病気や事故によって欠損した身体の一部を補う技術がある。エピテーゼと呼ばれる技法だ。質感や色彩さえも忠実に再現し、少なくとも外見上は、奇異の目に晒されにくくなる。

 東京都港区に事務所を構える「ヒューマンアートスクール」は、エピテーゼの普及や技術者の育成を目的に設立されたメディルアートラボだ。代表の牧野エミ氏は、美容師として豊富なキャリアを持ち、アメリカで特殊メイクの技法を体得した女傑。それだけでなく、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)では歯学部の顎顔面補綴科の技術を徹底的に学んだ。

 エピテーゼの浸透によって何が変わるのか。展望と限界について、牧野氏に語ってもらった。

◆印象的だった「もう少し生きていられる」という言葉

 ヒューマンアートスクールには所狭しと手や脚の石膏模型が並ぶ。完成したエピテーゼはどれも人の生身に近い弾力があり、今にも血が通って動き出しそうだ。

 実際、牧野氏はその高い技術力によって、さまざまな人々に貢献してきた。

「眼球摘出をした患者さんがいました。変わり果てた自分の顔貌にショックを受け、『こんな顔では生きられない』と嘆いていたんです。エピテーゼを使用して患者さんの希望の通りに眼球を製作しました。義眼をみて、患者さんが『これでもう少し生きていられる』とぽつりと言ったのが印象的でした」

◆患者の悲痛な叫びに寄り添う

 エピテーゼの製作はさまざまな患者の症状や要望を聞いて取り掛かる。技術力はもちろんだが、患者との対話は殊更に大切だ。場合によっては心のケアこそ重要な局面さえある。

「重度の火傷のために皮膚が焼けただれ、耳がなくなってしまった患者さんがいました。エピテーゼで耳を形成することはできましたが、ご本人は家に閉じこもりがちであるというのです。そういえば、来院するときもマフラーや手袋、マスクなどを手放しませんでした。私は彼の手を握り、『おっしゃりたいことはなんでしょうか』と聞いてみました。すると、患者さんは『僕、気持ち悪くないですか?』と緊張しながら応えました。そのとき、患者さんがそれまでいかに白い目で見られ、それを気にしてきたのか、痛いくらいにわかりました。

 私は、患者さんが人々の好奇の目に晒されないようにするにはどうすればよいのか考え、皮膚のただれを治療する提案を行いました。皮膚が前よりもだいぶ良くなってきた頃、患者さんからもっとも気になっていることを打ち明けられました。それは、火傷によって顎と首の皮膚が癒着したのを引き剥がしたことによる、縫合痕でした

 心を解き放ち、抱えているコンプレックスに一緒に向き合うこと。そして持てる技術でそれを修正していくことが牧野氏の使命であり、これまで多くの人たちの精神を救ってきた。

◆医師・看護師に知られていない理由は…

 翻ってエピテーゼがどれほど浸透しているかについては、疑問もある。牧野氏自身、こう打ち明けるほど、その知名度は高いとは言い難い。

「ここ10数年、医療機関での講演などでお話をさせていただく機会があります。医師・看護師でさえ、エピテーゼをご存知の方は少ない印象です。会場の誰も知らない、ということもさほど珍しくありません。たとえば乳がんで切除手術をしたあと、弊社へ来る人は多いのですが、『術前にエピテーゼを知っていたら悩みも少なかったのに』という声をよく聞きます」

 隣接領域にあるはずの医療とエピテーゼは、なぜ混ざり合うことがないのか。「おそらくですが」と前置きしたうえで、牧野氏はこう推察する。

「医療の本分は人命を救うことであり、それ以外のこと、たとえば『患者がどんな姿で今後の人生を生きるか』は最重要事項ではないのかもしれません。しかし人が生きるうえで、“見た目”はかなり重要なファクターです。容姿が他人と異なることは本人にとって苦痛になり、場合によっては片時も忘れられない悩みになってしまうでしょう。したがって、医療機関などで積極的にエピテーゼの案内をおこなってもらえると、患者さんにとっての選択肢を提示できるのではないかと思っています」

◆専門家から「もったいない」という意見もあったが…

 医療分野との連携は課題のひとつだが、それ以外にも、エピテーゼが広まらない理由はあると牧野氏は言う。

「大きな理由としてあるのは、技術者が少ないことでしょうね。そして、その技術をあまり広めたがらない。弊社ではスクールに通った生徒さんがどこで独立しても関知しません。むしろ自らの技術に確信が持てたなら、早く巣立って多くの人の役に立ってほしいと思っています。しかし、そういう理念の会社ばかりではないと思います」

