慶應義塾の同窓組織「三田会」は一流企業だけでなく芸能やテレビなど多業界に根を張り巡らしている。4月、旧ジャニーズ事務所の嵐が設立した「株式会社嵐」の主要メンバー櫻井翔氏に加え、社長(弁護士)も塾員だ。ジャーナリストの田中幾太郎さんは「塾員の中でも幼稚舎出身者は自分たちが慶應を体現している特権意識がある。櫻井さんは早くも自分の子供を母校に入れるために始動したとの報道もある」という――。

■慶應OBOGの“異様”な母校愛

〈この度、我々嵐は5人で会社の設立を致しましたこと、ご報告申し上げます。メンバーも全員40代を迎えました。これまで以上に主体性をもち、これまで以上に主体的に判断をし、これまで以上に主体的に行動したい〉

2020年大みそかのコンサートを最後に、活動を休止していた嵐のメンバー5人が、4月10日、旧ジャニーズ事務所傘下でオープンしたての「STARTO ENTERTAINMENT」社の公式サイトで新会社「株式会社嵐」を立ち上げたことを発表した。

ファンが待ち望んでいたこの再結集だが、慶應人脈が深く関わっている。

小学校(幼稚舎)から大学まで16年間、慶應に通ったメンバーの櫻井翔氏はもちろんだが、塾員(慶應義塾大学卒業生)の立役者がもう一人いる。

株式会社嵐の社長に就任した経済学部出身の弁護士・四宮隆史氏だ。NHKエンタープライズ21に入社し番組ディレクターを務めたのち、司法試験に挑戦し合格したという異色の経歴の持ち主。この四宮氏の名を一躍有名にしたのは映画『宮本から君へ』(2019年公開)を巡る裁判である。

文化庁所管の独立行政法人「日本芸術文化振興会」(芸文振)は同映画へ1000万円の助成金交付を内定。ところが、出演者のピエール瀧氏が麻薬取締法違反で逮捕され有罪判決が出ると、芸文振は助成金不交付を決定する。

これを不服として、映画製作会社のスターサンズは訴えを起こす。原告の弁護団長を務めたのが四宮氏だった。東京地裁でいったん原告勝訴の判決が出るが、東京高裁では敗訴。昨年11月、最高裁は「不交付は違法」として逆転勝訴が確定した。

「この判決は慶應の勝利」と話すのは自身も塾員である映画関係者。芸文振の不交付決定に憤り裁判に踏み切ったスターサンズ社長の河村光庸氏(2022年6月死去)も実は慶應OB(経済学部中退)だ。

四宮、河村両氏を知る映画関係者は「慶應の人間はスマートなだけではない。粘り強さを兼ね備え、どこまでも信念を貫く」と強調する。

いささか慶應を持ち上げすぎという感じがしないでもないが、それだけ母校愛に溢れる塾員が多いのだ。その強さゆえに、自身の子どもをなんとしても慶應に入れたいと思うのも、彼らのよくあるパターンである。

昨年2月に第1子が誕生した嵐の櫻井翔氏。子どもを幼稚舎に行かせるために、早くも名門幼児教室への入塾準備を進めていると『週刊女性』(4月9日号)が報じた。

もしこれが事実だとしても、現在1歳の櫻井氏の子どもが幼稚舎の入試に臨むのは2028年11月である。「そんなに急がなくても大丈夫。4歳くらいからで十分間に合う」と話すのは“お受験”専門の塾経営者だが、現実には「少子化の中、親が子どもにかける時間と費用が十分にあるため、準備を始めるのが早まる傾向にある」という。

特に目立つのがそのブランド力を知り尽くす幼稚舎OB・OG。息子や娘も幼稚舎に入れたいと思い、必死になる保護者が少なくないのだ。

■「自分たちが慶應を体現」という幼稚舎生の特権意識

櫻井翔氏だけでなく、慶應出身の芸能人は数えきれないほどいる。現在、法学部には芦田愛菜さんが在学中だ。ただ、「彼女は外部ですよね」と少し見下すように話すのは30代の幼稚舎OG。幼稚舎出身者は自分たちのことを「内部」、中学以降に慶應に入ってきた生徒を「外部」と呼んで区別するのだ。芦田さんは都内の区立小学校から中等部を受験して慶應に入学したので、外部というわけだ。

