ドラマ「虎に翼」(NHK)で帝都銀行に勤めるヒロインの父親が逮捕された汚職疑惑「共亜事件」は、当時、実際に起こった「帝人事件」を基にしている。昭和の政治史を研究する菅谷幸浩さんは「帝人事件では、銀行の頭取や行員、帝人社長など、政財界人が次々に検挙された。ついには内閣が総辞職するにまでに発展した謎の多い事件だ」という――。

※本稿は、筒井清忠・編著『昭和史研究の最前線』(朝日新書)の一部、菅谷幸浩「第八章『帝人事件』」を再編集したものです。

■戦前の1934年、斎藤内閣が総辞職する大事件に発展

帝人事件は1934(昭和9)年、当時の斎藤実(まこと)内閣が総辞職する要因となった戦前最大の疑獄事件である。大蔵省幹部や閣僚経験者など、政財官界要人が株取引にまつわる不正を問われて起訴されるが、公判の過程では検察による自白の強要、自殺防止を名目とした革手錠の使用、劣悪な収容環境が明らかとなり、「検察ファッショ」「司法ファッショ」の言葉を生む。

のちに被告人全員の無罪で結審するが、判決文は検察側の主張を「空中楼閣」「あたかも水中に月影を掬(きく)せんとするの類」とまで評した謎多き事件である。当時、日本は1932(昭和7)年の五・一五事件によって政党内閣時代が終わり、非政党代表者を首班とする挙国一致内閣時代に入っていた。

このうち、1936(昭和11)年の二・二六事件以前に政権を担った斎藤内閣と岡田啓介(けいすけ)内閣はいずれも海軍出身の穏健派を首班とし、政党との協調関係を優先していたことから「中間内閣」と称されている。

現在、昭和戦前期研究のなかでは挙国一致内閣時代に政党内閣復帰の可能性が様々な局面で存在したことや、必ずしも軍部による政治介入だけでは説明できない側面が明らかになっている。

当時の斎藤内閣や中央政界の動きをたどることで、帝人事件の政治的背景にアプローチしていく。そのことで斎藤内閣の果たした役割や、帝人事件が昭和史に残した影響を考えてみたい。

■五・一五事件で犬養首相が殺された後に成立した斎藤内閣

1932(昭和7)年5月15日、時の首相・犬養毅(いぬかいつよし)が海軍青年士官らにより暗殺されると、総裁を失った立憲政友会は20日の臨時党大会で元田中義一(ぎいち)内閣内務大臣・鈴木喜三郎を新総裁として承認する。この年2月の第18回衆議院議員総選挙で政友会は303議席を占め、立憲民政党147議席に大差をつけていた。それまでの「憲政の常道」の原則に鑑みれば、衆議院第一党の総裁である鈴木に大命が降下するはずであった。

しかしながら、元老・西園寺公望(さいおんじきんもち)は26日、元朝鮮総督・斎藤実(元海軍大将)を後継首班として奏薦する。斎藤内閣には政友会から高橋是清(これきよ)が大蔵大臣、鳩山一郎が文部大臣、三土忠造(みつちちゅうぞう)が鉄道大臣、民政党から山本達雄が内務大臣、永井柳太郎が拓務大臣として入閣し、衆議院二大政党から支持を受ける超党派連立内閣の形をとる。斎藤にとって、この内閣は「非常時」に対処するための暫定政権であり、将来的には政党内閣復帰を意図していた(村井良太『政党内閣制の展開と崩壊』)。

■世界恐慌から脱した1933年、「非常時」からの復帰が求められた

かつては1931(昭和6)年の満州事変から1945(昭和20)年の敗戦に至るまでの期間を「十五年戦争」として一括する見方が一般的であった。しかし、今日の研究では1930年代における日本の政治外交は急激な変動を伴うものではなく、戦時体制の連続として捉えられないことが明らかになっている。1933(昭和8)年5月、塘沽(たんくー)停戦協定成立により日中関係は過渡的安定期に入り、同年半ばには高橋財政の成果により、日本経済は世界恐慌から脱却している。このように1933年を境として、日本国内では「非常時」の空洞化が認識されるようになるのである。

1933(昭和8)年10月頃になると、中央政界では斎藤内閣退陣と政党内閣復帰を求める声が高まっていく。とくに鈴木ら政友会執行部は「非常時」解消の目途がついた段階で、政権を円満な形で斎藤から政友会に移行させるべきだと考えていた。しかし、この年5月22日、高橋蔵相が斎藤に対して留任を約束したことは鈴木の期待を裏切るものであった。

