20世紀初頭から、イタリアでは巨大自動車メーカーである「フィアット」が独占を続けていました。しかし、冷戦終結をきっかけにドイツフォルクスワーゲン社が大きく乗り出します。各国の情勢を把握しながら進出を進めていったドイツの戦略について見ていきましょう。鈴木均氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、詳しく解説します。

冷戦終結後、フォルクスワーゲン社が“怒涛の買収”で勢力拡大

フィアットによる独占を「度が過ぎる」と評するのは、木を見て森を見ない物言いであろう。

長く西ドイツの国民車、ビートルとゴルフを作り続けてきたVW(フォルクスワーゲン)は、冷戦中は中・東欧諸国に少量輸出するだけで、フィアットルノーのように現地工場を建設するほど積極的ではなかった。これが冷戦終結と同時に、大きく積極攻勢に転じるのである。戦前の経済的なつながりを回復するがごとく、欧州各国のブランドを買収しはじめた。

ちょうどこの頃、旧ユーゴスラビア崩壊に伴う内戦が勃発し、統一ドイツは域外に派兵するべきかどうか、「抑制の利いた戦後外交」を脱して「普通の国」になるのか、熱く議論された時期だった。自動車の世界では、普通の国どころか、普通に帝国である。

VWは手始めに、75年にフランコ将軍の独裁が終わったスペインに目をつけた。セアトは戦後まもない1950年、伊フィアットの支援を得て国有企業として創業した。主に国内向けの供給だったため、T2国である。

65年に初めてコロンビアへの輸出を実現するが、すでに登場から10年も経っているフィアット600と大きく変わらないセアト600を売ったところで、成果は乏しかった。輸出拡大のためには、創業時にフィアットと結んだ「不平等条約」を撤廃に追い込まなければならなかったが、独裁者にも国有企業幹部にも、そのような気概はなかった。

セアトにとって大きな転機は、86年、スペインのEC加盟である。民主化以降、スペインはEC域内のT1国から「ダンピング(不当廉売)輸出」を懸念されていた。他方、自国メーカーがないEC加盟国の消費者は、スペインの加盟とセアト車の輸入を歓迎した。そんな状況を、VWが黙って見ているわけがなかった。ECに加盟した同年、セアトはVWに買収された。そして以降、着々と内外でシェアを拡大した。聞こえはいいが、イタリア支配からドイツ支配に切り替わっただけ、とも言える。

1992年といえば、バルセロナ五輪を記憶している人が多いことだろう。翌93年はECがEUに生まれ変わった年でもあり、欧州全体が節目を迎えた年だった。同年、VWポロの車体とエンジンを流用した、セアト・イビサ(2代目)が登場した。そもそも84年に登場した初代イビサがVWとの提携のはじまりだったし、2代目が登場した93年、VWはセアトの株の買収を終え、完全子会社にした。T2国、確定である。

VWはセアトを傘下に収め、返す刀でチェコスロバキアが誇る古豪、シュコダを91年に買収した。これを受け、シュコダは民営化された。米ビッグ3と西欧各社がシュコダを欲しがり、最後は仏ルノーとの一騎打ちになっていた。

シュコダを売却するチェコ政府がルノー側を、自主開発の余地を残してくれるVW側を現地労組が推し、後者に決着した。旧東側のT1国の意地で、シュコダの方がセアトよりも少し長く抵抗したが、結局、独自車の開発・生産はほどなく終了した。99年、ポロ(4代目)とイビサ(2代目)の姉妹車、シュコダ・ファビアが登場した。 

「大衆車」とはいいながら、途上国では高級車に分類されてしまうゴルフやポロを、VWはもっと安く売る必要があった。そのために格安な大衆車ブランドを傘下にそろえ、各社にVWの車体とエンジンを供給し、独自のアレンジを加えさせ、お買い得な「別ブランド」として売らせた。