これは「自分たちこそが慶應を体現している」という幼稚舎生のプライドの表れといっていいだろう。1874年(明治7年)に開学した日本最古の私立小学校であり、大学部の発足(1890年)よりだいぶ早い。慶応義塾大学までエスカレーター式に内部進学できる魅力は大きく、お受験界では最難関の小学校という位置を守り続けている。

「合格すれば、受験した本人に高いハードルを乗り越えたという達成感が生まれるのは当然。しかし、自分たちは特別だという意識を持つのは子どもにとってマイナスにしかならない。保護者には気をつけてほしいと伝えているのですが」(幼稚舎元教員)

幼稚舎から入ってきた生徒はどうしても、誇りと驕りばかりが高まる傾向が強いという。

「特に保護者が幼稚舎出身の場合、自身の生き方に疑いを持ったことがあまりなく、子どもにとってもそれがベストだと信じ込んでいる。家庭全体が慶應カラーに染まりやすく、親子ともども視野が狭くなっているのです」(同)

かつては近い親族に慶應出身者がいないと幼稚舎合格は難しいというのが定説だった。前出の塾経営者は次のように話す。

「一度調べたことがあるのですが、90年代あたりまでは幼稚舎の合格者の3分の1は2等親以内(親、祖父母、兄姉)に塾員か塾生(慶應の在学生)がいた。2等親までいかなくても、合格者の7割は近親者に塾員がいた。逆にいえば、そうしたコネを持たない受験者は明らかに不利だったのです」

最も有利なのは親や兄姉が単なる慶應というだけでなく、幼稚舎出身者のケースだという。こうした縁故枠疑惑を払拭しようと改革に乗り出したのは1999年4月に幼稚舎長(校長)に就いた慶應義塾大学教授(現名誉教授)の金子郁容氏である。

自身も幼稚舎OBである金子氏はとかく不審の目が向けられる同校の入試のあり方にメスを入れる必要があるとかねてから考えていた。まず行った改革は入学願書の祖父母の欄をなくしたことだった。それまでは氏名に加え、学歴や経歴まで書かせていた。両親に関しても、氏名だけを記入する方式に改めた。さらに、保護者面接をなくすことを決めた。余計な要素を排除し、受験者本人のパフォーマンスだけで判定しようというのである。

金子改革以降、完全に縁故枠がなくなったかといえば、まだ怪しいところも残っている。

慶應の創始者・福澤諭吉の玄孫(やしゃご)で人気ドラマ『VIVANT』も手掛けたTBSの演出家・監督の福澤克雄氏がイベントで挨拶に立ち、大物俳優の子どもを幼稚舎に「自分が入れた」と語ったのだ。場を盛り上げるためのリップサービスだったようだが、「やはり幼稚舎は今でもコネがないと入れないのだ」と思った人も多く、波紋を広げている。

■共に罪に問われ裁判沙汰になった高橋治之・治兄弟の歪んだ慶應愛

この福澤克雄氏も幼稚舎出身。小5でラグビーを始め、大学では当時社会人王者のトヨタ自動車を破り日本一に輝いた。大学を卒業するまでラグビー漬けの日々を送り、慶應義塾高校(通称「塾高」)1年の時、留年している。ラグビー部の練習に明け暮れ、出席日数が足りなくなったのだ。塾高の元教員は「諭吉先生の血筋であろうと、慶應は容赦なく落第させると学内でも大きな話題になった」と振り返る。

