―[東京にビルを持とう。/青木龍]―


 不安定な経済状況が続き、物価上昇や円安が進むなか、銀行に預けているだけではお金の価値がどんどん目減りしていく。そんななかで、新NISA制度が始まるなど、“貯蓄から投資”の機運が高まっている。

「今の時代は、お金を生み出すモノ=資産に換えて増やしていく意識が必要。ビル保有こそ最強の資産防衛策である」と話すのは、『御社の新しい収益基盤を構築する 区分オフィスビル投資術』(ビジネス教育出版社)の著者であり、オフィスビルの区分所有に特化した不動産投資を手がける株式会社アグノストリの代表を務める青木龍さん(34歳)だ。

 資産運用や投資といってもさまざまな種類があるが、青木さんの言う「区分オフィスビル投資」はあまり知られていない。果たして、その真価とは? 実践法や魅力について連載を通して届けていく!

◆高校卒業後は芸能界へ「自分の可能性に賭けてみたかった」

 はじめまして。中小企業の経営者や富裕層向けの投資ビルを売買仲介する不動産会社アグノストリを経営している青木龍と申します。

 連載の第1回目では、まずは自己紹介を兼ねて私が不動産業界でどのような道のりを経て現在に至るのかお伝えしたいと思います。

 現在は自分で会社を設立し、年間100億円の不動産売買を締結するまでになったのですが、じつはもともとは芸能界で仕事をしていました。しかし、まったくうまくいかずに挫折。そこから“根性”とか“執念”で這い上がってきたと言えるかもしれません……。

 私は学生時代、小学2年生までサッカーをやっていました。その後、小学校3年生から高校1年生まで野球に打ち込み、強豪校からスポーツ推薦をもらって内定もいただいていました。しかし、いざ練習風景を見にいくと、“全国レベルの実力”に驚きました。自分との圧倒的な差を感じてしまい、落ち込んでしまったのを覚えています。

 ずっと野球だけやってきたので、なんとも言えない喪失感に見舞われました。

 結局、高校では1年で野球を辞め、友達とカラオケに行ったり、ラーメン屋でアルバイトをしたりと、学生生活を満喫していました。

 そんななか、高校在学中に芸能の世界へ興味を持つようになったのです。

 理由は2つありまして、ひとつは仲のいい同級生が芸能活動をしていて、ライバル心が芽生えたこと。もうひとつは、自分の可能性に賭けてみたかったのです。

◆俳優として「全く売れない」挫折を経験

 今振り返れば、相当無謀な挑戦だったなと思います。事務所に所属して、一応俳優だったのですが、“俳優”とは名ばかりで、仕事があればまだいいほうでした。

 全く売れない。仕事なんてほとんどなく、生活をやりくりするお金はアルバイトから捻出していました。Web CMの広告モデルも経験しましたが、当時は雀の涙ほどのギャラで、食べていけるには程遠い。

 俳優として売れることは、東大に合格するよりも難しい。次第に自分の中で、そう思うようになったのです。

 一方、まわりの友人たちは大学に進学し、卒業するタイミングで結婚する人もいました。その姿を見たときに、鳴かず飛ばずだった自分の不甲斐なさを自覚しつつ、「本当にこのままでいいのか」という思いが込み上げてきました。

 自分すら食えないのに、人を養えるわけがない。そこから“やりたいこと”と“やるべきこと”は違うのでは? という考えを持つようになり、現実を見ようと思いました。

 頑張り次第でいくらでも稼げる仕事を探したところ、不動産業界に目が留まり、そのなかで不動産投資事業を手がけるベンチャー企業へ就職することになったのです。

◆離職率9割のベンチャー企業で「何がなんでも弱音を吐かず、絶対に辞めない」

 ただ、正社員として働くのは初めての経験でした。22歳までアルバイトしかやってこなかったことにある種のコンプレックスを抱えながらも、「何がなんでも弱音を吐かず、絶対に辞めない」と心に決めていました。

 もう10年以上前ですが、私が就職した不動産ベンチャーは離職率が9割を超えるほどの厳しい労働環境で、毎日と言っていいくらい、誰かがいなくなる状況でした。

 ある時、先輩と一緒にランチへ出かけた際に、いっしょに会社を辞める誘いも受けたのですが、絶対に辞めないという信念があったからこそ、退路を断って踏みとどまれたのです。

 研修期間を終え、営業課に配属されてからも、試練は続きました。

 不動産の営業ということで、体育会の“ノリ”があるのは覚悟していましたが、入社から2ヶ月くらいした後に大失態を起こしてしまいます。

 会社の先輩から飲みに誘われ、そのまま朝まで過ごしてしまったため、起床できずに会社を無断欠勤。それが大きな問題となってしまって……。

 当然、課長からはひどく叱られたのですが、私と一緒に飲んだ先輩はそのまま連絡が途絶えてしまい、行方を探すように命じられたのです。先輩の家に張り込み、帰りを待っていました。

