2006年7月、キューバの首都ハバナから東に約100km、同国屈指のリゾート地バラデロに向けて、筆者の乗った車はひた走っていた。かつてアル・カポネが別荘を建てるほど愛したその小さな半島までは、カリブ海に沿ってよく整備された国道が続く。

 


 車窓から眺める沿道には、南国特有の濃い緑が続くが、その合間に、製油所やニッケル鉱山などその景色に不釣合いな建物が点在している。そうした工場には、次々と大型トレーラーが吸い込まれていき、その屋根には、なぜか見覚えのある真紅の国旗がいくつもはためていた。

 


 2004年11月、キューバを訪問した中国の胡錦涛国家主席は、カストロ議長と会談し、16件もの経済協定を締結した。翌2005年には、石油生産協定を結び、新油田の開発を中国の技術供与によって再開し、それと並行するように中国製の自動車やバス、トラックがキューバ国内を走り回るようになったのだ。

 

 中国とキューバの関係は急速に緊密化しており、貿易額でも04年以降、輸出入とも対前年比で50%以上の伸びを記録している。筆者が訪れたのは、日本との直行便が廃止になり、替わって中国がキューバを席巻し始めた時期だった。ハバナや地方の工場には中国人の姿が目立ち始めていた。

 

カストロの後継者は
実弟ラウルで既定だが

 

 

 

 今週、キューバカストロ議長が引退を表明した。1959年キューバ革命以来、およそ半世紀にわたって、米国の膝元で、社会主義国家を率いてきた政治指導者がついに表舞台から姿を消すことになる。後継は、実弟のラウルカストロ国家評議会第一副議長が既定路線となっている。

 

 筆者が訪問した直後、腸の手術を受けたカストロ議長は、チェ・ゲバラらとともに革命を戦い抜いたラウルへの権限委譲を事実上スタートさせていた。米国のジャーナリストの間では、今回のフィデルの引退によって、キューバ情勢に大きな変化がもたらされることはない、という見方で一致している。

 

 ただ、フィデルと違って、ラウルは米国との対話や外国資本への開放政策を目指すなど、穏健派として知られている。中国との関係強化もラウルの方針によるものだといわれている。よって、24日の人民権力全国会議で、「ラウル議長」が正式に誕生すれば、改革開放路線に弾みがつくのではと期待する向きもある。

 

 1年半前のカストロの最後の革命記念日演説を聴いた後、そうした「改革者」であるラウルの横顔を、取材中の食糧大臣に尋ねてみた。すると、大臣からは意外な答えが返ってきた。

 

ラウルには、フィデルのようなカリスマ性はまったくない。フィデルのように、医療制度改革や教育改革、そして農業改革などを成功させた手腕を彼には望まない。仮に、彼がフィデルの後継になるとしても、共産党による集団指導体制になる」

 

 現職大臣が、ここまではっきりと政権ナンバー2を名指しで批判することに驚きつつも、筆者は、将来の後継者でキューバ革命の生き残りであるラウルに大いなる関心を抱いた。

 

強権ラウル不人気
いまだに根強いゲバラ人気

 

 

 さっそく、他のキューバ政府高官にも取材を開始する。キューバ国内での事情は現在報じられているほど単純ではなかった。

 

 食糧大臣の言葉通り、このラウルカストロは、兄と比べると極めて不人気であった。その最大の理由は、外国に見せる顔と違って、革命軍事大臣としての強権的な政治姿勢にあったという。

 

 2003年3月、キューバ政府は、人権活動家やジャーナリストなど計75人を突然逮捕し、即時裁判の結果、長期の禁固刑を課した。こうした取り締まり強化はフィデルではなく、ラウルの命令によるものだという噂が絶えない。

 

 その背景には1989年の「ある事件」がある。この年、軍の最高司令官だったラウルは、国民からの人気が高く、アンゴラ進駐軍司令官としてヒーローだったアルナルド・オチョワ中将らを処刑した。軍紀に反したという理由だが、実際は軍内部の権力闘争の結果の処分だと見られている。

 

 さらに、キューバ革命を直接知る高齢の元政府高官は別の理由を教えてくれた。
チェ・ゲバラが、キューバを去った本当の理由はラウルの存在だ。フィデルとの確執と言われているがそんなことではない。工業大臣だったチェとラウルの意見対立が理由だ。革命の精神を主張するラウルと、改革開放を訴えるチェとの路線対立だった」

 

 革命記念日の翌日、ハバナ近くの農園で、食糧大臣と昼食をともにしながら、フィデル・カストロカリスマ性に話が及んだときのことである。その大臣は、フィデルの農村からの人気は絶大で、革命記念日でのフィデルの演説を自らの地方で開催したいがために、地域が毎年収穫量を競い合うほどだ、と説明してくれた(キューバは農業生産量の増加比率トップの州で毎年革命記念式典を開催する)。

 

 だが、そのフィデルでさえ唯一適わない人物がゲバラだというのだ。その上で、ゲバラキューバ国内で、絶対的な人気を誇っている証拠を語り始めた。
キューバ国内では、政治指導者の肖像を禁止している。銅像もダメだ。ただひとりチェを除いては……」

 

 街にはゲバラの肖像画が溢れている。ビルの壁面には巨大なゲバラの顔がいくつも浮かんでいる。政府の建物にさえ描かれている。カストロの絵は唯一、市内の1箇所だけに掲示しているが、それは例外的で、あとはすべてゲバラだ。そのゲバラを追放したと見られているラウルは、どんなに功績を挙げようと、絶対に国民から信用されないというわけである。

 

小泉外交の米国追従以来
中国がキューバに急接近

 

 そのゲバラは、革命の年(1959年)、カストロの特使として来日し、通商協定の協議を行った。翌年通商条約を締結し、61年には米国がキューバとの国交を断絶したが、日本との友好関係は変わらなかった。

 

 また、カストロゲバラと親交の深い氏家斉一郎・日本テレビ議長の影響力もあり、日本とキューバの間では野球交流が盛んだ。そして、90年代にはドラマ「おしん」などの日本文化ブームもあり、キューバの対日観はきわめて良好であった。

 

 カストロ議長の長く果てしないことで有名な演説でも、たびたび日本人の勤勉さ、優秀さを湛える発言が繰り返され、1989年昭和天皇崩御の際には、キューバ国内に3日間の公式服喪令を発令している。1995年カストロ初来日後はさらに両国の関係は緊密化し、直行便も開設された。

 

 ところが、ブッシュ=小泉時代が訪れ、米国追随外交を日本が採用する中、キューバとの関係は薄れ、直行便は廃止、キューバ国内の一部工場に翻っていた日章旗は、中国国旗にとって替わられたのだ。

 

 革命直後、米国からの国交断絶で苦しむキューバ経済を、砂糖輸入という貿易関係によって救ったのは日本だ、と前出の食糧大臣は語った。だが、カリブ海にある日本の「友好国」のひとつは、確実にまた、中国の巨大経済に侵食されようとしている。

 

 

(著・写真:上杉隆

 

※この記事は2008年2月21日に「ダイヤモンドオンライン」に掲載された記事を再掲したものです。

 

 

 

カストロ後継者の不人気と、キューバ経済を呑み込む中国の存在〈上杉隆〉