(町田 明広:歴史学者)

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戊辰戦争と新政府の初期外交

 1867年(慶応3)7月7日、幕府は1868年(明治1)1月1日を期して兵庫、大坂、江戸などの開港・関市の実行を布告した。各国公使団は、大政奉還(1867年11月10日)後の12月に大坂に集結し、そして1868年1月1日に兵庫開港・大坂開市が正式に実行された。同日、サトウは日本語書記官に任命された。

 2月4日、西宮警備の岡山藩兵と英仏軍が神戸で衝突し、互いに発砲した神戸事件が勃発した。英仏軍は神戸居留地を占拠し、港内の日本艦船を抑留した。新政府は岡山藩士1名を切腹させて解決したが、英仏米連合軍は居留地を警護することになった。

 新政府は直ちに勅使として東久世通禧を兵庫に派遣し、政権交替と条約履行を約束して、開国和親を布告した。その後、サトウらも立ち会い、備前藩士滝善三郎の処刑が執行され、神戸は長州・薩摩藩兵が警護した。こうした迅速な事件処理と決断力は、外国側に好感を与えた。そして、パークスの主導により、各国は戊辰戦争への局外中立を宣言したのだ。

 神戸事件に続き、乱暴を働いたフランス軍艦水兵と同地を警備していた土佐藩兵とが衝突し、水兵11名を死傷させた堺事件が起こった。新政府は、フランスの要求をそのまま認め、11名を切腹させて解決した。さらに、3月23日、天皇謁見に参内するパークス一行を浪士が襲撃した(パークス襲撃事件)。

 新政府は、小松帯刀が中心となり、薩摩藩時代から培ったパークスとサトウとの友好関係を軸にして、これらの事件を解決した。新政府は、開始早々の危機一髪の難局を乗り切れたが、そこにはサトウによる隠れた助力があったのだ。

江戸無血開城とサトウの役割

 徳川慶喜は恭順の意を表し、上野寛永寺に蟄居した。しかし、東征軍は東海、東山、北陸道からの江戸総攻撃を準備した。サトウは4月1日から1週間程度、情報探索のため江戸へ派遣された。サトウ日記がこの間空白なため、様々な解釈が成立している。

 通説では、5日および6日の西郷隆盛勝海舟の2度の会談(高輪薩摩藩邸)の事実を知らず、7日の江戸総攻撃が延期されたことを把握していなかったとされる。これは、西郷にも勝にも、サトウは会えていないことが前提となっている。

 ところで、『一外交官の見た明治維新』によると、「わたしの主な情報源は、かつて徳川海軍の総指揮官であった勝安房守であった。わたしは人目を避けるために、ふつう暗くなってから勝を訪ねた」との記載がある。これに対する代表的な解釈として、萩原延寿『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』7(江戸開城)では、「これは、そのあともう一度横浜から江戸に出てきてからのことであろう。実情は江戸に入った当初、いったいだれが東征軍の矢面に立つ徳川側の最高責任者であるのか、サトウにもただちに察しがつきかねたのではないか」としている。

 サトウの次回出府は、4月11日であった。この段階では、江戸総攻撃は中止されており、江戸市中に安堵感が漂っていた。この時点で「人目を避ける」必要性は、どの程度あったのだろうか。断定こそできないが、サトウが勝邸を訪問したのは、4月初旬ではないかという可能性を提示しておこう。

 ところで、西郷の江戸総攻撃から無血開城への転換は、パークスの圧力であるとされている。そのお膳立ては、4月初旬に開催されたかも知れないサトウ・勝会談によって成された可能性も指摘しておきたい。そもそも、サトウの居所は泉岳寺(芝高輪)前のイギリス公使館(高輪接遇所)付近であり、西郷・勝会談地から指呼の間であった。サトウは、その会談情報を掴んでいる可能性もあり、サトウの役割は要検討であろう。

戊辰戦争とイギリスの対応

 5月3日江戸城無血開城された。7月4日、上野戦争(寛永寺に立て籠もった旧幕臣ら彰義隊が敗北)によって、関東は旧幕府軍から新政府の勢力圏となった。これを機に、パークスは新任の公使館書記官アダムズやミットフォード、そしてサトウらとともに大坂へ向かい、5月22日、外国政府代表として初めて、大坂東本願寺で新政権承認への信任状を明治天皇に提出したのだ。

