京都大学霊長類研究所(霊長研)に所属していた研究者らが発表した論文「霊長類研究所解体の経緯を考える」は、国内有数の研究拠点であった霊長研が2021年度末に事実上解体されるに至った経緯を、裁判記録や公的資料を精査して分析した報告書である。

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 京都大学の附置研究所である霊長研は、1967年愛知県犬山市に設立され、1975年に完成した。野外研究と実験室研究を架橋する学際的なアプローチを推進し、さまざまな画期的成果をあげてきた。中でも飼育チンパンジーを対象とした研究は高い知名度を誇っていた。この分野のリーダーであるA教授とその研究グループは、巨額の研究資金を獲得し、最先端の研究設備を整えるとともに、国際的な人材育成・交流を推進していた。

 しかし、大型研究プロジェクトを推進する過程で「研究資金の不正使用」と、別の教授による「論文の捏造」が発覚。21年10月、京都大学の総長は、これらの不正行為を見逃した霊長研全体の責任を問い、研究所の改編を決定した。

 実験室研究の教員は新設のセンターに集約され、野外研究の教員は学内の関連部局に分散された。不正事件に直接関わった部門は廃止となり、教員の補充人事も凍結。この措置により多数のポストが消滅し、霊長研は実質的に解体されたのである。

●研究費の不正使用は11億円超に

 A教授を中心とする研究グループは、10~15年度にかけて、総額17億円を超える大規模な研究費を獲得し、認知研究のための飼育チンパンジー用の大型ケージの建設を計画していた。

 11年5月から、大型檻の建設業者を選定する入札が4回行われた。入札ではX社やY社が落札。しかし、Y社に関してはA教授とB准教授(のちに教授)から予算額を事前に知らされていたにもかかわらず、赤字承知で応札し、工事を行った。その結果、Y社の工事した3件の合計落札額2億9900万円に対して、受注額の2~3倍の工事をしたことになり、Y社は合計4億9900万円の赤字を抱えることになった。

 B准教授は、後の工事で埋め合わせをするからと約束し、予算を超える工事をY社に要求していた。しかし、超過費用の埋め合わせはわずかしか実行されず、A教授とB准教授は研究費の不正経理を34件も繰り返した。例えば、1つの工事に2回の発注、購入物品を別の目的に使用、架空取引、談合、入札妨害などである。

 Y社のZ社長は、A教授とB准教授に赤字の補填を懇願したが、ごく一部しか実行されず、やがて連絡を打ち切られた。15年、Z社長は京都大学とA教授、B准教授を訴えたが、A教授とB准教授は「約束した覚えはない」と主張し、裁判所は京都大学側に賠償の責任はないと判断した。

 提訴から3年後の18年、Z社長による公益通報と会計検査院の検査を受けて、京都大学はA教授のグループの研究資金経理について調査を開始。その結果、計34件、約5億670万円の不正経理が発覚した。それとは別に会計検査院の調査によって約6億2100万円の不正経理の指摘があり、合計で11億2823万円に上った。京都大学はA教授とB准教授を懲戒解雇し、関与した他の教員に停職、事務職員に戒告処分を下した。

●同時期に4本の論文で捏造発覚

 ほぼ同じ時期、霊長研のF元教授による4つの論文が、実験実施の事実自体が認められず、「捏造」と認定された。捏造が発覚したのは、実験に際して霊長研の倫理委員会の承認を得ていなかったことがきっかけであった。

 F元教授は、不正調査委員会の請求に対して調査への協力を行わず、研究資料データなどの資料提示を一切行わなかった。また、研究データの保存・開示を行わず、研究室にも調査対象の論文に関連する資料は残されていなかった。調査委員会の捏造認定を受けて、京都大学はその時点ですでに定年退職していたF教授の退職金の支給を差し止めた。

 F元教授がなぜ論文捏造に及んだのかは不明である。論文執筆の時点では、F元教授は定年を間近に控えており、すでに多くの研究業績によって国内外の研究者たちから高い評価を得ていたため、このような大々的な捏造をおこなってまで数編の論文業績をあげる必要性は低いと思われる。

●日本の研究組織の課題は“トップの経営能力”か

 霊長研の解体は、日本の霊長類学の発展に大きな打撃を与えるものだが、その背景には複合的な要因があったことがうかがえる。

 その一つに、文部科学省の「選択と集中」政策により、一部の研究者に巨額の研究費が投入されていた点である。A教授らのグループは、霊長類学としては大型予算を獲得していたが、その使途を巡って問題を引き起こした。

 10~12年度の獲得総額14億円は、霊長研全体の競争的資金の6割超、運営費交付金を含む総予算の35%に相当する。巨額の公的資金は研究の発展に寄与する一方、資金力に物を言わせた独善的なプロジェクト運営を招く危険性もはらんでいる。

 また、研究組織の長が組織経営の能力に乏しい点も挙げられる。日本の研究組織では、組織経営の能力がなくても研究者代表が長になるのが現状。優れた研究者であっても、周囲から慕われた研究者であっても、経営の素人が多額の研究予算を管理運営しているのが実情なのである。

 この状況を改善するには、研究面の卓越性だけでなく、責任者としての自覚と経営管理能力を兼ね備えたリーダーの育成が必要だと指摘している。しかし、現状では、研究組織の長が組織運営や経営についての訓練を受ける機会は少ない。改善策として、研究組織の長に対して組織運営の講習を義務付けることが論文では提案されている。

 Source and Image Credits: 杉山幸丸,相見満,黒田末寿,佐倉統. 霊長類研究所解体の経緯を考える. DOI: https://doi.org/10.51094/jxiv.405

 ※2014年から先端テクノロジーの研究を論文単位で記事にしているWebメディア「Seamless」(シームレス)を主宰する山下裕毅氏が執筆。新規性の高い科学論文を山下氏がピックアップし、解説する。X: @shiropen2

現存する公式Webサイトから引用