18世紀、ヨーロッパでは女性もトップに立ち、国を治めました。その代表格ともいえるのがオーストリアマリア・テレジアでした。戦争、同盟、政略結婚……あの手この手で行われる勢力争いのなか、オーストリアは敵対するフランスと「ヴェルサイユ同盟」を結び、世界を驚かせました。立命館アジア太平洋大学の特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、18世紀のヨーロッパの覇権争いを詳しく見ていきましょう。

ポーランド継承戦争が浮き彫りにするヨーロッパ諸国の利害関係

ヨーロッパでは、ポーランド継承戦争が起きます。スウェーデン王のカール12世が若いとき、ポーランドの王様としてスタニスワフ・レシチニスキを選んだのでしたね。でも、もともとポーランドの王位を持っているのはザクセン選帝侯でした。1709年、カール12世がロシアとの戦いに負け、ザクセン選帝侯アウグスト2世ポーランド王に復位しました。

ところがアウグスト2世の死後、スタニスワフはポーランドの王様に返り咲きます。なぜ復位できたかというと、娘がフランスのルイ15世の妃だったからです。フランスバックアップで王位を得たわけです。

そうなると、ザクセン選帝侯はもちろん、ロシアも怒ります。カール12世が死んだ後、スウェーデンをやっつけたのはロシアですから。そして、フランスブルボン朝が動くと必ず、オーストリアハプスブルク家が反対に回ります。

こうして、ポーランド継承戦争は、「オーストリアロシアザクセン」対「ポーランドフランスイタリアのサルデーニャ王国」という構図になりました。

イタリアのサルデーニャがなぜフランス側についたかというと、サルデーニャを有するのは、サヴォイア公でしたね。そして、サヴォイア公の本拠地サヴォイアは、フランスのすぐ隣です。サルデーニャはイタリア統一を目指していました。しかし、イタリアで戦争を仕掛けている間に、サヴォイアの背後からフランスが攻めてきたら大変です。だから、サルデーニャはフランスと仲良くしたかったのです。

ポーランド継承戦争の陣容を見ると、ヨーロッパ諸国の利害関係がよくわかります。

意外と「いい加減」だった領地のやりとり

ポーランド継承戦争は2年間続き、1735年のウィーン和議で平和が回復します。ポーランドの王位は、ザクセン選帝侯に戻されました。代わりに、スタニスワフはロレーヌを統治することになり、王様の称号が認められました。ただし1代限りです。

かわいそうなのはロレーヌ公ですよね。領地を取り上げられてしまうのですから。でも代わりに、メディチ家が治めるトスカーナをもらいました。フィレンツェのメディチ家は16世紀にトスカーナ大公の称号をもらっていましたが、このころに、ジャンガストーネという最後の大公が死にかけていて、子どもがいませんでした。だから、ロレーヌ公には「ガストーネがもうすぐ死ぬので、そうしたらトスカーナをあげますよ。いいですね」ということで話を通して丸く収まったわけです。領地のやりとりって結構いい加減です。

パワーバランスを絵に描いたようなオーストリア継承戦争

次はオーストリア継承戦争です。1740年、オーストリアハプスブルク家でマリア・テレジアが即位します。同じ年にプロイセンではフリードリヒ2世が即位します。

プロイセンフリードリヒ2世は結構こすっからくて、どさくさに紛れてハプスブルク家のシレジアを占領します。シレジアは、ポーランドにありますが、ハプスブルク家の領土でした。フリードリヒ2世は、オーストリアマリア・テレジアが女性なので見くびって、シレジアを横取りしちゃったわけです。ここにオーストリア継承戦争が起こります。

プロイセンの動きに乗じて、ザクセンバイエルンなど、ドイツのほかの諸侯も「この機会に、みんなで領土を分捕ってやろう」と、ハプスブルク家に戦争を仕掛けてきます。

フランスブルボン家は、ハプスブルク家を目の敵にしていますから当然、プロイセンに味方します。これに対して、あまりフランスが大きくなってしまったら困るのは連合王国です。そこで連合王国がハプスブルク家と組むと、それにネーデルラントも味方します。パワーバランスを絵に描いたような戦争ですね。

見くびられたマリア・テレジアですが、一歩も引かず、オーストリア継承戦争は結局、8年も戦った末に、戦争が始まった時点の状態に戻すという約束で終わります。1748年のアーヘンの和約です。

シレジアプロイセンが占領したままです。これにマリア・テレジアは激怒しました。「8年頑張って、自分の領土を守ってきたのに、シレジアは取られたまま。私が女性と見くびって、即位するやいなや攻め入ったフリードリヒ2世を許すものか」と。

