画面いっぱいに星空が映し出され、カメラがそのまま回転して、画面の“天地”がひっくり返る。これは誰かの視線なのだろうか。そう考えているうちに、カメラは地上を見下ろす俯瞰へと切り替えされ、それなりの高度から一軒の家の窓へと、背景動画で接近していく。またその部屋の机の上の4コマ漫画が描かれた短冊は、かさかさとかすかに動いてみせる。  

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部屋では、窓に面した机に座ったひとりの小学生が、神経質に貧乏ゆすりをしながら4コマ漫画を描いている。後にわかることだが、このとき描いている漫画はオチに隕石を使うものだから、もしかすると冒頭の星空を見ているカメラは、彼女――名前は藤野――の視線だったのかもしれない。  
いずれにせよ映画『ルックバック』は、このように、原作にはないシーンからスタートする。この導入は、ある過去のアニメ映画の記憶を呼び起こさずにはいないのだが、それはまた後ほど触れることにしよう。  

藤本タツキの原作漫画による映画『ルックバック』は、漫画を媒介して藤野と引きこもりの京本が出会い、そして思わぬ別れを迎える様子を描く。60分足らずの尺で登場人物もほぼふたりだけといっていいコンパクトな映画だが、見終わったあとに残る感触はとても濃いものだ。  

濃さの最大の理由は、様々な取材やトークなどで関係者が語っているとおり、その作画にある。本作は8人の原画マンが約700カットを描き上げた(その中でも押山清高監督が修正作業も含め、膨大な量の絵を描いている)。これにより本作は、少人数による密度の高い作業でなければ達成できない、細かなニュアンスの積み重なった映像として完成した。原画のニュアンスを生かすため、動画の段階でのトレスをせず、原画の少しラフな線をそのまま画面に出していることの効果も“濃さ”に貢献している。
アニメーションの作画の魅力は、線をコントロールすることで、あらゆるものに“演技”をさせることができることだ。  

例えば京本の絵に打ちのめされた小学4年生の藤野が、田んぼの中の田舎道を駆けて帰っていくシーン。走る藤野が俯瞰のロングショットでとらえられたとき、ランドセルが走りに合わせて時折、控えめに光を反射するのだ。この反射を現すハイライトがチラチラと揺れながら現れるタイミングが、非常に心地いい。ここではハイライトそのものが演技をして、アニメならではの生命感を画面に宿らせていた。  

そして演技というなら、小学6年生の藤野が、やはり同じ田舎道を、雨に降られながら帰っていくシーンを挙げないわけにはいかない。卒業式の日、藤野は担任に頼まれて、不登校だった京本の家に卒業証書を持っていく。ここで藤野は、映画的としかいいようのない偶然の結果、京本と対面することになる。京本は、藤野を「藤野先生」と呼び、学年新聞で連載していた4コマ漫画のファンだったと語る。  

京本もあるときから、学年新聞に漫画を載せていた。京本の漫画にはストーリーや笑いこそないが、圧倒的な画力で描かれた風景は、藤野を圧倒せずにはいなかった。そして負けるものかと絵の練習を始めた藤野は、最終的に諦め、絵を描くことをやめてしまう。  

そんな京本が自分のファンだったとは。藤野の喜びは、不思議なスキップの形で溢れ出し、それが次第に不思議な踊りになっていく。原作では、最後の見開きも含めて、数葉の絵でしか表現されていないこのシーンを、本作は長い一連のシーンとして描き出した。藤野は、踊ろうと思って踊っているのではない。うれしさで体が自然と動いてしまっているのだ。その無意識にあふれ出してくるような動きの創出は、アニメーション史に残る名演技といえる。  



一方、演出的に印象に残ったのは、高校3年生になったふたりが袂を分かつシーン。ここは、先述の卒業式の日にふたりが初めてあった日と照らし合わせると、ぐっと意味合いが深くなる。
初対面のシーンは、京本の家から出てきた藤野が画面上手側にハケようとしているところを、追いかけてきた京本が呼び止めるという形で始まる。  

劇作家の別役実は「舞台には上手から下手に風がゆるやかに吹いている」というふうに舞台上の空間の意味合いを説明する。日本の映像作品の場合、このように上手下手に意味を持たせて演出する場合も多い。この初対面のシーンも、「上手から下手に向かって吹く風」を意識するとわかりやすい。  