 牧野氏がエピテーゼ界隈に参画した当時、技術はさらにごく少数の人たちのためのものだった。製作物は現在よりもさらに高額で売られ、患者はそれを必要としている以上、購入するしかなかった。牧野氏の参入以降、提供したエピテーゼは破格でかつ精巧だと評判になった。それはたとえば、こんな言葉にあらわれている。

「参加した学会などで、専門家の方から『こんないいものをそんなに安く提供したらもったいないよ』という言葉をいただくことがたびたびありました。光栄ではありましたが、やはり多くの患者さんに届けたいという思いがあったので、現在の価格設定にしました」

◆外国製では大きすぎた「男性器のエピテーゼ」

 事業である以上、対価は受け取るが、法外な設定にはしたくない――当時から現在に通底する牧野氏の理念だ。だが当然、業界内で知名度をあげれば誹謗中傷にも晒される。

「だいぶ昔の話ですが、mixiを通じて、FTM(female to male、生物学的性別が女性で自己認識が男性)の方からご連絡をいただきました。男性器のエピテーゼが欲しいという依頼でした。そのときは初めての案件でしたので、正しいものが提供できる保証がなく、希望通りのものになったら代金をいただくお約束をしました。

 その方はこれまで外国製のエピテーゼを使用していましたが、それはあまりにサイズが大きすぎるもので、適合しないということでした。確かに作りは粗雑で、外国製にしてもサイズは大きすぎますし、何より色味も本人とまったく違うものでした。一度、銭湯などにエピテーゼを落とした経験があり、ジャストサイズのものをオーダーメイドしたいという思いが強くなったようでした」

◆「特許侵害」との言いがかりをつけられる

 果たして牧野氏は依頼者が納得のいくものを作成した。依頼者は喜び、それがきっかけとなって口コミで広まった。

「数年ほど、自らの性別について悩みを抱える方々を中心にご依頼いただくことが増えました。ある日、人づてに『Xという会社のホームページに、牧野さんが教えてくれた技術に関することが細かく書かれている』と聞いたんです。弊社に出入りしている依頼者の方のなかに、X社の関係者がいるのかなとは思いましたが、特段気に留めずに過ごしていました。すると、X社から、弁理士を通じて警告書が届いたのです。簡潔に言えば、弊社が行っていることは性器エピテーゼの特許侵害だという内容でした

 この警告は言いがかりに等しかった。X社よりも前に性器エピテーゼの製作を行っている会社はあったからだ。牧野氏はX社の特許無効を証明するため、同業他社の協力を仰いだ。

「もちろん、弊社を含め、X社以前よりも性器エピテーゼを製作販売していたところは複数ありました。しかし製作の事実を証明するためには顧客情報を提出せねばならず、難航しました。そんな折、アメリカの法人で日本でもエピテーゼ販売をしているところを見つけ、協力を要請すると、快諾されました」

 こうしてX社からの訴えは一蹴されることとなったが、彗星のごとく現れ知名度を高めた牧野氏の周囲では、不思議なことが起こるようになった。

「いろいろありましたよ、ネットの掲示板に『入会金を支払わないと製作しないらしい』という事実無根なことを書かれたり。あるいは、依頼者から『生理中に印象採得(※型をとること)をしてほしい』と言われ、断ったら感情的なメールが来たり。私がこの業界で有名になることで不都合な人が多いことはわかりましたが、それ以上に、私が技術を体得することで悩みが解決する人も多いので、届けるべき人のために製作をするという志はずっと変えずにいます」

◆失った手足のようには動かないが…

 現在、牧野氏は性器エピテーゼについては既製品販売のみを行い、オーダーメイドでは、冒頭に紹介した病気や事故によって身体を欠損した人に合わせたエピテーゼを提供している。

 エピテーゼは外見を繕うが、当然ながら機能は回復しない。それでも求める人が多いことを、牧野氏はこんな視点でみている。

「エピテーゼを作りたい理由を伺うと、多くの人が『傷口を見せて他の人を驚かせたくない』とおっしゃいます。心身ともに本当に傷ついているのは他ならぬご本人ですが、周囲への気配りの言葉がまず出てきます。確かにエピテーゼは失った手足のようには動かないし、装着しても以前のような激しい運動をすれば外れてしまうかもしれません。しかしそれでも、『こんな姿で生きたかった』という形に近づけることはできる。私は自分の技術を提供することによって、その人が望む姿で生きる手伝いをさせていただいています」

 本当に大切なのは外見ではなく中身だとよくいわれる。だが形式とは、そこまで一笑に付せるほど軽いものだろうか。エピテーゼが歪な身体を隠してくれるから、直視に至らず、精神を保っていられる。あるべきものを逸失し、人並みに生きることは難しいと絶望した人たちにとって、エピテーゼは偽物でも代用品でもない。装着したその日から、第二の身体であり、尊厳を支える道標になる。

<取材・文/黒島暁生>

【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki

牧野エミ氏