昨今の深刻な人手不足を背景に、近年多くの企業において賃上げの動きが出ている。

【画像】2024 春季生活闘争 第1回回答集計結果

 連合は3月15日、2024年春季労使交渉の第1回回答の集計結果を公表。基本給を底上げするベースアップ(ベア)と定期昇給(定昇)を合わせた賃上げ率は平均「5.28%」となり、過去の最終集計と比較すると、5.66%だったバブル期の1991年以来33年ぶりに5%を超える結果となった。

 また、これまで「賃上げの恩恵を受けるのは大企業ばかり。中小企業では実感が伴わない」などと言われてきた風潮にも変化が生じている。

 同じく連合発表によると、中小企業の賃上げ率も「4.42%」に達し、32年ぶりの高水準となった。賃上げの機運は今や中小企業にまで広がり、わが国で長年はびこってきたでデフレにもようやく出口が見え、物価と賃金が持続的に上がる好循環が今まさに生まれようとしているところだ。

 賃上げの動きは、各社の新卒初任給にも波及している。「マイナビ2024年卒 企業新卒採用活動調査」によると、2024年卒採用で初任給の引き上げを行った企業は全体の7割に上ることが明らかとなった。

 中でも第一生命ホールディングスや野村ホールディングスではそれぞれ約16%引き上げる計画を発表している。また、アシックスでは約24%、東京エレクトロンでは約40%も引き上げると報じられている。いずれも、平均賃上げ率やインフレ率よりもはるかに高い水準だ。少子高齢化と若年労働力の減少が進む日本ではこの傾向はしばらく続き、今後数年間は賃金水準の底上げに貢献するものと考えられる。

 勢いあるベンチャー企業でも、初任給アップの動きは活性化している。これまで本連載においても、2023年春の新卒初任給を42万円に引き上げると発表したサイバーエージェント社や、2025年卒より新卒初任給を35万円に引上げることを発表したレバレジーズ社、新卒から2年間限定で年収710万円、月給額59万1675円を提示する採用プログラムを発表したGMOインターネット社の事例を採り上げてきた。

 バブル経済が崩壊してから30年以上にわたって、日本の大卒平均初任給額が20万円台前半のままほぼ変化してこなかった中で、一部企業が率先して30万円、40万円と高額な初任給を提示するようになったことは大歓迎である。

●高額初任給に隠されたカラクリとは

 一方で、歓迎ムードで語られる「賃上げ」といえども、単に「月額基本給が上がる」ケースだけではないことに注意が必要だ。われわれからは同じ「賃上げ」のように見える事象でも、実は大きく3種類に分けられるためである。

 具体的には、賃上げと聞いてわれわれがまずイメージする「(1)月額の基本給が上がる」パターンのみならず、「(2)固定残業制のため、固定残業代と合わせた総額で表記されて高く見える」パターン、そして「(3)年俸制のため、賞与分も含んだ年額報酬が12分割された結果、月々の報酬が高く見える」パターンという計3つがある。それぞれの違いを解説していこう。

●(1)月額の基本給が上がるパターン

 ヤマハ発動機は、採用競争力を強化し、能力の高い人材を獲得することを目的に、2024年4月以降に入社する社員の初任給の大幅引き上げを決定した。具体的には次の通りだ。

・総合職/大学院卒(修士了)現行:24万9900円 → 賃上げ後:27万2000円(引上率:8.8%、上昇幅2万2100円)

・総合職/大学卒現行:22万7900円 → 賃上げ後:25万円(同9.7%、同2万2100円)

・生産職/高校卒現行:18万4000円 → 賃上げ後:20万円(同6.2%、同1万1600円)

 これらは純粋な基本給額であり、残業代や各種手当、ボーナスなどはこのベースを基に別途支給される。「残業代が、基本給とは別に支給されるなんて当たり前じゃないの?」とお思いの方も多いかもしれないが、実は決して当たり前ではないのだ。

 高額な初任給金額をアピールしている一部のメガベンチャー企業では「固定残業制(※1)」を用いることによって、あらかじめ規定時間分の残業代が含まれた総額で表記していたり、「年俸制(※2)」の総額を12分割した1カ月分の金額を月給額として示していたりするので、必然的に月々の報酬額は高く見える「カサ上げ」効果があることに重々留意する必要がある。

 少々古いデータとなるが、労務行政研究所「人事労務諸制度の実施状況調査」によると、固定残業代を支給している企業は2010年には7.7%に過ぎなかったが、その後徐々に増加し、2022年には23.3%にもなっている。実は、世の中の会社の4社に1社は導入しているメジャーな仕組みでもあるのだ。

(※1):実際の残業時間にかかわらず、あらかじめ一定時間分の時間外労働に対して定額の残業代を支払う制度。「◯時間分残業したとみなして支払う残業代」であることから「みなし残業代」とも呼ばれる。(※2):1年単位で支払われる報酬。12分割で支払われる場合、ボーナスという概念は存在しないか、月額報酬は賞与込みの金額ということになる。

●(2)固定残業代込みで表記、(3)年俸制で月々の報酬を高く見せるパターン

 ここ数年の間で、高額初任給設定企業として報道された各社の初任給の内訳をみていこう。初任給月額に含まれていた「固定残業代」や「深夜割増手当」などを抜いていくと、基本給額は一般的な水準に落ち着くことがお分かりいただけるはずだ。

・楽天:30万円基本給22万7849円+固定残業代40時間分

・レバレジーズ:35万円基本給21万2220円+固定残業代80時間分

・セプテーニ:36万5000円基本給25万5865円+固定残業代45時間分+深夜割増40時間分

DeNA:38万7500円基本給27万1250円+固定残業代45時間分

・TOKYO BASE:40万円基本給20万3000円+固定残業代80時間分

サイバーエージェント:42万円基本給24万7000円+固定残業代80時間分+深夜割増46時間分

GMOインターネットグループ:59万1675円(新卒年収710万プログラムの場合)基本給26万6000円+固定残業代40時間分+諸手当

 40万円、50万円といった額面金額だけに着目してしまうと、数字のインパクトが大きいあまり一瞬思考停止に陥りそうになるが、このように落ち着いて情報を精査してみると、「月額基本給が25万円前後なら、規模の大きい上場ベンチャー企業であれば一般的な水準かも」「メガベンチャー各社と比べるとヤマハの27.2万円は低いように見えたけど、基本給部分だけを見たら、他のどこよりもヤマハのほうが高いことがよく分かる」などと捉えられるようになるはずだ。

●「月80時間分の固定残業代」に潜む違法性

 高額な初任給設定自体は歓迎されつつも、「実は月80時間分の固定残業代が含まれている」と聞けば抵抗感を抱く人もおられるだろう。労働基準法の改正によって、大企業は2019年4月、中小企業は20年4月から、残業時間には上限規制がかけられている。

 そして「月80時間」という設定は、この上限規制を大きく上回ってしまうため「そもそも、労働契約として無効なのでは?」との疑念が生じてしまうのも致し方ないだろう(参照:厚生労働省「働き方改革~一億総活躍社会の実現に向けて~」)。

 法律では、労働時間と残業時間の規制はこのようになっている。

・労働時間の基本は「1日8時間、週40時間」まで

・残業を可能にする労使間協定(36協定)を結んだとしても、残業時間の上限は原則として「月45時間・年間360時間まで」

・なおかつ、残業時間が月45時間を超えることができるのは「年間6カ月まで」

・特別な事情があって労使が合意する場合でも、「複数月の残業時間平均は80時間以内」「年720時間以内」という基準を超えることはできない

 従って、法に照らして考えると、固定残業として設定できる残業時間はせいぜい「月30時間」(年間上限360時間÷12)であり、多く見積もったとしても「月45時間」(単月上限時間)が上限となってしまうのだ。

 それ以上の設定となると「違法レベルの残業が常態化している」と捉えられても文句は言えない。そのような中で「固定残業80時間」との設定は、当該基準を明らかに上回っているため、「月々の残業が80時間超えだと過労死ラインでは?」といった懸念も多く寄せられることになってしまった。

 「明らかに長時間設定の固定残業時間は問題ではないか?」という風潮が高まってきたことにもっとも神経を尖らせているのは、実際に長時間の固定残業制を運用している企業の人事労務担当者であろう。

 4社に1社が導入している旨は先述の通りだが、筆者の経験上「固定残業制は実質『定額働かせ放題』! 従業員に無制限に残業させ、トコトン使い潰してやろう!」といった悪意をもって運用しているようなブラック企業はほんの一握り。

 固定残業時間を長時間に設定している企業における実際の運用事例の多くは、「細かい残業時間計算の手間を省き、労務管理コストを低減させるため」とか「36協定の特別条項を設定した際に80時間と決めていたので、それに合わせて」といった形であり、なにも恒常的に80時間残業させているわけでは決してないのだ。

 そこで、本件を「違法性がない点」と「違法性の疑いがある点」に分けて解説しよう。

●違法性がない点

「月80時間分の固定残業」といっても、「長時間残業を強制される」わけではない

 固定残業時間の設定が月80時間だからといって、「毎月80時間の残業を強制される」というわけではない。あくまで設定上の上限値であるから、あらかじめ「80時間分の残業がある前提で、その分をみなしで払う」という意味でしかなく、早く仕事が終われば早く帰れることはもちろん可能だ。仮に残業ゼロで仕事を終えられれば、80時間分の残業代は丸儲けということになる。効率的に仕事を進められる人にとってはメリットのある条件といえよう。

 例えば、サイバーエージェント社が公表している平均残業時間は「月約31時間」。実情がこのとおりであれば、「月45時間以内」という法律の範囲内に収まっており合法であるし、社員にとっても約50時間分の残業代を余分にもらえているわけであるから、何も問題はないはずだ。

 実際働き方改革を各社で取り組み始めたばかりの草創期にも「仕事を早く終わらせるインセンティブ」とするために、各社で固定残業制が導入されたことは記憶に新しい。同時に、仕事を効率よくこなし残業が少ない社員と、ダラダラ残業し残業代を稼いでいた社員との間の給与差の不公正を解消できるというメリットもあったのだ。

●違法性の疑いがある点

固定残業時間として月45時間を超える設定は、仮に裁判で訴えられた場合「無効」とされる可能性が高い

 法の精神に照らして考えれば、月45時間を超える残業はあくまで「例外」の扱いだ。特別条項付き36協定を締結することで可能とはなるものの、あくまで「通常予見できない特別な事情が発生した場合に限って臨時的に許容」される特例である。

 従って、固定残業代を「月80時間」で設定しているということは、「通年で45時間を超える残業が発生する」とみなしているわけで、仮に裁判になれば無効とされる可能性が高い。その場合、固定残業代は基礎賃金として扱われることになる。

 この「事実上は慣例的に行われているが、仮に裁判になった場合、無効と判断される可能性が高い」という点において、わが国における「解雇」と近しいものがあると言えるだろう。ちなみにわが国における解雇については過去記事でも解説しているとおり、「解雇を規制する法律がガチガチに固められていて、解雇したら即ペナルティが課せられる」のではなく、「解雇自体はできるが、もしそれが裁判になった場合、解雇無効と判断されるケースが多いため、実質的には解雇が困難」という表現がより実態を正確に表している。

 実際、固定残業代に関しては多くの判例があり、法的要件を満たしていなければ無効と判断されている。設定時間が何時間であれ、実態として労働者の健康を害する長時間労働がなされていた場合、「公序良俗違反で無効」になるとの判断も存在するのだ。

 あくまで固定残業の設定時間は便宜上のものであり、「実際、恒常的な長時間労働でなければ問題にならないのでは?」との考えを持たれる方も多いであろうが、過去の無効判例の多くが残業時間上限規制前であったことを考えると、現状、判断はより厳しくなっていることが考えられる。

 もし法改正前のままで36協定を締結し、かつ長時間設定の固定残業制を維持されている各社は、自社設定や求職者への告知方法に違法性の疑いがないかどうか、今一度ご確認いただくことをお勧めしたい。

●固定残業制が認められる法的要件とは?

 メリットが多いゆえに多くの企業で採り入れられている固定残業制だが、一方で仕組みを誤解していたり、都合よく「いい所取り」をしようとしたりする会社も多く、トラブルにつながりがりがちなポイントだ。就職や転職の際には重々ご留意いただきたいし、人事労務担当者の皆さまも改めて自社の設定に違法性がないかご確認いただきたい。注意点は次の通りだ。

(1)求人票において、基本給と固定残業代を区別して表示しているか?

 固定残業代は、基本給や諸手当など他の賃金とは明確に区別して、具体的に表示しなければならない。

・NG例:「月額25万円(固定残業代含む)」

・OK例:「月額25万円(20時間分の固定残業代3万円を含む)」

 基本給金額は、残業代やボーナスの算定基準となる。あえて固定残業代部分を高く設定し、意図的に基本給を下げることで、残業代やボーナスの負担を軽くしようと目論む意地汚い会社もある。後々の金銭トラブルの原因ともなってしまうため、この点をあいまいにしている会社にはくれぐれもご用心いただきたい。

(2)残業実態を把握し、固定残業時間を超過した分の残業代はきちんと支払っているか?

 「あらかじめ固定残業代を支払っているため、いくら残業させても残業代はチャラ」だと勘違いしている人は意外と多い。しかしこれは明確な誤りだ。決められた固定残業時間を超えて残業をした場合は、当然ながらその分の残業代を追加で支払わなくてはならない。当然ながら会社側は、残業時間も固定残業制の有無にかかわらず、キッチリ管理し把握しておく必要がある。

 たとえ特別条項付きの36協定を結んだとしても、労働時間管理を怠り、「総残業時間は年720時間まで」「月45時間以上の残業は年6回まで」「残業時間は単月100時間まで」といった規定を超過してしまった場合は、罰則として「半年以内の懲役もしくは30万円以下の罰金」が科せられることになる。

(3)設定した固定残業時間未満の労働でも、固定残業代を支払っているか?

 さすがにここまでの誤解はないと思われるかもしれないが、まれに「固定残業として決められた20時間分の残業をしていないから、固定残業代は払わない」とする会社がある。当然、制度の主旨として明らかに間違いだ。

 固定残業代は残業しようがするまいが、毎月定額で支払われる制度である。たとえ残業を一切せずに定時で帰ったとしても、決められた固定残業代が支払われなくてはならない。

 特に判例では、以下の2つを満たさないと、労働基準法第37条違反で無効とされてきている。

・「通常賃金分」と「時間外賃金分」の明確な区別がなされているか

・時間外賃金分が割り増し賃金額の法的要件を充足しているか

 従って、固定残業制を導入・運用されている各社におかれては、雇用契約書へ明確に記載するか、賃金にまつわる合意書を取り交わすとともに、選考・採用時にキッチリ説明をすることを徹底いただければよいだろう。

 逆にそのあたりの説明があいまいで、求人票にも契約書面にも明示していない会社は、あなたを都合よく使い潰そうとする会社かもしれない。重々留意のうえで見極めていただくことをお勧めしたい。

 冒頭にも触れたように、人手不足が今後も続いていく中で、意欲も能力もある若手にきちんとお金で報いる会社が増え、他社もそれにならい報酬額がどんどん上がっていく展開は実に健全だ。ぜひ各社が競争しながら賃金を上げ続けていただくことを祈念している。

著者プロフィール・新田龍(にったりょう)

働き方改革総合研究所株式会社 代表取締役

早稲田大学卒業後、複数の上場企業で事業企画、営業管理職、コンサルタント、人事採用担当職などを歴任。2007年、働き方改革総合研究所株式会社設立。「労働環境改善による業績および従業員エンゲージメント向上支援」「ビジネスと労務関連のトラブル解決支援」「炎上予防とレピュテーション改善支援」を手掛ける。各種メディアで労働問題、ハラスメント、炎上トラブルについてコメント。厚生労働省ハラスメント対策企画委員。

著書に『ワタミの失敗~「善意の会社」がブラック企業と呼ばれた構造』(KADOKAWA)、『問題社員の正しい辞めさせ方』(リチェンジ)他多数。最新刊『炎上回避マニュアル』(徳間書店)、最新監修書『令和版 新社会人が本当に知りたいビジネスマナー大全』(KADOKAWA)発売中。

11月22日に新刊『「部下の気持ちがわからない」と思ったら読む本』(ハーパーコリンズ・ジャパン)発売。

画像はイメージ、提供:ゲッティイメージズ