川勝平太知事の辞任で、静岡工区のリニア着工は前に進むのだろうか。ジャーナリストの小林一哉さんは「川勝知事が辞表を提出した後も、リニア妨害のための無意味な会議は続いている。『川勝知事の呪縛』が解けるにはしばらく時間はかかるだろう」という――。

■川勝知事は新年度も「反リニア」を続けるつもりだった

川勝平太知事が4月10日に辞表を提出してから初となる静岡県生物多様性専門部会が12日、県庁で開かれた。

辞任の意向を示す前の3月13、26日のいずれの会見でも、川勝知事は「4月には、水資源の専門部会と生物多様性専門部会の両方とも開催したい」と発言していた。

当時は、辞職の意向など全くなかった。4月1日の異動で、“リニア担当部長”創設など新体制を固め、4月からの予算にJR東海との「対話」に2600万円を計上、地質構造・水資源と生物多様性の専門部会開催にそれぞれ10回もの会議予算を確保していた。

つまり、川勝知事は、少なくとも来年3月まではリニア問題に取り組む万全の準備を立てていた。3月の2回にわたる会見の発言でも、反リニアに徹する川勝知事は気力、体力とも十分な様子を見せていた。

ところが、4月2日に突然、リニア問題を放り投げるように辞職を決めてしまった。そのため、あらかじめ決められていた12日の生物多様性専門部会を、いまさら動かすことができなかったのだ。

12日の議論の中身は抽象的で、具体的に南アルプスの何を守りたいのか、さっぱり見えてこなかった。2018年以来、12回目となる生物多様性専門部会は当初から何ら進展しておらず、逆に、今回から委員の顔ぶれが変わったため、いままでの議論は意味を失った。

いったい、これまで何のために議論を行ってきたのか、すべての会議を傍聴してきた筆者の疑問は大きく膨らんだ。

■6年かけた議論が「振り出し」に

川勝知事は「南アルプスは国立公園であり、国民の総意として南アルプスの自然を守ることは国策である。10年前、エコパークに認定されて、その生態系を保全するのは国際的な責務、国際公約である」と何度も繰り返してきた。

県のHPには、「生物多様性への影響」として、「南アルプスには、世界の南限とされる希少動植物が多数存在し、守るべき極めて希少な生態系がある。この生態系は奥地で人為が及ばず、周辺環境の変化の影響を受けやすく非常に脆弱である。

ユネスコエコパークに認定されている自然環境自体が、後世に残すべき貴重な資産であり、これを守ることは国策と言える」とした上で、「リニアトンネル工事が壊滅的なダメージを与える懸念がある」とある。

つまり、川勝知事の主張をなぞっているだけである。

この主張を根拠に、6年近くも生物多様性の議論を行ってきた。果たして、南アルプスの保全がそれほど重要なのか、リニアトンネル工事が南アルプスのどんな貴重な動植物に壊滅的なダメージを与えるのか、そもそもの根拠が正しいのかどうかを検証する。

■川勝知事の「自然保護」姿勢の源流

川勝知事が国際公約に挙げる「ユネスコエコパーク」は、実際は、ユネスコ「人間と生物圏(MAB=Man and Biosphere)計画」研究事業の「生物圏保存(BR=BiosphereReserve)地域」を指す。自然と天然資源の合理的利用と保存を図るのが目的。

世界遺産と違い、知名度が低いので、日本国内のみで通用する「ユネスコエコパーク」という響きの良い呼称を使っている。

BR地域では、世界遺産と同じように規制の厳しい「核心地域」「緩衝地域」を持つが、世界遺産と違うのは、「緩衝地域」の周りに、自然を生かして地元の利益を図る「移行地域」が設定されていることである。

自然との調和を図る地域発展が狙いで、川根本町、山梨県早川町、南アルプス市長野県大鹿村は、街全体がBR地域に指定されている。当然、ふつうに人々が暮らす街中は「移行地域」であり、早川町、大鹿村では南アルプストンネル掘削がすでに始まっている。街の中を四六時中、工事用車両などが行き交う。地元の経済的な利益を図るのだから、BR地域の目的にかなっている。