セアトは情熱的なスポーツ・テイストを得意とし、欧州各国のツーリングカー選手権の常連となり、シュコダは手堅い(保守的な)デザインながら、グループの最廉価ブランドを受け持った。巨大グループに成長したVWは、トヨタとグローバル首位を争うことになる。

冷戦終結直後の時期は、VWが日本戦略を拡張した時期でもあった。91年に三河港を日本の上陸拠点として整備した。2011年からは、通常は店舗で行われる納車前整備も港内施設で全て終えられるよう機能を拡張した。これにプジョーベンツクライスラーボルボフィアットシトロエンが続く。

地元自治体の特区指定も手伝い、三河港は93年以降、輸入車台数日本一、輸出台数は名古屋港に次ぐ2位の港である。車雑誌に登場するVW車は、おおむね豊橋ナンバーだ。ただしT2国、VW傘下のセアト車とシュコダ車は、日本市場には来ない。

財政難にあえいでいた古豪「ランボルギーニ」の大躍進

VW(フォルクスワーゲン)は志が高く、大衆車のラインアップを充実させて足場を固めた後、高級ブランド、スポーツ・ブランドも充実させた。フランスの老舗ブガッティに飽き足りず、イタリアを代表するスーパーカー・ブランド、ランボルギーニを99年に買収した。フィアットと関係が深いフェラーリではなく、財政難にあえぐ孤高の名門に「救いの手」を差し伸べた。

イタリア人は北部の(几帳面な)人間のことを「ドイツ人っぽい」などと軽口を叩くほど、普段はドイツにいいイメージを持っていない。VWによるイタリア・ブランドの買い漁りに対して敵対的な空気にならなかったのは、ランボルギーニ買収時、独首相がVW監査役あがりのゲアハルト・シュレーダーであり、政治的な火消しが盤石だったからだろう。イタリア側も、EU発足後の一時的な好景気が長続きせず、背に腹は代えられなかった。

ランボルギーニ社の生い立ちを振り返ってみよう。フェラーリの創業者、エンツォ・フェラーリ第二次大戦前にアルファ・ロメオのレーシング・ドライバーを務め、地元のアルファ販売店の裕福なオーナーだった。

対してフェルッチオ・ランボルギーニは、日本で言えばメカニックあがりの走り屋だった。大戦中にメカニックとして従軍したことで知識と技能を獲得、戦後、軍から安く払い下げられたトラック用エンジンを利用し、ガソリンではなく軽油で安く動くトラクターを開発・生産し、一挙に成功した。

そんな彼がスポーツカーの開発に乗り出したのは、個人で買った(念願の)フェラーリを分解、その中身と乗り心地の「酷さ」に失望し、そこにビジネス・チャンスを見たからだと言われている。

99年、VWによる買収の後に登場したのが、2003年のガヤルドである。それまでランボルギーニは、旗艦ディアブロや後継のムルシエラゴ以外生産しておらず、年間生産台数は200台から600台の間を不安定に行き来していた。当然、会社の収益も安定しなかった。

ガヤルドはVW傘下のアウディR8の姉妹車であり、アライアンスが存分に活かされたおかげで、久々に旗艦より小さい「お手頃な」モデルの投入となった。その年の内に、年産1,000台の大台に乗った。

勢いを得たランボルギーニは2011年、満を持して旗艦をアヴェンタドールに託した。車体はカーボン、700馬力発生するV12エンジンの力を四駆で路面に伝え、最高時速は350キロ超、時速100キロ到達は2.9秒の性能を誇り、世界各国の有名サッカー選手らが所有するハイパーカーの王道となった。これで同社は年産3,000台を超えた。

ランボルギーニは近年、SUVのウルスの加勢で年産9,000台に迫ろうとしている。アヴェンタドールの最終型と言われるSVJは770馬力までパワーアップしたが、さしもの「闘牛」も、次世代は何らかの電動システムで武装することとなろう。年産1万台の大台に乗ると、EUの規制によりCO2削減義務が課されるからだ。

鈴木 均 合同会社未来モビリT研究 代表