■軍部を抑えるため二大政党の政友会と民政党が接近した

5月24日、政友会元幹事長・久原房之助(くはらふさのすけ)は一国一党論を宣言し、6月上旬になると、久原派は「非常時」未解消での政党内閣復帰は認められず、政党と軍部が連携した強力な挙国一致内閣樹立を求める檄文を公表する。これらは鈴木による党指導の行き詰まりに付け込んだ総裁派攻撃を意味していた(奥健太郎『昭和戦前期立憲政友会の研究』)。このため、斎藤内閣としても政友会との関係を鈴木ら執行部だけに依存できない状況になっていたのである。

当時の商工大臣・中島久万吉(くまきち)の回想によれば、この年秋、元老・西園寺公望秘書・原田熊雄の呼びかけで出席した「朝飯会」の席上、軍部抑制のためには政党の浄化と強化が必要であり、その手段として政民両党の接近が急務であると申し合わせていた。これに基づき、中島は政友会の島田俊雄、民政党の町田忠治を新橋の料亭で会談させ、斎藤の了解も得たうえで、政民両党幹部懇談会を開催することになる(中島久万吉『政界財界五十年』)。このように政民連携運動を御膳立てしたのは斎藤内閣の側であった。

■2党が団結できなかったことが斎藤内閣総辞職につながった

12月25日の政民両党幹部懇談会には政友会から顧問・床次(とこなみ)竹二郎、幹事長・山口義一、政調会長・前田米蔵、久原房之助、浜田国松、島田俊雄、山崎達之輔、松野鶴平、内田信也、望月圭介、山本条太郎、秋田清、川村竹治、民政党から顧問・町田忠治、幹事長・松田源治、俵孫一、小山松壽、頼母木桂吉(たのもぎけいきち)、櫻内幸雄、富田幸次郎、小泉又次郎、小橋一太(こばしいちた)が出席し、憲政の基本は政党政治にあることを確認する。

民政党側は主流派のみが参加しているのに対し、政友会側は総裁派(山口、島田、松野、川村)に加え、1924(大正13)年の分裂時に残留した旧政友系(前田、浜田、山崎、望月、山本、秋田)のほか、久原派(久原、島田)、床次系(床次、内田)など、複数の勢力が混在していた。

当時、政民連携運動には、①満州事変期に協力内閣運動を展開した久原房之助と富田幸次郎を中心とするもの、②衆議院議長・秋田清(政友会長老)と小泉又次郎(民政党元幹事長)を中心とするもの、③鳩山一郎ら政友会幹部を中心とするもの、という三つの潮流があった(升味準之輔(ますみじゅんのすけ)『日本政党史論』第6巻)。

先の懇談会出席者の内訳で明らかなように、政友会側で政民連携運動に関与していた勢力は一つではなかった。そのことがのちに政民連携運動の挫折と斎藤内閣総辞職をもたらすことになるのである。

■レーヨンで急成長した帝人の親会社である総合商社が経営破綻

大正時代、日本経済は第一次世界大戦終結後の戦後恐慌、関東大震災に伴う震災恐慌により甚大な打撃を受ける。震災手形の処理問題は昭和初期まで引き継がれ、1927(昭和2)年に発生する金融恐慌の背景となる。

ちなみに同年4月に経営破綻した鈴木商店は大戦間期に急成長した総合商社の一つであった。当時、鈴木商店系列の帝国人造絹糸株式会社(以下、帝人)の株式42万株のうち、22万株が台湾銀行に担保として預けられていた。台湾銀行は日本銀行から特別融通を受けており、本来、帝人株式はその返済に充てられるはずであった。

その後、折からの人絹市場好況によって買い付けの動きが高まり、1933(昭和8)年5月30日、台湾銀行は帝人監査役・河合良成(かわいよしなり)を代表とする買受団との間で帝人株式10万株を1株125円で売却する契約を交わす。まもなく帝人株式は値上がりし、買受団側は高配当を手にすることになる。

■台湾銀行が帝人株を売却した後に株価が上がり、疑惑の報道が

当時、この売却契約は一部で報道されていたが、1934(昭和9)年1月から始まる『時事新報』の連載記事「番町会を暴く」(全56回)により政治問題化していく。この連載は時事新報社相談役・武藤山治(さんじ)の指示により、同紙記者・和田日出吉(ひできち)が大森山人の筆名で執筆したものである(武藤治太『武藤山治と帝人事件』)。