街全体が「移行地域」に指定される川根本町は、ユネスコエコパークが何かを象徴する。南アルプス最南端の街は人と自然の共存にふさわしい地域であり、エコパークだからといって何らかの規制があるわけではない。

■南アルプスの世界遺産登録を諦めて…

2007年2月、静岡市、川根本町など静岡、山梨、長野3県の10市町村長が「南アルプス世界自然遺産登録推進協議会」を設立し、行政主導型で世界遺産運動がスタートした。世界遺産という「ブランド」によって、南アルプスの魅力を高め、山間地の振興を図りたい意向だった。世界遺産登録が難しいことがわかると、BR地域登録に舵を切り替えた。

2014年6月、ユネスコMAB委員会が南アルプスをBR地域に指定すると同時に、南アルプスの世界遺産運動は消滅した。もともと世界遺産を提案した静岡市などは自然環境保全が目的ではなかったため、「ユネスコエコパーク」という地域振興を図る国際的な「称号」を得たことで十分、満足したようだ。

■リニア工事区域は「南アルプスの希少な生態系」とは無関係

2013年9月、JR東海リニアトンネルに関わる環境影響評価(アセス)準備書を公開すると、自然保護団体、研究者らがアセスの内容を調査、南アルプスを貫通するリニアトンネルによるさまざまな問題が浮上した。山梨、長野、静岡3県で南アルプス地域の保全を訴え、リニア反対運動などが起きた。

しかし、BR地域(ユネスコエコパーク)の「移行地域」は、地元の経済的利益を図るのが目的である。リニアトンネル工事に何らかのブレーキを掛けることはできない。

南アルプストンネル静岡工区はすべて「移行地域」に当たる。リニア工事による東俣林道整備などで静岡市に経済的利益をもたらす。「エコパーク」だからといって、自然環境保全には縛られない。

エコパークの「核心地域」ではないリニアトンネル静岡工区の南アルプス保全は、川勝知事の言う「国際公約」でも何でもない。「国際的な責務」は単なる虚偽である。

そもそも静岡県は「南アルプスには、世界の南限とされる希少動植物が多数存在し、守るべき極めて希少な生態系がある」と主張するが、リニアトンネル工事を行う地域は南限からあまりにも遠く離れていて、無関係である。

リニア計画路線から直線距離で25キロ以上も離れた川根本町の光岳(てかりだけ)周辺地域が南限に当たる。

■光岳周辺には希少な生態系が残っている

「森林生態系保護地域」として林野庁が設定した光岳を中心とする約3055ヘクタールが、ユネスコMAB計画のBR地域の「核心地域」に当たる。塩見岳、荒川岳、赤石岳、聖岳などからさらに南側に当たる光岳周辺は「世界の南限とされる希少動植物が多数存在し、守るべき極めて希少な生態系がある」ことはよく知られている。

光岳周辺の中核(コア)約1115ヘクタールが、環境省の「原生自然環境保全地域」に当たる。原生自然環境保全地域は、全国には屋久島など4地域があり、本州では光岳周辺のみが指定される。

大井川の支流、寸又川(16.6キロ)などの源流に当たり、世界の南限にあるハイマツ、シラベ、コメツガ、ブナ、ミズナラなど累々と茂る原生林と岩と水が支配する高山帯が続く。

光岳(2592m)の尾根筋をたどり、加加森山(2420m)、池口岳(2392m)、千頭山(1945m)、そして百俣沢の頭(2418m)をぐるりと取り囲む森林地域は、人間の活動の影響を受けることなく、太古の姿がそのままに残っている。

■調査を行えば「希少な新種」が多く見つかる場所

1976年3月に環境省(当時は環境庁)が地域内の地形、地質、動植物の現況などを調査して、初めての報告書を作成している。

南アルプスでは、聖岳以北の3000mピークにのみ見られた「チョウノスケソウ」が光岳で発見された。チョウノスケソウはアイスランドの国花であり、氷河時代の貴重な植物相が北半球最南端にある光岳地域で見られる。

