「121」「79000」――これらの数字が何を表すか分かるだろうか。それぞれ「中国の100万人以上の都市数」「日本の100歳以上の高齢者数」である。人口学者のポール・モーランド氏は、出生率、都市化、高齢者の増加といった、人口動態に関する10のテーマから、世界の歴史と現在を解説し、未来の予測を試みている。そこからは、人口増加が必ずしも経済発展につながらないことや、高齢化が紛争解消に役立っていることなど、意外な事実が浮き彫りになる。本連載では、同氏の『人口は未来を語る 「10の数字」で知る経済、少子化、環境問題』(ポール・モーランド著/橘明美訳/NHK出版)から内容の一部を抜粋・再編集、人口動態が今後の世界をどう変えていくかという論考を紹介する。

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 第4回は、人口動態と民族、アイデンティティの関係について考える。

<連載ラインアップ>
第1回 英国のEU離脱、ソ連崩壊、トランプ大統領誕生・・・人口動態が及ぼす影響とは
第2回 日本の幸福度は先進国の中で最低、遠因となった「低出生率の罠」とは?
第3回 イギリスで調査、上位10%の高所得者と貧困層の平均寿命は何歳違うか?
■第4回 トランプ、サッチャーらの言動が映し出す「アイデンティティ」の複雑さとは?(本稿)
第5回 日本、イギリス、イスラエルが抱える人口動態の「トリレンマ」とは?

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 一般的にアイデンティティというものは、わたしたちが思っているほど単純なものではない。たとえばアイルランドも複雑極まりない。アイルランド人の多くは、自分たちは入植したイングランド人に虐(しいた)げられてきたという意識を持っている。

 しかしイングランドからアイルランドに移り住んだのは、ときにはイングランド人ではなくノルマン人だったこともあるわけで、またやってきた人々はしばしば地元の人々に同化してきた。現在のアイルランド人は、イングランドにいるアイルランド系の人々以上に、入植者の遺伝子が強い人々の子孫である可能性が高い。

 アルスター地方では、17世紀に主としてスコットランドから長老派の人々がこの地方の西部に入植したが、その多くは地元に同化し、カトリックに改宗した。これに対して東部にいたもともとのカトリック信者は、次々と入ってきた入植者の影響を受け、プロテスタントに改宗することが多かった。ナショナリスト〔アイルランド統一派〕の指導者にアダムズやウィルソンといった英国系の名前の人物がいて、ロイヤリスト(王党派)〔イギリス帰属派 〕のテロリストにマーフィーといったアイルランド系の名前の人物がいるのも、これで説明がつく。

 他方、その多くがかつてアイルランドに移住したイングランド人やスコットランド人の子孫であることが間違いないIRA(アイルランド共和国軍)が、イギリス本土で爆破事件を起こしていたころ、イギリスにはキャラハンというアイルランド系の名前の首相がいたし、ヒーリーという同じくアイルランド系の名前の財務大臣がいたが、どちらもアイルランド系とは見なされなかった。

 キャラハンの後継者となったマーガレット・サッチャーは、自分は「本質的にユニオニスト(統一派)」だと主張する一方で、部分的にはアイルランドの血も受け継いでいると信じていたし[38]、トニー・ブレアはカトリックに改宗したが、その祖先には北アイルランドのプロテスタントがいた。このように、アイデンティティの問題はイギリス諸島の人々のあいだでも、スリランカ同様に複雑な様相を呈している。

[38] Thatcher, Margaret, The Downing Street Years, Harper Collins, 1993, p. 385(マーガレット・サッチャー『サッチャー回顧録―ダイニング街の日々』〈上下〉石塚雅彦訳、日本経済新聞出版社、1993年); Irish Central, 30 June 2013: https://www.irishcentral.com/news/margaret-thatcher-admitted-to-irish-roots-a-great-greatirish-grandmother-at-1982-dinne-213737941-237760641 (2020年5月15日閲覧).