番町会とは日本経済連盟会会長・郷誠之助を中心とする財界人グループの通称であり、1923(大正12)年に麹町(こうじまち)番町にある郷の私邸で開かれた懇談会が始まりである。1933年末から議会政治擁護、政民連携の必要性を掲げており、政民連携運動の仲介役を務めていた実業界出身の中島商相もそのメンバーであった。『時事新報』は、その番町会が有力者に仲介を依頼することで帝人株式を廉価で不正入手し、かつ、政民連携運動を名目にして利権劇を繰り広げていると攻撃したのである。

検察当局は1934年2月から内偵を始め、4月から9月にかけて関係者を検挙していく。のちに島田茂(台湾銀行頭取)、長崎英造(旭石油社長。番町会)、高木復亨(帝人社長、元台湾銀行理事)、柳田直吉(台湾銀行理事)、永野護(帝人取締役。山叶商店取締役。番町会)、小林中(あたる)(富国徴兵保険支配人。番町会)が背任および瀆職(とくしょく)(汚職)、河合良成(日華生命専務、帝人監査役。番町会)が背任、越藤恒吉(こしふじつねきち)(台湾銀行経理第一課長)、岡崎旭(帝人取締役。元台湾銀行秘書役)が背任および贈賄、黒田英雄(大蔵次官)、大野龍太(大蔵省銀行局特別銀行課長)、相田岩夫(大蔵事務官・台湾銀行監理官)、志戸本次朗(大蔵省銀行局検査官補)、大久保偵次(大蔵省銀行局長)、中島久万吉(元商工大臣)が瀆職、三土忠造(元鉄道大臣)が偽証(帝人株式300株収受の否定)の容疑で起訴される。

■台湾銀行頭取や帝人社長らが汚職で次々に検挙された

なお、この帝人事件に関連して失脚することになる閣僚のうち、中島と鳩山に対しては検察の捜査開始前から議会内で攻撃が始まっていた。

1934年2月3日、第65回貴族院本会議で同和会の関直彦は帝人株式が政府高官の仲介で不当売却されたことを追及するが、この演説内容は1月中旬、武藤山治から提供された資料に基づくものであった(前島省三『新版・昭和軍閥の時代』)。

同月7日、公正会の菊池武夫(元陸軍中将)は中島の雑誌論文「足利尊氏」(『現代』1934年2月号)の内容が逆賊賛美にあたると批判する。これは中島が中島華水の筆名で発表した「鶏肋(けいろく)集(其三)」(『倦鳥』1925年3月号)が無断で転載されたものであった。菊池は三土鉄相に対しても田中内閣蔵相在任中の神戸製鋼株処分や、鉄道工事をめぐって不正疑惑があることを指摘する。さらに研究会の三室戸敬光(みむろどゆきみつ)(元海軍大佐)も緊急質問として登壇し、尊氏問題に関する中島の所見を追及する。

■帝人株問題が飛び火し鳩山一郎文部大臣も辞職、政局は混乱

2月6日、内大臣・牧野伸顕(のぶあき)は昭和天皇に対し、「中島商相の尊氏論云々の事情も只(ただ)御参考として御聞取りの事なれば何等支障は無之(これなく)」と述べ(伊藤隆・広瀬順皓編『牧野伸顕日記』中央公論社)、楽観的に捉えていた。しかしながら、中島はこの3日後には辞任を余儀なくされる。

この間、同月8日の衆議院本会議では政友会久原派の岡本一巳(かずみ)が三土、鳩山、中島の3閣僚を名指しして帝人株問題を取り上げ、樺太工業株式会社をめぐる鳩山の収賄疑惑を暴露する(五月雨(さみだれ)演説)。岡本はこの2日後に政友会を除名処分となるが、同15日には同じく政友会の江藤源九郎(元陸軍少将)も衆議院本会議での緊急動議で鳩山と三土の背任疑惑を追及している。

3月3日、衆議院の事実調査委員会は岡本の発言内容を事実無根とする報告書をまとめ、議長宛に提出するが、鳩山は文教政策への影響に鑑み、同日付で辞任する。鈴木ら政友会執行部にとって、岡本の五月雨演説はまったくの寝耳に水であり、党内の混乱を印象付けるものであった。

※後編に続く

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菅谷 幸浩(すがや・ゆきひろ)
政治学者
1978年茨城県生まれ。学習院大学大学院政治学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(政治学)。亜細亜大学法学部・高崎商科大学商学部兼任講師。著書に『昭和戦前期の政治と国家像』(木鐸社)、共著に『立憲民政党全史1927-1940』(講談社)がある。

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斎藤内閣発足時の記念撮影。2段目左から鳩山一郎文相、斎藤実首相兼外相、岡田啓介海相。1932年5月25日(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)