ライチョウは、やはり氷河期から生息している唯一の遺存種で日本固有亜種。本州中部の標高2000m以上の高山帯に生息するが、やはり、光岳が世界の生息地最南端。生物地理学的に重要な位置を占める。ヨーロッパではライチョウは狩猟の対象で、ジビエとして食べられるが、日本のライチョウは神の使いとして、あがめられてきた。このため、人間が近づいても恐れないなど日本独特の特徴を有している。

光岳周辺には、リニアの環境保全会議で、議論の対象となる日本固有のヤマトイワナなど絶滅危惧種の動植物すべてが生息している。

リンチョウ沢源流に高地の冷水域を好むトワダカワゲラなどのほか、ナガレトビケラ、エグリトビケラの2新種、山頂付近ではゾウムシの新種、フトミミズ類の多くの新種など数多くが見つかっている。ただし、調査員、調査期間が限られていただけに、もし、新たな調査が行われれば、さらに数多くの新種が発見されることが期待される。

生物多様性専門部会では、第9回会議までヤマトイワナの保全を焦点に議論してきた。ヤマトイワナが絶滅に追い込まれた人為的な影響については、何ら問題にしなかった。

1970年代後半から地元の漁協が渓流釣り誘致のために大量の養殖したニッコウイワナを放流したため、繁殖力の強いニッコウイワナとの交雑が進み、純粋のヤマトイワナはすみかを追われた。

また、1995年リニア計画路線近くの大井川源流部に稼働した中部電力の二軒小屋発電所の建設などの影響で、ヤマトイワナはやはりすみかを追われ、大幅に減少した。

さらに増え続けるニホンジカの影響がさまざまな動植物に与える影響も大きい。

■危険な地域での「追加調査」をJRに要請

12日開催の生物多様性専門部会では、悪沢、蛇抜沢などの沢の上流部での追加調査を複数の委員らが求めた。当然、JR東海は、上流部の調査は「安全性を確保できない」として否定的な考えを示していた。

県は今回、さまざまな沢の渓流釣りや登山者の聞き取り調査で作成した「大井川上流域マップ」を示して、「急な滝はあるが、到達記録の情報提供」「上流部不明」「作業道から到達可能か」など15の沢について、JR東海に調査を要請した。

この聞き取りでは、どのような状況で、人命の危険性が全くないのか、さっぱりわからない。当然、地質的に脆弱な地域だから崩れや雨水の影響によって、自然の脅威はまったく変わってくる。

筆者は、西俣川から悪沢、蛇抜沢などの状況を実際に見ている。人命の安全を優先すれば、どのようなリスクがあるのかわからない地域の調査など、そもそも行政は事業者のJR東海に要請すべきではない。

上流部の調査でいったい、どのような種類の何を守りたいのか? 会議後の囲み取材で聞いたが、委員からは具体的な水生生物の名前は挙がらなかった。新種の発見を期待しているのかもしれないが、その調査をJR東海に求めることはできない。

■川勝知事の退任で「無意味な議論」はやめるべき

議論の対象にしてきたヤマトイワナ渓流釣りの対象であり、食べることを勧めている。あまりにも無意味な議論である。

生物多様性専門部会設立の目的とする「南アルプスの自然を守ることは国策である。ユネスコエコパークの生態系を保全するのは国際的な責務である」「世界の南限とされる希少動植物が多数存在し、守るべき極めて希少な生態系がある」ことは間違いではない。

しかし、これは光岳周辺地域のことであり、リニアトンネル工事による影響地域とはまったく無関係である。

川勝知事というあまりにもデタラメな権力者が退場したのだから、静岡県は「真実」をなるべく早く、県民にちゃんと伝える責務を負っている。

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小林 一哉こばやし・かずや)
ジャーナリスト
ウェブ静岡経済新聞、雑誌静岡人編集長。リニアなど主に静岡県の問題を追っている。著書に『食考 浜名湖の恵み』『静岡県で大往生しよう』『ふじの国の修行僧』(いずれも静岡新聞社)、『世界でいちばん良い医者で出会う「患者学」』(河出書房新社)、『家康、真骨頂 狸おやじのすすめ』(平凡社)、『知事失格 リニアを遅らせた川勝平太「命の水」の嘘』(飛鳥新社)などがある。

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4月12日開催の静岡県生物多様性専門部会 - 筆者撮影