 6月22日奥羽越列藩同盟が成立し、戊辰戦争は北越から東北へと展開した。11月6日、会津藩が降伏したことにより、帰趨は新政府の勝利へと決し始めた。なお、その前の9月8日から、アダムズとサトウは軍艦ラットラー号で新潟情勢とロシアの国後・択捉島占領の風説を確かめるため、北方視察に赴いた。

 なお、サトウを乗せたラットラー号は宗谷沖で座礁・遭難のトラブルに見舞われたが、フランス軍艦デュブレクスに救出され、事なきを得た。また、11月26日、サトウは東京に入る明治天皇を高輪接遇所前で見送ることができ、「鳳輦通過の際群衆が静まりかえった」と、その感動を日記に記載した。

 1869(明治2)年1月1日、東京が開市され、5日にサトウを含むイギリス外交団は皇居(江戸城)で天皇に謁見した。 ちなみに、1868年12月9日、旧幕府軍の榎本艦隊は箱館を制圧し、交戦団体であるとの声明文を発表して、諸外国に局外中立を要請した。しかし、1869年6月27日、新政府軍の攻撃により降伏し、ここに戊辰戦争は終結したのだ。

明治時代のサトウの動向

 1868年中に、サトウは賜暇帰国を希望し、1869年2月2日のシーボルトの日本帰任により、1年の賜暇帰国が確定した。サトウの功績に対し、岩倉具視から蒔絵の用箪笥、島津忠義から孔雀形の銀の舟の置物、勝海舟から脇差、明治天皇から大きな蒔絵の用箪笥などが贈られ、盛大な送別の宴が開催されたのだ。

 2月24日、長男の病気治療のため帰国するパークス夫人や会津藩士野口富蔵らとともに、サトウは横浜を出航した。後年になって、サトウは1862年からの7年間が「人生でもっとも充実した時期」「本当に生きていた」と回想している。それだけ、この期間がサトウにとって、充実した日々であったのだろう。

 1870年(明治3)11月、サトウは1年8ヶ月ぶりに日本帰任した。その後、外国人として初めて、伊勢神宮に参拝するなど日本各地を旅行した。また、日本に関する言語・考古学・歴史・民俗・地理・宗教に関する論文や旅行案内など、数多くの著作を執筆した。サトウは、それらを日本アジア協会を中心に発表し、日本研究の第一人者の称号をほしいままにしたのだ。

 1875年(明治8)、サトウは2度目の賜暇休暇で帰国した。1877年(明治10)2月、東京に帰任する途中、西南戦争直前の鹿児島に入り西郷隆盛と再会した。しかし、私学校生徒に取り囲まれていた西郷とは、会話らしい会話が叶わず、さぞや残念な思いであったことは想像に難くない。

 1871年(明治4)ころ、武田兼と結婚し、2人の息子(次男の武田久吉〈1883年3月2日 - 1972年6月7日〉は植物学者、登山家)と1人の娘が誕生している。1884年(明治17)、バンコクシャム)総領事に転任し、1885年(明治18)には公使に任命され、所属が領事部門から外交部門に異動した。

 1889年(明治22)にモンテヴィデオウルグアイ)、1893年(明治26)にタンジール(モロッコ)の公使を経て、日清戦争後の1895年(明治28)5月、日英関係強化のため日本公使に任命され、同年7月に12年ぶりに日本に赴任した。サトウの感慨は、いかがなものであったろうか。

 極東情勢の急転により、1900年(明治33)8月に駐清公使に任命され、義和団事件の事後処理にあたった。 そして、1906年(明治39)5月、清国での任務を終え日本経由で帰国し、45年におよぶ外交官生活から引退した。帰国後はオタリー・セント・メリーに隠栖し、1929年(昭和4)8月26日、86歳で逝去した。

 サトウの人生は、まさに東洋とともにあり、特に日本との繋がりは最も深いものであった。サトウなくして、近代日本のスタートはうまくいかなかったのではなかろうか。それほど、日本に大きな足跡を残し、貢献してくれた外国人であったのだ。

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