2000年以降、「受刑者のアイドル」として刑事施設などで精力的に慰問活動を続けるアーティスト・Paix2(ペペ)。500回以上のプリズンコンサートを行い、その功績から3度の法務大臣表彰などのほか、2022年には内閣総理大臣賞、その翌年には天皇陛下主催の春の園遊会にも招待されるなど、活躍目覚ましいベテラン歌手だ。今年に入ってからも、『激レアさんを連れてきた。』(テレビ朝日)でその異色の経歴が紹介されるなど、注目を集めている社会派デュオである。

 社会派デュオ――だが彼女たちをよく知る人物にいわせれば、「Paix2とはMegumi氏とManami氏の二人だけを指すのではない。あくまでPaix2は3人」とのことだ。20年以上の長きにわたって彼女たちをアーティストとして育てあげ、まったくコネクションのないところから全国の矯正施設でコンサートを行えるまでに法務省や受刑者たちからの信頼を勝ち得た敏腕プロデューサー・片山始氏。彼がいなければ、今日のPaix2はない。

 数回程度の慰問ならいざしらず、長年にわたってなぜ受刑者たちのために歌い、矯正施設を主戦場に選んだのか。その理由を問うと、片山氏の生い立ちからうかがえる思いがみえてきた。

◆2人との出会いは「歌謡祭の鳥取県大会」

 首を傾げながら鼻にしわを寄せて、片山氏は「取り上げてもらえるほど立派な人間じゃないんですが」と照れた。還暦もとうに過ぎたであろう氏の声には張りがあり、爽やかさと泥臭さが綯い交ぜになった、不思議な印象を持つ。なぜPaix2という形にこだわってここまでやってきたのか、率直に聞いた。

1998年、当時大手レコード会社に勤務していた私は日本縦断選抜歌謡祭を主催していました。その鳥取県大会にエントリーしてきたのが、彼女たちです。MegumiもManamiもグランプリなどは獲れなかったのですが、とても印象に残りました。勉強家で生真面目なMagumiとマイペースで自由な魅力を持つManami、この2人の掛け算は面白いと思ったんです。奇しくも大会のエントリー順で言うと、最初に申し込んできたMegumiと、締切すれすれで慌てて申し込んできたManami。性格が表れていますよね(笑)」

◆まずは働きながらの歌手活動を提案

 当時、地元の鳥取県看護師をしていたMegumi氏から届いた手紙には、歌がどうすれば上手になれるのだろうか、などと歌唱に関する思いが熱く綴られていたという。その真摯な思いを受け止め、片山氏は2人の歌手デビューを本格的に検討した。

「現在でも芸能関係の仕事は不安定な職業の代表格ですが、当時はさらにそうした風潮が強いわけです。ましてMegumi看護師辞めて歌手になることに親御様が反対するのは当然ですし、理解できました。そこで、私は親御様に、地元で働きながらインディーズとして歌手活動をしてみる提案を行いました

鳥取県内から火が付き、メジャーデビューへ

 同様の説得をManami氏についても行い、あくまでプロデビューまでのトライアルとして、インディーズでの活動の許可を得た。インディーズ時代の滑り出しは極めて順調だった。Paix2の強みである、どこか懐かしい曲調に無二の優しい歌声は、あらゆる人を虜にした。

「行政から宣伝しようと思い、鳥取県庁に行きました。観光課長さんに音源を聴いてもらうと、『これは爽やかなイメージだね、山陰にぴったりだ。応援しよう』と言ってくださいました。実際に、県をあげてさまざまな盛り上げをしていただいたと思います。県内の人気番組にも出演し、県庁で記者会見をさせていただく運びになりました。そのとき、学校などの教育機関を念頭に、さまざまな施設を巡ってみようと思い立ちました」

 伸びやかで誠実な歌声は県内さまざまな人の間で話題となり、およそ1年間で目標としていたCDの売上を超えた。そうなれば見えてくるのはメジャーデビューだ。

「ある大手新聞の夕刊一面に載ったことで知名度はさらに上がり、日本コロムビアと契約することができました

◆妻から言われた「忘れられない一言」

 夢のメジャーデビューを前にしたある日、片山氏が今でも反芻する言葉がある。

「妻に言われた言葉は未だに覚えています。妻は私に、『よそのお嬢さんをお預かりして、無責任に途中で放りだしたら、私はあなたを一生軽蔑するよ』と言ったんです。ちょうど私の娘と同じ世代ですから相当心配だったんでしょうね。ご承知の通り、芸能界で“食っていく”のは並大抵ではありません。Paix2もメジャーデビュー以降、鳴かず飛ばずの時期が長く続きました。必ずしも状況がよくないとき、妻の言葉は私にとっていつも立ち返る原点でした」

