●連載:徹底リサーチ! あの会社の人的資本経営

【その他の画像】

近年、注目される機会が増えた「人的資本経営」というキーワード。しかし、まだまだ実践フェーズに到達している企業は多くない。そんな中、先進的な取り組みを実施している企業へのインタビューを通して、人的資本経営の本質に迫る。インタビュアーは人事業務や法制度改正などの研究を行う、Works Human Intelligence総研リサーチ、奈良和正氏。

 「厳しくとも働きがいのある会社」という人材戦略を掲げ、大手総合商社の中でも単体従業員数は最少という状況下で、労働生産性を着実に向上させてきた伊藤忠商事

 同社の人材戦略や働き方改革に関する取り組みを人事・総務部 企画統轄室長 岩田憲司氏にインタビュー。インタビュアーは人事業務や法制度改正などの研究を行うWorks Human Intelligence総研リサーチの奈良和正氏が務めた。

 多くの日本企業が苦戦する中、伊藤忠商事はどのように労働生産性の向上を実現できたのか。過去に「働きやすい会社」を目指した人事制度改革の“失敗”を経て、現在はどのような戦略目標を掲げているのか。また、学生に人気の企業ランキングの上位常連に至るまでの、地道な道のりとは。伊藤忠商事の変革の裏側と、人的資本経営の真髄に迫る。

●人事制度改革の“失敗”を経て……目指すべきは「働きやすい会社」ではなかった

奈良: 伊藤忠商事では、「厳しくとも働きがいのある会社」を目指し、6つの「人材戦略目標」を掲げていますよね。

岩田: はい。(1)優秀な人材の確保(2)働き方の進化(3)健康力向上(4)主体的なキャリア形成支援(5)成果に応じた評価・報酬(6)経営参画意識の向上、6つの目標を掲げ取り組んでいます。

 「厳しくとも働きがいのある会社」において最初に大事になるのが(1)優秀な人材の確保です。そのために、就職活動をしてこれから社会に出てくる大学生とその親御さんへの訴求に力を入れています。

奈良: 親御さんへの訴求も重視されているのですね。

岩田: そうですね。「伊藤ただし(忠)さんって誰?」と言われた時代もありました。このため、数年前からコーポレートブランドを専門的に取り扱う部署を設置し、事業内容や職務内容を広い世代に対して訴求し企業ブランドの向上に努めています。

奈良: 先日も報道されていましたが、大学生の就職人気ランキングではいつも上位にいらっしゃいますよね。

岩田: そうなんです。昔は万年10位や15位くらいで、あまり商社の中では高くなかったのですが、今は徹底的にこだわってます。派手な活動ではありませんが、大学生向けのさまざまなセミナーに出掛けて、伊藤忠商事のことを説明し、理解してもらっています。

 その結果として、いくつかの媒体で日本全国のランキング1位をいただきました。そうなると、これまで以上に優秀な方も伊藤忠商事に興味を持ってくださいます。ランキング1位をいただいたことで、当社への入社を希望される方の数も増えました。

奈良: 企業ブランドを向上させることで採用力を強くし、より優秀な人材が集まり、さらにブランド力が高まり、と良い循環が生まれているんですね。

 採用においては、ブランド力も当然ですが実際の働く環境についても重視されると思います。働き方に関する取り組みについても教えていただけますか。

岩田: 人材戦略目標において(2)働き方の進化を掲げ、朝型勤務制度の導入や在宅勤務制度を導入し、効率性を追求しています。実は(以前はあった)フレックス文化をなくしたことがあったのですが、新型コロナウイルスの感染が拡大した時に在宅勤務を大幅に取り入れました。コロナ禍が落ち着いてきて、これを撤廃するか残すか議論したところ、現在は週2回の在宅勤務が可能となっています。

 今の時代、さまざまな働き方がありますし「3年のコロナ禍を経て、会社は変わらないのか」という社員の見方もあります。権利としてシステムとしては使えるんだけど、使うかどうかというのは当然本人に委ねる、そういう尊重した形で今は運用をしています。

 (3)健康力向上については、安心して働き続けるための環境整備をしています。朝ご飯をちゃんと食べて、体に障らないよう夜遅くの残業を防止する朝型勤務制度にも健康の要素が入っています。

 これ以外にも、がんと仕事の両立支援にも取り組んでいます。国立がん研究センターと提携して、40歳以上の従業員を対象に精密ながん検診をしています。毎年数人が早期がんと診断されていますが、早期がんの場合は、手術せずに投薬や放射線で治療をすることがあるので、治療をしながら仕事を継続する従業員も多くいます。

 何かあっても会社でサポートするという姿勢が、従業員に安心感を与えているのではないかと思います。

 従業員の健康や生産性向上以外にも(4)主体的なキャリア形成支援(5)成果に応じた評価・報酬といった、従業員の適性を踏まえた成長機会の創出や、成長につながるフィードバックや納得度の向上を通じた評価・報酬制度に取り組んでいます。

奈良: 従業員をおもんぱかりつつ、生産性や離職リスクの低減を図るような施策を講じながら環境整備をされているんですね。最後に(6)経営参画意識の向上ですが、こちらは他社ではあまり聞かない取り組みですが、どのような取り組みでしょうか。

