京セラと第二電電(現KDDI)の創業者であり、80歳でJAL再建を果たした稲盛和夫氏。従業員たちと車座になって語らい、現場を大切にしたリーダーシップが強い組織を鍛えあげたことはよく知られる。組織はリーダーの「器」以上のものにならないという考えから、謙虚さや情熱を求める独自のリーダー観は、26歳で京セラを創業した頃すでに育まれていた。本連載では、『一生学べる仕事力大全』(致知出版社)に掲載されたインタビュー「利他の心こそ繁栄への道」から内容の一部を抜粋・再編集し、稲盛氏が自身の人生と経営について語った言葉を紹介する。

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 第2回は、情熱をもって働いた松風工業を辞め、京セラを創業するまでを振り返る。

<連載ラインアップ>
第1回 稲盛和夫は、なぜ自衛隊の幹部候補生学校に入ろうと考えたのか
■第2回 若き稲盛和夫が「会社を辞める」と瞬時に決意した上司の一言とは?(本稿)
第3回 「給料を上げてくれ」と迫る従業員たちに、稲盛和夫が返した一言とは?
第4回 第二電電(現KDDI)創業時に、稲盛和夫が半年も自問自答した疑問とは?
■第5回 稲盛和夫が指摘、一流大出身の幹部が経営する企業が“お役所体質”になる理由(5月1日公開)

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■人間として何が正しいか

――特磁課だけは黒字を出していたものの、松風工業の社風は旧態依然としていたそうですね。

稲盛 ダラダラと仕事をし、残業代を稼ぐというのが常態化していました。そんなことをしたのでは、会社はますます悪くなっていく。特磁課もそういう風潮がありましたので、部下に「残業はするな。残業したらコストが高くなってしまう。コストを安く抑えることによって利益が出る。だから、残業は許さない」と言いました。

 管理職でもない、入社して1~2年の男がそういうことを言うもんですから、労働組合の幹部連中が「けしからん。よし、あいつを懲(こ)らしめてやろう」と。ある日、寮の部屋に数人が押しかけてきて、乱闘のようになったんです。

――ああ、そんなことがあったのですか。

 それで私は顔面に怪我をしました。翌日、その連中は「もう懲らしめたんで、きょうは会社には来ないだろう」と言っておったのに、私が包帯を巻いて会社に行ったもんですから、皆びっくりしていました。

 そのうちに、今度は組合の幹部連中が皆を巻き込んで、人民裁判を起こしました。碍子を梱包(こんぽう)する木の箱があるんですが、それを積み上げ、その上に私を乗せ、下のほうから激しく追及するという格好です。その時に、私はこう言いました。

「私は決して会社の回し者ではありません。卑怯(ひきょう)な振る舞いをして残業代をもらうようなことはすべきではないと言っているんです。私みたいな男がおってはいかんと言うのなら、いますぐにでも私は辞めます。ただし、そうなればこの会社は潰れ、皆さんは路頭に迷うことになるでしょう。私は決して間違っているとは思いません。皆さんの考えこそ正すべきです」

――全組合員を前に普通の若手社員が言える言葉ではありませんね。

 そういう点では、勇気があったのでしょうね。

――その頃から既に経営者としての考えをお持ちだった。

 経営者というよりは、人間として何が正しいか、その正しい道を追求していく正義感が非常に強かったので、そういう仕打ちに遭いながらもめげず怯(ひる)まず立ち向かっていました。

京セラ創業のドラマ

――京セラを創業されたのが昭和34年4月1日、来年でちょうど60周年を迎えます。

 早いものですね。私が松風工業を辞めて、京セラを設立することになったのは、それまで何かと面倒を見ていただいておりました上司の青山さんが新社長と馬が合わず、閑職に追いやられ、代わりにセラミックについて何もご存じない方が新しく技術部長に着任したことが1つの引き金でした。

 ちょうどその頃、私がファインセラミックスを開発していることを知った日立製作所から、セラミック真空管をつくりたいという依頼を受けていました。私は本当に喜び勇んで試作を始めたんですが、なかなか難しい形状の製品でして、四苦八苦しておったんです。

 その時に、新任の技術部長から、「それは君では無理だよ。うちには京都大学を出た優秀な技術屋がいくらでもいるんだから、君は手を引け」と言われて、大変プライドを傷つけられたもんですから、「どうぞそうしてください。私はきょう限りで辞めますから」と間髪(かんぱつ)を容(い)れずに言い放ちました。

 そうしたら、その技術部長は大変びっくりされて、皆が入れ代わり立ち代わり、「何も辞める必要なんかない」と言って、社長自ら晩御飯を食べに連れて行ってくれたりしたこともあったくらい、一所懸命慰留されました。けれども、信頼も尊敬も置けない上司の下ではどうしても頑張る気にはなれませんでした。

――それで松風工業を辞める決心を固められた。

 私のことを大変可愛がってくださっていた青山さんが、京都大学の同級生である西枝さんと交川(まじかわ)さんのもとに私を連れて行って、「優秀な稲盛君が会社を辞めたいと言っているんだけれども、もったいないので、お金を出して会社をつくってくれないか」と頼んでくださったんです。

 最初は、「青山君、何を言ってる。こんな26歳の子に事業を成功させることができるわけない」と相手にしてくれなかったものの、私も「いや、こうしてこうやればうまくいきますよ」って、確か3回くらい説明に伺ったと思います。そのうち私の熱心さにほだされて、「じゃあお金を出してあげよう」ということになりました。

 西枝さんに至っては出資金以外にも、自宅を担保にして1000万円も借り入れしてくださったんです。

――それほど若き稲盛青年のことを見込まれていたのですね。

 本当に感謝しても感謝しきれない大恩です。ちょうど昨日も西枝さんの息子さんが、自宅で採れた柿をいっぱい持ってきてくれましたけど、いまだに家族ぐるみの親交が続いています。

――創業時に血判状を交わされたそうですが、まさにドラマですね。

 血気盛んな年頃でしたから。ある晩、松風工業を辞めて私についてきてくれる7人の同志と寮の六畳間に集まり、一升瓶を真ん中に置いて、車座になりましてね。皆の結束を固めるために、順番に剃刀(かみそり)で小指の先を切って、血判を捺(お)しました。そのような経緯で、会社を立ち上げたんです。

稲盛和夫(いなもり・かずお)
昭和7年鹿児島県生まれ。鹿児島大学工学部卒業。34年京都セラミック(現・京セラ)を設立。社長、会長を経て、平成9年より名誉会長。昭和59年には第二電電(現・KDDI)を設立、会長に就任、平成13年より最高顧問。22年には日本航空会長に就任し、27年より名誉顧問。昭和59年に稲盛財団を設立し、「京都賞」を創設。毎年、人類社会の進歩発展に功績のあった方々を顕彰している。

<連載ラインアップ>
第1回 稲盛和夫は、なぜ自衛隊の幹部候補生学校に入ろうと考えたのか
■第2回 若き稲盛和夫が「会社を辞める」と瞬時に決意した上司の一言とは?(本稿)
第3回 「給料を上げてくれ」と迫る従業員たちに、稲盛和夫が返した一言とは?
第4回 第二電電(現KDDI)創業時に、稲盛和夫が半年も自問自答した疑問とは?
■第5回 稲盛和夫が指摘、一流大出身の幹部が経営する企業が“お役所体質”になる理由(5月1日公開)

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