 大西洋の反対側でも同じような現象が見られる。2016年のアメリカ大統領選挙で保守派有権者を動員するカギとなった争点のひとつが、ドナルド・トランプの「壁を建設する」という公約だったことはすでに述べたとおりだが、この公約が代弁するようにヒスパニックの人々への反感があっても、共和党のほかの大統領候補のなかにクルーズやルビオといったヒスパニックの名前を持つ人物がいることは問題にされなかった。

 またヒスパニックというアイデンティティは、時間と婚姻関係によって薄れていく[39]。今日では、カトリック信者を自称するヒスパニック2人に対して、プロテスタントを自称するヒスパニックが1人、どの宗教にも属していないヒスパニックが1人いる。しかも非カトリック教徒の割合が増えつつある[40]。宗教以外の面から見ても、移民後に2世、3世と世代が下るにつれてヒスパニックのアイデンティティは弱まり、異文化間の結婚がますます増えてきている[41]。

[39] Pew Research Center, 18 August 2019: https://www.pewresearch.org/facttank/2019/08/08/hispanic-women-no-longer-account-for-the-majority-ofimmigrant-births-in-the-u-s/(2020年9月8日閲覧).

[40] Pew Research Center, 17 October 2017: https://www.pewforum. org/2019/10/17/in-u-s-decline-of-christianity-continues-at-rapid-pace/(2020年9月8日閲覧).

[41] Pew Research Center, 20 December 2017: https://www.pewresearch.org/ hispanic/2017/12/20/hispanic-identity-fades-across-generations-as-immigrantconnections-fall-away/(2021年6月14日閲覧).

 北米とヨーロッパの未来の民族構成がこれまでよりヨーロッパ的ではなくなることは間違いないとしても、遠く離れた場所からやってきた人々の多くは、新たな祖国となる欧米社会に溶け込んでいくだろう。そしてそこに取り込まれた数々のアイデンティティの性質が、アイデンティティというものが常にそうであるように、時とともに融合し、変化していくことになる。

 13世紀のイングランド人は、10世紀のアングロサクソン人とは違っていた。異文化間の結婚によってますます多くの人が複数の文化的・民族的背景を持つようになるので、イギリス系の血が少ししか入っていない、あるいはまったく入っていない多くの人々が、イギリスという国、あるいはその構成国のひとつと自分を重ね合わせるようになるだろうし、同じことが欧米諸国のそれぞれで起こるだろう。

 アメリカ合衆国は以前から、常により多くの「アメリカ人」を生み出す強力な機械だった。ヨーロッパ諸国もそうなる可能性が高い。ただしアメリカとは違って、今のところ自分たちを「移民の国」だとは思っていないので、この先どうなるかは移民人口の割合と、移民統合のスピード次第といったところである。

 2020年代前半のロンドン、パリ、ニューヨークを見るかぎり、民族混合社会の誕生はごく自然な成り行きだと思えるが、歴史的にはそうは言いきれない。かつてイギリスやフランスが民族的に同質だった時代に、アルジェ、バグダッド、アレキサンドリアといった中東やアフリカの都市には宗教も出身国もばらばらな人々が集まっていた。

 ところが今日ではその正反対で、これらの都市の特徴と言えば厳格な均質化であり、民族的分離が進んでいるところさえある。多民族国家という未来への道は一方通行ではない。一方通行に見えるとしたらそれは錯覚であり、歴史・地理上のほんの一部しか見ていない証拠である。

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第1回 英国のEU離脱、ソ連崩壊、トランプ大統領誕生・・・人口動態が及ぼす影響とは
第2回 日本の幸福度は先進国の中で最低、遠因となった「低出生率の罠」とは?
第3回 イギリスで調査、上位10%の高所得者と貧困層の平均寿命は何歳違うか?
■第4回 トランプ、サッチャーらの言動が映し出す「アイデンティティ」の複雑さとは?(本稿)
第5回 日本、イギリス、イスラエルが抱える人口動態の「トリレンマ」とは?

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