まさに慶應を体現する一人だが、福澤氏以外にも忘れてはならない象徴的な兄弟がいる。

東京オリンピックパラリンピックを巡る汚職事件で現在、被告の身となっている高橋治之氏(大会組織委員会元理事)と、その弟・髙橋治則氏である。

2人とも幼稚舎から慶應に入った。父はテレビ朝日の前身の日本教育テレビの立ち上げにかかわり全国朝日放送で取締役を務めた人物。裕福な家庭だった。

治之氏は塾高時代に、当時は16歳から取得できた軽乗用車運転免許をとり、父が所有する外車を乗り回していた。1960年代初頭の話である。典型的な慶應ボーイだった。

5つの企業から大会のスポンサー契約やライセンス商品の審査などをめぐり、総額2億円近い賄賂を受け取った罪に問われ、本人は否定しているが、現在も裁判が続いている。

より慶應を愛していたのは弟のほうだろう。治則氏は塾高1年の時、仲間と内輪のパーティーを企画。パーティー券を売りさばいたことが学校側に知られ、首謀者と見なされた治則氏は退学処分になってしまう。

世田谷学園に転校したが、遊ぶ相手は幼稚舎の同級生だった。そして、大学は一般入試で慶應の法学部を受験。合格し、再び慶應に戻ってくるのである。

治則氏は慶應を卒業すると、日本航空に入社。同社に籍を置いたまま、不動産開発投資会社イ・アイ・イ・インターナショナルを設立。世界各国でリゾート開発を手がけ、総資産はすぐに1兆円を突破したが、まもなくバブルが崩壊し、メインバンクから支援を打ち切られ、経営破綻に追い込まれる。

1995年、治則氏は背任容疑で逮捕され、東京地裁で懲役4年6カ月、東京高裁で同3年6カ月の実刑判決が出た。最高裁で争っている最中の2005年7月18日、治則氏はくも膜下出血に襲われ還らぬ人となった。59歳だった。

告別式は幼稚舎から歩いて15分ほどのところにある永平寺別院長谷寺で行われた。幼稚舎時代からの仲間も駆けつけ、参列者は2000人にも及んだ。追い出されても母校に舞い戻った男を慕うように、塾員たちはここぞとばかり集結したのだった。

■企業内「三田会」会員 東京海上1700人、日立1500人、三井物産1000人

慶應の結束力の強さが一番発揮されるのは企業においてである。「慶應にはかなわない」とぼやくのは電機メーカーに勤める早稲田大学出身のベテラン社員だ。「出世レースでも多くの場面で慶應に先を越されてきた」と振り返る。その原動力となっているのは慶應の同窓組織「三田会」である。一流企業の多くに根を張り巡らし、その威力を存分に発揮している。「早稲田にも企業別の稲門会(同窓会組織)がありますが、その人数も影響力も三田会とは比べ物にならない」という。

最も会員が多い企業内三田会は東京海上日動火災保険で、その人数は1700人。続く日立製作所も1500人もいて、企業における一大勢力になっている。1000人の会員がいる三井物産で三田会役員を務めたOBは「人数は力」と強調する。

「必然的に上司にも塾員が多くなり、それが有利に働くのは事実。露骨な登用はないにしても、三田会の会合で顔を合わせる機会も多く、覚えがいいという面はある」(同)

前出の早稲田出身のメーカー社員は、「慶應の人たちは彼らだけで飲みにいって親睦を深めている。よほど馬が合うのでしょうが、社会人になってもずっと母校のコネに頼って、いつまでもつるんでいる印象」と冷ややかに話す。

「そのメリットを知っているだけに、自分の子どもも慶應に入れたいという気持ちになるんです。子どもにも三田会ネットワークの恩恵にあずからせてやりたいと……」と話す三井物産OBは息子を幼稚舎から慶應に入れた。こうして塾員たちの母校愛は親から子へ引き継がれ増幅していくのだろう。

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田中 幾太郎(たなか・いくたろう)
ジャーナリスト
1958年東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。教育、医療、企業問題を中心に執筆。著書は『慶應三田会の人脈と実力』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)ほか多数。

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慶応義塾大学の旗(写真=慶応義塾大学/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons)