歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

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合議制に不満だった頼家

 父・源頼朝の病死に伴い、2代目「鎌倉殿」となった源頼家(1199年)。当時、17歳と年少の頼家をフォローするため、北条時政・義時親子ら有力御家人13人が補佐する体制が構築されます(4月12日)。しかし、頼家は、それが不満だったようで、小笠原長経、比企三郎、比企時員、中野能成ら側近グループの権力強化に乗り出しています(4月20日)。

 そうしたなか、正治元年(1199)7月16日、有力御家人の安達景盛は、頼家の「使節」として、三河国に進発します。同地の武士・室重広の横暴を糾弾するためです。重広は、強盗や盗人を率い、三河国の宿駅で武威を振るっていたので、路地を往来する民衆が困苦していました。よって、景盛が重広を鎮圧することになったのです。

 ちなみに、景盛は、頼朝が伊豆に流罪中から側近く仕えていた安達盛長の嫡男でした(盛長は、前述の13人の有力御家人のうちの1人です)。景盛は、三河国への進発をかねてより命じられていたのですが、固辞していました。その理由は、今春に都から招き寄せた愛妾と離れたくなかったからと言われています(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)。が、三河は父・景盛が「奉行」(景盛は三河守護)している国ということで、頑なに拒否することもできず、ついに今回の景盛進発となったのです。

 景盛が鎌倉を進発してから4日後(7月20日)、1つの事件が起こります。その日は、夕方から雷雨が続いていましたが、深夜になって、月明かりが差し込んできました。

 明け方になり、頼家は側近の中野能成にある命令を下します。それは、安達景盛の愛妾を拉致せよというとんでもないものでした。愛妾は拉致され、頼家側近(小笠原長経)の邸に監禁されます。頼家は、それまでに景盛愛妾に何度も「艶書」(恋文)を出していました。

 ところが一向に色良い返事がなかったので、好色も手伝い、強引な手段に及んだのでした。景盛の愛妾は「北向の御所」に囲われ、頼家はそこに通ったとのこと。そこにも、小笠原長経、 比企三郎、和田朝盛、中野能成、細野四郎ら頼家側近グループしか来てはならんとされました。

 8月18日、安達景盛は、三河から鎌倉に帰ってきます。景盛は三河にて、室重広の行方を探索させましたが、ついに見つからず、目的を達せず、帰東したのです。自邸に戻った景盛は、愛妾の姿が見えないことに当然すぐ気が付いたでしょうし、その訳を邸の者から報告されたでしょう。

 翌日には、愛妾の件で、景盛が頼家に遺恨を持っているとの話が、頼家の耳に入ります。頼家は前述のお馴染みの側近らを呼び寄せ、景盛を誅伐するよう命じます。小笠原長経は、その夜、軍旗を掲げて、安達盛長の甘縄の邸へと向かいました。

 その頃になると、鎌倉中の武士らが集い来たりて、不穏な空気に包まれます。このままでは、頼家方と安達方がぶつかり、戦になってしまう。事態を座視できず、動いたのが「尼御台」北条政子(頼朝の妻。頼家の母)でした。

「私に矢を向けてからにしなさい」

 政子は、甘縄の安達盛長の邸に赴き、それと同時に、使者(二階堂行光)を頼家のもとに遣わします。政子は使者を介して我が子・頼家に次のようなことを伝達します。「頼朝様が亡くなられて、幾日もしない間に、姫君(政子の娘・三幡)も早世し、悲嘆に暮れています。そうした時に、戦を始めようとする。それは、乱世の基となりましょう。安達景盛には人望があります。頼朝様も、景盛に目をかけていました。景盛に罪科があるというのならば、私がその中身を聞いた上で、成敗しましょう。罪科の詳細を調べずして、誅殺したら、後悔することになります。それでもなお、景盛を討つというのならば、先ずは、私に矢を向けてからにしなさい」(『吾妻鏡』)と。

 政子の説得を受けて、頼家は景盛誅伐軍の派遣を中止します。一触即発の事態に鎌倉中の人々が恐怖したそうです。翌日(8月20日)、政子は依然として盛長邸にいましたが、そこに安達景盛を呼びます。そして、頼家の強引な行いを一旦は止めさせたこと、しかし今後も同様のことが起こりかねないので、野心がないのならば、その旨を記した起請文(誓約書)を景盛が頼家に差し出すことを伝えるのです。景盛は起請文を書き、政子に提出します。政子は帰宅してから、その起請文を頼家に渡します。政子はその時、使者を介して、頼家に語りかけます。

「景盛を討とうとしたことは、迂闊な行動です。甚だしく、不義でもある。貴方は政道に倦み、民衆の憂いを知らない。また、側近くにいる者は、多くは佞臣。源氏は頼朝様の一族であるし、北条氏は私の親戚です。頼朝様は、彼らを気にかけていて、いつでも側に置いていた。それなのに今では、彼らを優遇することなく、そればかりか、皆を実名で呼びつけているので(当時、実名で呼ぶことは不吉で非礼)、皆が貴方を恨みに思っていると聞いています。何事を行うにしても、しっかりと、用心・準備してかかれば、末代までも世の乱れはないでしょう」と。

 どう見ても、政子の見解に道理があるでしょう。頼家は年頃で好色でもあり、また創業の苦労も知らないので、傲慢で我儘なところがあったのでしょう。『論語』の中の孔子の言葉に「徳は孤ならず必ず隣あり」というものがあります。「道義を行なうものには、必ず理解者や助力者が集まる」というような意味ですが、この時の頼家には、徳(精神的・道徳的に優れた品性)がなかったと言えましょうか。

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