下手にいる京本は、不登校だから、外へ出ることそのものがプレッシャーを感じている“逆風”の状態にある。しかし、藤野への尊敬がそれを上回って、“風”に逆らいながら上手へと進んでいく。背景に見える京本の家の壁が、画面に対して垂直線を描いて、ふたりの間の境界線となっているが、京本はその線を越えて藤野側の空間へ入っていく。
上手の藤野は、京本の画力に圧倒され筆を折ったことなどおくびにも出さず、投稿作を準備中だとを見栄を張る。そして上手側へとハケていく。  

一方、ふたりが袂を分かつシーンは、この初対面の状況を反転して描かれている。
中学から「藤野キョウ」のペンネームで合作を始めたふたり。高校卒業を前についに連載が決まる。このとき、京本は意を決して藤野に、自分は美術大学に進学したいので、連載の背景は描けないと告げる。  

舞台はいつもの田舎道。画面左(下手側)に前を歩いていた藤野が。画面右(上手側)に藤野の後ろを歩いていた京本がいる。そしてふたりの間には、大きな木が配置され、境界線として画面を藤野の空間と京本の空間のふたつにわけている。ふたりの間の距離が樹木で視覚化されている。  

続くカットで、カメラは田舎道の下からあおりで、道に立つ京本をフレームのほぼ中央にとらえる。画面下手側には、さきほどふたりの間の境界線として描かれた木が配置されている。この京本の空間に、“風”に逆らって藤野が境界線を越えて入ってくる。かつて京本が勇気を出して、藤野の空間に入ってきたように。しかし、京本の意思は固く、今回藤野は下手側に“風”に流されるようにハケていく。
初めての出会いと立ち位置の上下を入れ替え、藤野のハケる方向を逆にしたことで、「出会い」と「別れ」の意味合いの差が、より際立つようになっている。  

ここで重要なのは、藤野はただ下手にハケただけではない、ということだ。本作において、藤野(と京本)は、ほとんど左方向(下手方向)へしか進んでいかない。初めてもらった原稿料を手に東京で“豪遊”する幸福な時間もまた、手を繋いだふたりが、左方向へ進む映像として描かれている。むしろ初対面のとき、藤野が上手にハケるのは、極めて珍しい。  

この「ひとつの方向へ進んでいく様子」しか描かれないというのは、本作が「漫画家を目指して一直線に進んでいく物語」であるということと無縁ではないだろう。もちろん原作が漫画である以上、めくりの関係で、左方向への移動が登場しやすいということはあるだろう。だが、本作の方向性の徹底は、原作準拠である以上の理由を感じさせる。結果として、藤野は下手へハケただけでなく、彼女の進むべき道へ戻っていった、ということになる。  



藤野と京本のこの別れのシーンまで見たところで、冒頭の空からカメラが降りてくるカットの意味合いがようやく腑に落ちてくる。
本作は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の変奏なのではないだろうか。同作は、気弱で孤独な少年ジョバンニと親友のカムパネルラ銀河鉄道に乗り、ともに南十字へと向かって銀河の旅をしていく物語である。ジョバンニカムパネルラは、「どこまでも一緒に行こう」と誓い合っているが、やがてふたりは別れることになる。それはふたりが求めていた「本当の幸せ」が異なっていたからだ。  

カムパネルラが突然姿を消す前には、こんな描写がある。

「あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ」

カムパネルラはにわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。ジョバンニもそっちを見ましたけれども、そこはぼんやり白くけむっているばかり、どうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。

(中略)そして「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたら、そのいままでカムパネルラの座すわっていた席にもうカムパネルラの形は見えず、ただ黒いびろうどばかりひかっていました。

【引用 】宮沢賢治著『銀河鉄道の夜青空文庫
このようにジョバンニは取り残される。  

カムパネルラのいう「ほんとうの天上」がジョバンニには「白くけむっているばかり」で、彼が言った「ほんとうの天上」には見えないのである。こうしてカムパネルラ銀河鉄道から姿を消し、ジョバンニはひとり残される。藤野と京本の別れもまた、これと同心円状の「進むべき道」の不一致として描かれた。  

ここで思い出すのは、この原作をアニメ映画化した1985年の『銀河鉄道の夜』(杉井ギサブロー監督)の冒頭が、やはり「空からカメラが降りてくる」という導入だったということだ。同作では、まるで振り子のように触れながら“何か”が地上へ舞い降りて、そこから物語が始まる。よく考えると、『銀河鉄道の夜』も『ルックバック』も、原作は先生の第一声から始まっていた。そして、その前に天から降りる“何か”を加えたのは、アニメ側の創意なのである。  