 インディーズ時代に刑務所を2回ほど慰問したというPaix2だが、プリズンコンサートを活動の中心に据えたのは、他でもない片山氏だ。その背景には、若き日の経験があるという。

「私は日本電信電話公社(現:NTT)に勤務する父と結婚前には教師をしていた母のもとに長男として産まれました。父の仕事の関係で、小学生のころは何度も岡山県内を引っ越しを経験しました。父は出張のやたら多い人で、給料が入っても家には入れずに全部自分で使ってしまうタイプ。いわゆる〈飲む、買う、打つ〉といった3拍子揃った人だったんです。あとで聞いた話では、“出張先”に複数の女性がいたようです。

 6人兄弟の一番上だったこともあって、中学生くらいになると家計を助けるために牛乳配達や新聞配達をしていました。同時に、結構やんちゃもしました。貧しかったことで相当プライドが傷つくことが多かったですからね。近所のお母さんから『片山くんと遊んではいけん』と言われた子もいたみたいです(笑)。家で食事ができなくても、小学生の時には学校に行けば給食がありましたので、自分はおかずだけ食べて小さな妹たちに給食で出されたパンを持ち帰って食べさせたことも珍しくなかったです。近所の仲の良い友達とスズメを捕まえて焼き鳥にしたり川で魚を捕まえたり、畑の作物の収穫後の残り物を拾ってきたり、野草を取りに行ったり、とにかく食べれるものを探しに行くことが日常。赤貧を洗うがごとしの貧しい生活でした。

 母が歯を食いしばって子供たちのために頑張っている姿が今でも目に焼き付いて離れません。私たち兄弟がその時代を生き抜いて来ることができたのは、貧しくても行儀作法には厳しかった母のおかげです。振り返ってみればあの頃の思い出は苦しくても大切な事がたくさんありましたね

◆「田舎の不良」だった時代に現在の軸となる気づきが

 爪に火を灯すような厳しい生活のなかで、片山氏はたとえ過酷な状況でも誰かしらが手を差し伸べてくれれば、人はまた這い上がれることを知った。同時に、母から言われた言葉も胸に残っているという。

「典型的な田舎の不良でした。15歳で女性を知って、しょっちゅう女性と遊ぶようになると、母は私に『お前は必ず女で失敗するよ。でもそれは自覚しないと周りがいくら言っても直らない』と言いました。当時は気にしませんでしたが、のちのち、妙にその言葉が腑に落ちるようになりました。私の根底には、『人は、最終的に本人が自覚しなければ、良い方向へはいかない』というのがあるかもしれないですね」

 犯罪者の更生に限らず、人が立ち直ることについて、周囲の理解と本人の自覚を二項対立であるかのように扱う論調がある。だが片山氏は若い頃すでに、どちらも必要であることを身をもって経験していたのかもしれない。

◆過去の行いは許されることではないが…

 その後、当時難関とされた「高等学校の普通科であれば入学させてやる」という父の言葉で奮起し、合格を手にした。生活費を稼ぐため、アルバイトをしながら通った。

「市内を循環するバスの車掌をやっていました。当時のバスには切符を受け取ったりドアの開け閉めをする車掌という仕事がありました。給料がよくて、同じような境遇の学生にとっては奨学金代わりみたいなアルバイトでした。ああいう仕事を与えてもらえるのも、ありがたかったですね。

 自分が困っているときに、必ず誰かや社会の仕組みが助けてくれたから、私も誰かの役に立ちたいという思いはずっと持っています。受刑者の過去の行いは決して許されることではありません。しかし犯罪に至るまでには、本人が何かに困窮して、しかも誰からも手を差し伸べられなかった不幸な状況があったと思うんです。そういうものを何とかできないかな、とは常に考えています」

