していながら一切展示していませんでした。実はライト兄弟もその功績を最初から認められていたわけではないのです。

このような仕打ちを行ったのは、ライト兄弟が特に学術的な地位のある人物ではなく、元々は自転車屋で、ただの民間人だったことを面白く思わなかったからとされています。

ただ、ライト兄弟の飛行機は、兄弟が世界的なグライダーパイロットとしての技術と経験を活かして開発した機体で、操縦の難易度も高く、後に安定性や操縦性を重視して登場した飛行機の構造とはかなり違う部分も多くなっています。そのため、これを世界初の航空機械と認めたくない人も当時は多かったのです。

これに当時まだ存命だったライト兄弟の弟オービルが大抗議を行いましたが、スミソニアン協会は受け入れませんでした。その一方、ライトフライヤーについてはロンドンの科学博物館が展示したいと提案し、オービルはこれを受諾、1928年にはイギリスに渡ることとなります。

その後、スミソニアン博物館に展示されているエアロドロームが飛行試験に失敗したものだということがばれ、権威が失墜、また世論の後押しもあり、オービルの主張は認められることになります。

1948年にオービルが死去すると、ライトフライヤー号はロンドンからアメリカへと戻され、スミソニアン博物館へと展示されることになりました。ここで、ライト兄弟の遺族はこんな契約を結びます。

「世界初飛行を行ったのはライト兄弟である。スミソニアン協会がライト兄弟以外の者を世界初の飛行と認めた場合、ライトフライヤー号は博物館から即座に撤去する」

そしてスミソニアン協会は、博物館にライトフライヤー号を展示し、「世界初の動力飛行を行ったのはライト兄弟である」との説明を付しました。これにより大きく権威付けられたライト兄弟は、容易な説では覆せない存在となりました。

一部ではホワイトヘッドを推す動きも

さて、ホワイトヘッドの偉業に話を戻しましょう。

初めての空を飛んだ飛行機がどの機体なのかの論争が起きているとき、ホワイトヘッドがどうしていたのかは、記録には残されていません。現在よりも情報網が発達していなかった当時、固定翼機を諦めてヘリコプターの研究に没頭していたホワイトヘッドの耳に、論争は届かなかったのかもしれません。なお、ホワイトヘッドは1927年に亡くなっています。

彼の行った動力飛行は新聞にも掲載され、彼の死後もその飛行を目撃した人の話が出ることとなり、1936年に「ポピュラー・アヴィエーション」誌へ記事が掲載されて以降、様々な航空雑誌などで論議されてきました。

彼が開発したモーターなどから、「ホワイトヘッドが世界初なのでは」と声を上げる研究者もいましたが、スミソニアン協会はその大部分を「都市伝説の域を出ない」として認めていません。ライト兄弟の飛行は、数多く写真が残されているのに対し、ホワイトヘッドの飛行はリトグラフしか残されていないことも疑わしい部分のひとつとされています。

しかし1963年、コネチカット州の家の屋根裏部屋で、1910年のホワイトヘッドと地上に駐機している複葉機が写った写真が見つかると、州が調査に乗り出します。結果、同州は1968年にホワイトヘッドを「コネチカット航空の父」とし、ホワイトヘッドこそ人類初の動力飛行を達成した人物だと評しました。

ほかにも、『ジェーン世界の航空機年鑑』の出版100周年記念版では、その功績を認め、「世界初の有人動力飛行の成功者はライト兄弟ではなくグスターヴ・ホワイトヘッドである」と記しています。ライト兄弟の功績はやはり、一部で懐疑的に見られているのです。

実はホワイトヘッド以外にも、クレマン・アデル、リチャード・パースといった人物が、ライト兄弟より以前に動力飛行機の初飛行を行ったのではないかと言われています。しかし、資料など、証明する情報が乏しいため、現状では、覆るには至っていません。

風洞実験を行うライトフライヤーのレプリカ(画像:NASA)