 結局、先輩とは会うことができませんでしたが、“一人のためにそこまでするのか……”と。今の時代で考えると、なかなかブラックだったとは思いますけど(苦笑)、不動産の営業をするうえでの「諦めない」という心構えは、こうした過去の大変だった経験から学ぶことができたと思っています。

◆入社3年目で年間50億円を売るトップセールスに

 そして、入社から4ヶ月あまりで初契約を受注。3億の案件を決めたこともあり、社内でも一定の評価をいただくことができたのです。大阪支店の立ち上げにも招集されたのですが、大阪エリアの市場開拓をしていくなかでも、3億円の案件を決めることができました。

 過酷な労働下でも耐えて結果を出せたのは、幼少期に野球で“しごかれた”経験があったこともそうですが、「人が辞めていくということは、そこで残ったもん勝ち」と考えていたのが大きかったような気がします。

 いっとき芸能に挑戦したのも、簡単なことをするのが「嫌い」だから。難しいと感じるものが「好き」で、そこに対してチャレンジしていく。うまくいかないからこそ反骨心が湧いてきて「やってやる」という気持ちになるんです。

 とはいえ、社会人1年目でもある程度の結果を残せたわけですが、直属の上司からは正当な評価がされず、営業の仕方にも疑問を感じていたことから不満が爆発し、会社へ行かなくなった時期がありました。心を洗い流すために京都のお寺を巡り、そのまま東京へ帰って、東京本社に出社したんですね。

 そこで社長に「会社を辞めるつもりはないので、上司を変えてください」と直談判しました。その結果、自分が前から尊敬していた上司に誘われ、名古屋支店の立ち上げに関わることになったのです。

 名古屋支店へ配属されてからは、1年以内に3〜4案件ほど受注し、合計で10億ほど販売しました。入社3年目には年間で50億を売り、トップセールスに躍り出ることができ、最終的には支店長を任されるようになったのです。

◆「やるしかない状況」から起業の道へ

 そんななか、会社を辞めるきっかけになったのは、“ある違和感”でした。

 入社したての頃はオフィスビルの区分所有の利回りが5%程度だったのが、1年ごとに1%ずつ下がっていくのを目の当たりにして。

 利回りが下がれば、あらゆることに支障をきたすと思い、新卒でも売ってこれる新しいコンセプトの投資商品を会議で提案したものの、案の定、却下されてしまいました。

 だったら自分でやるしかない。そう思い、会社を飛び出したわけです。

 ですが、半ば“見切り発車”で辞めてしまったこともあり、独立したはいいものの、何をすればいいかわからない状況が数ヶ月続きました。このまま何もしないと納税ができない。

 結局、消費者金融で200万円を借りて返済していく選択肢をとったのですが、結果を出さないと借金が増え続けてしまうので、個人事業として不動産売買を始めました。

 そこからいくつか受注を重ねていくうちに、「一人でも取引できる」と思い、2018年に今の会社を創業したのです。

◆手探りの会社経営

 会社を辞めて起業してから苦労した点が2つあります。

 それは「会社の看板があるからこその信用」と「仕入れから顧客開拓、銀行のやりとりを全て自分でやらなくてはならない」ことです。

 売り方は理解していても、物件の探し方もわからなければ、契約書の作成の仕方もわからない。本当に自分の未熟さを思い知らされました。

 最初の頃は、物件を保有する業者に契約書の作成をお願いしていたくらいです。とにかく、わからないことが多すぎて問題が山積みでした。

 それでも物件を売ることに注力して会社経営を続けていくなかで、3年目にバックオフィス業務を担当する社員を初めて採用しました。物件の売主の担当者と仲良くなり、飲み仲間になったのですが、そこから人材を紹介してくれて、私の会社へ入社してくれたのです。

 1号社員が入ってから3ヶ月後には、現在の名古屋支店を任せている右腕的存在の社員が入社するなど、人材にも恵まれ、今年で7期目を迎えることができました。

 こうして紆余曲折ありましたが、景気変動や天災など、いつ何が起きてもおかしくない今の時代に「区分オフィスビル投資」という“ローリスク・ミドルリターン”の方法があると、より多くの人に知っていただきたいと思っています。

<構成・文/古田島大介

【青木龍】
株式会社Agnostri(アグノストリ)代表取締役社長。1989年東京都出身。小学校から高校1年まで野球を続け、厳しい監督に鍛え上げられる。22歳で事業系不動産に特化した不動産売買の会社に就職。中小企業の経営者をターゲットに、ビル売買の営業開拓を実施。その後大阪支店・名古屋支店の立ち上げに携わる。最終的に東京で課長職に就任。会社員時代は1人で50億円を販売しトップセールスに。2018年に独立し、東京都千代田区にアグノストリを設立。会社設立後、年間100億円ほどの売買を締結。X(旧Twitter):@agnostri_aoki

―[東京にビルを持とう。/青木龍]―


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