岩田: はい、こちらは持株会などを活用した中長期的な資産形成で、従業員持株会加入比率向上に関するちょっと珍しい取り組みです。

 従業員持株会は上場企業を中心に導入されていると思いますが、加入率は日本企業だと50~60%かと思います。以前当社も同じくらいの加入率でしたが、現在は加入率99%となっています。

 業績が一定以上超えた場合のいわゆるボーナス的なものを株で払う制度を取っているので、加入率が高くなっています。

 株主になるとどういう事が起きるかというと当然当社の株価が気になりだしますよね。時価総額がどうなのかとか、当社の事業に対する目線も変わってきます。

 実は、われわれが作成している統合レポートをわざわざ紙に印刷して海外駐在員も含めて全員に郵送しています。さらに、従業員も株主ということで、統合レポートのポイントについて社内にも説明をしています。

 こうした取り組みを通して、外部から有効な事業として見られているポイントを理解していただき、経営参画意識を高めてもらっています。

●「働きやすい会社」を目指して失敗した過去

奈良: 伊藤忠商事さんは今、人的資本経営の文脈でも非常に参考にされることの多い企業だと思います。創業166年と歴史も長いと思いますが、いつ頃から今のような人的資本経営を推進されているのでしょうか?

岩田: 実は、今から20年前、人事制度を大きく改革したのですが、失敗した過去があります。

 3000億の特別損失を出すような厳しい時代でして、こういった背景から人事制度を大きく変革する必要に迫られていました。

 当時は、等級があって追い越し禁止みたいな、いわゆる職能資格制度を導入していたのですが、仕事に応じて給料が決まる職務給制度に変更しました。

 これに加えて、従業員に長く働いてもらえるような環境整備が必要だと考え、「働きやすい会社」を目指してさまざまな制度改定を行いました。

 一例として、海外現地社員の幹部登用・本社受け入れや毎年一定数のキャリア採用、新卒総合職女性比率向上といった採用に関するものや、育児短時間勤務、配偶者海外転勤休職制度といった制度拡充を行いました。

奈良: 今でも多くの企業がこういった活動に取り組もうとされてますよね。これが失敗につながったんですか?

岩田: そうなんです。失敗しました。

 例えば、採用に関する施策については現実と乖(かい)離した目標値を設定してしまい現場が疲弊しました。例えば、数値目標が高いが故に海外の各店、各国にいる現地社員を無理に受け入れて登用したり、当時はほとんど新卒採用だったのに、キャリア制度を増やしたりですね。

 一例を挙げると、女性総合職では当時10%強だった採用比率を当時20%、後に30%にするなど、目標を高く掲げていました。すると、必ずどの部にも公平に女性を配置しようとなります。

 われわれ商社は日本社会の縮図で、繊維とか機械とか金属とかさまざまな産業がありますが、中には女性が少ない業界、女性がそこまで行きたがらない業界もあります。そういう業界の部署でもある意味平等に最低1~2人配置をするなどもしていたので、従業員や現場の意識と大きくずれてしまっていた、というミスマッチが起こりました。

奈良: トップダウンで女性比率の実現をしようとしたところ、目標が厳しかったことも影響して現場と人事で意識のずれが生じてしまったんですね。制度も拡充されていましたが、そこはどうだったんでしょうか。

岩田: ここも、自身のキャリアなどを考慮せず、休めるから休まなきゃ、といったとにかく権利を行使しようという風潮ができてしまいました。自身のキャリアを第一に考えてほしかったんですが、そこでギャップが出たんですね。

 これが今の「厳しくとも働きがいのある会社」をテーマとした人材戦略の前の状態である「働きやすい会社」を目指していた時代、20年前ぐらいのことです。

奈良: 働きやすさ、働きがいというのは似ているようで重要な違いがありますよね。働きやすい環境は大事であるが一歩間違えると、権利を行使する方向に誘導しやすくなるというバランスが難しいなと感じます。

 その後、改革のテーマを「働きやすい会社」から「厳しくとも働きがいのある会社」へ変更されたのは、いつ頃なのでしょうか?

岩田: 2010年ですね。現在の代表取締役会長 CEO岡藤が社長に就任した年です。

 「厳しくとも働きがいのある会社」をテーマとした働き方改革着手の背景として、これまで述べてきたような社内状況に加えて、財閥系の他商社と比べ相対的に社員数が少なく、さらには主力事業もB2Cに近く現場に行って日銭を稼ぐビジネスモデルであることから、他社よりも少数精鋭で生産性を高める必要性があったという背景もありました。

奈良: だからこそ、「厳しくとも働きがいのある」というコンセプトなんですね。実際にどのように変革していかれたのか、教えてください。

 3月26日(火)掲載の次回記事では、伊藤忠商事の働き方改革に迫る。

中編

後編

●著者プロフィール

奈良和正 株式会社Works Human Intelligence WHI総研

●株式会社Works Human Intelligence

大手法人向け統合人事システム「COMPANY」の開発・販売・サポートの他、HR 関連サービスの提供を行う。COMPANYは、人事管理、給与計算、勤怠管理、タレントマネジメント等人事にまつわる業務領域を広くカバー。約1,200法人グループへの導入実績を持つ。

伊藤忠商事「統合レポート2023」より抜粋