マリア・テレジアが実現した「外交革命」

激怒したマリア・テレジアは、こう考えました。「そもそも、フランスがいつもうち(ハプスブルク家)に盾突くからこんなことになるんだ。ならばいっそ、フランスと同盟を結んだらどうか。プロイセンいちころじゃないか」。そこでカウニッツという宰相を使って、凡庸なルイ15世に近づきます。

ルイ15世はガールフレンドポンパドゥール夫人のいいなりでした。マリア・テレジアは、カウニッツを介して、ポンパドゥール夫人に訴えます。「女性を見くびって攻めてきた卑怯なプロイセンを、あなたは許せますか」と。夫人は「ひどい男ね。ルイ15世に伝えておくわ」と応じます。ポンパドゥール夫人は、ルイ15世を手のひらの上で転がせます。フランスもちょうど、連合王国に近づくプロイセンに不信感を抱き始めていました。

両国はヴェルサイユ条約を結び、フランスオーストリア同盟が成立します。これは外交革命といわれました。オーストリアフランスという不俱戴天の敵が手を結んだので、ヨーロッパ中が仰天したのです。その同盟の帰結として、マリー・アントワネットフランス王家に嫁ぐことになりました。

マリア・テレジアの執念は、ロシア皇帝エリザヴェータも動かす

このころ、ロシア皇帝もエリザヴェータという女性でした。マリア・テレジアエリザヴェータにも「女性をばかにするなんてプロイセンは許せないわよね」と働きかけて、味方につけます。こうしてオーストリアフランスロシアが手を組み、プロイセンと敵対します。一方、プロイセン側につくのは連合王国です。こうして七年戦争が始まります。マリア・テレジアの執念はすごいですね。

ピョートル3世にロシア人激怒→ドイツ人のエカチェリーナ2世が即位

1760年、ロシア軍プロイセンの首都ベルリンを占領します。プロイセンの運命は風前の灯火となって、フリードリヒ2世は自殺を考えます。

ところが、エリザヴェータが急死して、ピョートル3世が皇帝になります。奇跡です。

エリザヴェータは独身だったので、姉の子のピョートル3世を後継者にしていました。けれど、ドイツにいたピョートル3世を、サンクトペテルブルクに連れてきて初めて会ったとき、エリザヴェータはがっかりしたと伝えられています。「この子ではとても皇帝は務まらない」と。そこで「早く結婚させて、孫に継がせよう」と思うわけです。

エリザヴェータには早世した婚約者がいました。その妹の娘のエカチェリーナドイツから連れてきて、ピョートル3世と結婚させます。そして、孫のパーヴェル1世が生まれると、すぐに親から取り上げて、早くピョートル3世をクビにしてやろうと思っている最中に急死したというわけです。だからピョートル3世が即位しました。

ピョートル3世はドイツ人で、フリードリヒ2世を崇拝していました。だから軍を引いてしまいます。

ベルリンからの撤退に、ロシア軍は激怒しました。苦しい戦いの末に、せっかくベルリンを占領したのに、ピョートル3世は、賠償金も取らずに勝手に引き返せと命じたわけですから。「仲間の死は犬死にか」と激怒してクーデターに発展します。

それをじっと見ていたのがピョートル3世の妻、エカチェリーナです。彼女はめちゃ賢くて、ロシア語を熱心に勉強して、ロシア人の心をすぐにとらえてしまいました。そしてクーデターの先頭に立ってピョートル3世を幽閉すると、エカチェリーナ2世として即位します。エカチェリーナ2世ドイツ人で、ロシア人の血はまったく流れていません。それでもロシアを見事に治めます。

マリア・テレジアの執念が裏目に出て、ドイツ諸侯の心が離れる

ロシア軍が引いて七年戦争は終わり、パリ条約が結ばれました。シレジアは結局、ハプスブルク家には戻らず、マリア・テレジアはまたも苦汁をなめます。しかも、シレジアにこだわったマリア・テレジアが、これまで不俱戴天の敵としていたフランスと組んだことに、ドイツ諸侯はどこか納得できません。結果として、ドイツ諸侯の心は少しずつオーストリアハプスブルク家から離れ、プロイセンに移っていくことになります。

インドと北米に兵力を集中した連合王国の賢さ

七年戦争の構図は、「オーストリアフランスロシア」対「プロイセン・連合王国」です。連合王国は、プロイセンの側についたわけですね。けれど、連合王国は、「プロイセンは遠いので兵隊を送れません」といって、プロイセンにお金を渡すだけ。「代わりに植民地で敵をやっつけます」と、ひたすらインドと北アメリカに兵力を集中させました。こうしてフランスの権益を奪っていったわけです。

連合王国は、1757年にプラッシーの戦いフランス軍を破ってインドから追い出します。さらに、北米でもフランスと戦争して勝ち、ミシシッピー川より東に広がる北米大陸の土地をほぼすべて分捕ってしまいました。やはり連合王国は賢い国です。

出口 治明 立命館アジア太平洋(APU)学長特命補佐