ここで降りてきた“何か”は“何か”でしかないのだが、あえていうなら“運命”のようなものということになるだろうか。この“何か”の到来により、ジョバンニ銀河鉄道に乗ることになり、藤野は京本と出会うことになるのだから。  

ルックバック』は映画にされることで、この“運命”のような“何か”の存在がより強調される。それが4コマ漫画のフレームが描かれた短冊である。冒頭、これがまるで何かを宿らせたかのように震える様子が描かれるが、その後も、まるで運命の導き手のような動きを見せる。  

まず、卒業式の日、京本の家に入ってしまった藤野が、即興でいつもの短冊に描いた4コマ。それが、風に運ばれたか、すっと京本の部屋のドアの下の隙間をくぐって入ってしまう。原作は風に運ばれた偶然に見える度合いが高い調子で描かれているが、映画ではむしろ“何か”がその偶然を起こしたように見える度合いが高く描かれている。  

こうして藤野と京本は「漫画家を目指す」という同じ“鉄道”に乗ることになったのだ。そして“鉄道”は、田舎道という線路の上を、下手方向に向かって一直線に走っていく。  

4コマ漫画の短冊は、本編のクライマックスで、再び登場する。ここでは、人気漫画家になった藤野が、破り捨てた4コマの短冊がやはり京本の部屋ドアの下を、何かに導かれたように通り抜ける。そして今度は逆に、別の短冊が、やはりドアの下をくぐって藤野のもとへと届く。そして、それが藤野と京本の人生にとってとても重要なものとなる。冒頭に置かれた、カメラの視線で降下してきた“何か”は、このように映画の中で重要な役割を果たしたのだった。  



このように小説『銀河鉄道の夜』とそのアニメ映画を補助線にすると、本作がどんな構造を持った物語なのかが、ずっとクリアに見えてくる。  

銀河鉄道の夜』で、ジョバンニはニ度カムパネルラを失う。一度目は、銀河鉄道での別れ。その後、ジョバンニは丘の上で目を覚ます。そして町へと降りていくと、カムパネルラが川で溺れそうになった友達を助けようとして、行方不明になったことを知る。これが二度目のカムパネルラの喪失となる。  

本作でも藤野は京本をニ度失う。一度目は、京本が美術大学に進学するといったあの瞬間。そして二度目は、進学した大学で暴漢に襲われ、京本が殺されてしまったとき。  

先述した4コマ漫画を破るシーンは、葬儀のため藤野が京本の家を訪れたところで描かれる。小学校の卒業式の日に、京本の家で勢いで描いた4コマ。もしこの漫画を描かなければ、京本は不登校のままで、美大に進学することもなく、生きていたかもしれない。その後悔が、まだ残っていたその4コマを破ることになる。そして、その切れ端がドアの下をくぐる。  

そこから本編は少し意外な展開をたどるが、そこには触れるまい。ともかくその後、京本の部屋の前に座り込んだ藤野のところに、ドアの下から逆に漫画の短冊が滑り込んでくる。それは京本が描いた(本編中では)唯一といっていい漫画だ。どうしてそんな漫画が、藤野のそばに滑り込んできたかは作品を見ればわかるが、大事なのはそこで描かれる合理性ではなく、「京本から藤野に漫画が届いた」という事実である。それが漫画なんて「描いてもなんの役にもたたないのに」というところまで自責の念にかられていた藤野を救うことになる。藤野の中に「じゃあ、藤野ちゃんはなんで描いているの?」という京本の台詞と、ふたりで漫画を描いていた日々の記憶が蘇る。  

映画『銀河鉄道の夜』でジョバンニは、カムパネルラの生存が絶望的になった後、天の川を見上げてつぶやく。「ああ、僕ははカムパネルラがあの銀河のはずれにいることを知っている。僕はカムパネルラと一緒に歩いてきた」  

銀河鉄道でともに過ごした時間。ともに漫画を描いていた時間。それが自分の中で、揺るがすことのできない大事な部分を形成している。その記憶を背負っているから自分は前に進むことができること。  

映画『銀河鉄道の夜』は最後に「ここよりはじまる」というテロップが出て締めくくられる。この言葉は『ルックバック』の最後、黙々と机に向かう漫画家・藤野キョウ後ろ姿に重ねられたとしても、まったく違和感はない。





[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。
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