◆活動費用のために「車や家を売却した」

 プリズンコンサートで全国の刑事施設などを巡る交通費は、当然自腹だ。さらに、プリズンコンサートは無償で行われる。費用の捻出はどうしているのか。

金銭的にはいつも苦しいですよ。ただ、Paix2をメジャーデビューさせる時点で、それはわかっていました。だから私は、2人に『社会貢献の一環として活動するから、正直、お金にはならない。それでも歌手になった以上、地球に引っ掻き傷くらいは付けて生きた証を残そうよ。せっかくこういう道筋が出来たんだから継続してプリズンコンサートをやろう』と話し、同意してもらいました。

 ありがたいことにスポンサーを名乗り出てくれる人や、さまざまな地域に住む知り合いからのご好意で、今の活動が成り立っています。きれいな話ばかりではなく、信じていた人に裏切られて多額の借金を抱えたり、足元を見られて恫喝されたことも一度や二度ではありません。ただそれ以上に、活動に賛同して支えてくれる人が多いことに、私自身が救われます。もちろん、私はPaix2の活動費用の捻出にあたって、それまで乗っていた車を売却し、生命保険を解約し、自宅も売却して、全額を充てています。

 受刑者を慰問するというのは、物見遊山ではいけません。人生すべてを賭して本気で向き合わずして、伝えられることは何もありません。また、それぞれの被害者となった方々にも失礼です。覚悟があったから、注目されない時期でも腐らずに続けてこれたと思っています

◆出所して社会で頑張っている姿に「胸が熱くなる」

 20年以上精力的に傾けたプリズンコンサートによって、受刑者の間でPaix2は確かな知名度を得た。当然、彼らとの交流も生まれる。なかには深く印象に刻まれる人もいるという。

ありがたいことに出所後、ライブに足を運んでくれる方も大勢いて、皆さんが社会で頑張っておられる姿を見ると胸が熱くなります。ある元受刑者の方からご連絡をいただき、お目にかかることになりました。ライブにも熱心に通っていただいていたあるとき、ぱたりといらっしゃらなくなりました。すると一通の手紙が刑務所から届きました。また罪を犯してしまったことを謝罪する内容の手紙でした。私の周りには、相手にするのを辞めたほうが良いという人もいました。けれども、私は放っておくのは違うと思ったんです。

 文通をしていくなかで、社会のどこにも優しく扱ってもらえる場所がなくて困っていること、刑務所であれば丁寧に接してもらえると感じていることを知りました。私は『だけど、刑務所にいることが幸せだと考えるのは間違っているよ』と伝えました。ちなみに現在出所して、就職もすることができ、職場の人間関係にも恵まれているということです。その人のためになるのであれば、さまざまな形のエールを送ることで応えたいと思っています

◆金持ちにはなれないけれど…

 片山氏なりのエールは、こんな信念のもとに送られる。

「あるとき、大金持ちの友人に『どうしたら金持ちになれるのか』を聞いたことがあるんですよ。すると、『片山さんには無理』と即答されました(笑)。その人いわく、稼いでいる父親の背中を見ていないから無理だということで。あわせて、ビジネスの世界では、金額交渉をするときに相手の懐を気にしてしまう人は儲けられないんだそうです。確かに、私は幼い頃から母の懐具合をいつも心配していました。それを聞いて、私はお金儲けをする人にはなれないけど、別の何かにはなれるのではないかと思ったんです。

 先ほどもお話したとおり、私はかつていろいろなことに困っていました。周りにも困っている人がいました。どんな困りごとであれ、力になりたいという思いが強いんです。くわえて、最終的にはお金がどれほどあっても対症療法にしかならないことも知っています。本人が自覚して行動を変えなければ、その場しのぎのお金をいくら与えても、本当に生き方を変えることはできません。お金ではない、別のアプローチでさまざまな人の状況を解決する手伝いができたらいいと思っています

◆母親から「少しくらいは褒めてもらえるかも」

 インタビューの最後、片山氏は確かに言った。

もしあの世があったら、これまでさんざん迷惑を掛けてしまった母親からも少しくらいは褒めてもらえるかもしれませんね。しばらくは自分に与えられた仕事を全うして、天国に行くとき、逢えたらいいな」

 どんなに注意深く生きても、人はしばしば間違える。だからこそ回復を手伝う誰かの手が必要になる。社会の日陰を這いずり回ってなお片山氏が絶望しきらなかったのは、周囲への感謝を手放さなかったからだろう。

“受刑者のアイドル”――センセーショナルでありながら地道で実直なその仕掛けは、氏なりの社会への壮大な恩返しなのかもしれない。

<取材・文/黒島暁生>

【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki

Megumi(写真右)とManami(写真左)