そのバーは宮城県仙台市青葉区にある。women only bar『楽園』、いわゆるレズビアンと呼ばれる性的指向の女性が夜に憩う場だ。
オーナー兼キャストのヒノヒロコ氏(32歳)は、一晩に800万円もの売上を打ち立てた伝説を持つ敏腕。身体の至るところに刺青を入れ、唇に厚めの紅を引く彼女にはファンも多い。笑顔は自信に満ちているかに思える。だがヒロコ氏がそのセクシャリティに正面から向き合い、自由な表現活動をするまでには、試行錯誤があった。「常に大きな劣等感を抱えていた」――そう語る彼女の生涯に迫る。
◆小学校のときは「まったく友達がいなかった」
ヒロコ氏はBar経営者のみならず、パフォーマーの顔も持つ。芸術系大学の大学院を修了した筋金入りだ。専攻はパフォーマンスアート。描画などと異なり、自らの身体表現をそのまま作品とするジャンルだ。
「メディアに紹介していただいた作品としては、“嘔吐”をテーマとして口に含んだペンキを吐き続けるというものがあります。LGBTの象徴として、レインボーフラッグが有名ですよね。そういう多様性が容認される社会を私も歓迎しますが、実際には、虹のような明確で爽やかなものではなく、もっと混沌とした色なのではないかと私は思って、考えを表現しました」
誰からの成約を受けるわけでもなく、自分なりの表現を伸びやかに行う。ヒロコ氏の生き方は自由さに満ちているように感じるが、過去には壮絶な体験もした。
「小学校のときはいじめられていて、まったく友達がいなかったですね。身体に対する暴行としては、上履きのなかに画鋲を入れられる程度のことだったのですが、私が何かを発言するとクスクス笑われて。教室は存在をずっと否定される空間でした」
◆“スクールカースト底辺”から逆転した出来事
だがその経験は、こんな場面に生きてきた。
「小学校の頃は誰も話す人がいないので、木の根っこと会話していたんですよね。イマジナリーフレンドというらしいんですが。その経験を絵本にして、大学の卒業制作では提出しました」
進学先の中学校でも男子からの執拗ないじめを受け、逃げるように高校は女子校に進学したという。
「高校はスクールカーストが明確にあって、私はもちろん底辺です。でも、2年生の夏休みに転機がありました。夏休みにみんなで染めた髪の毛を私だけ戻さずに休み明けに登校したら、周囲から『あいつ、やるな……』って一目置かれだして(笑)。そこから、見た目を派手に装うことで、人から虐げられないことを覚えた気がします」
見た目を変えれば、周囲の目が変わる。その体験は、ヒロコ氏をこんな行動に向かわせた。
「同意書の親のサインを偽造して、ずっと同級生からからかわれてきた目を整形しました。細い目がずっとコンプレックスだったんです」
◆同性に抱いた恋愛感情を「いずれ治る」と言われ…
ヒロコ氏が自らのセクシャリティを意識したのは、小学生のとき。
「当時、クラスで足の速い女の子がいました。彼女に対する感情は、尊敬や羨望、そして好意が綯い交ぜになったものでした。おそらくそれは恋愛感情だったのでしょう。中学生になってからは同級生と交際しては別れて……を繰り返していました。保健室の先生に相談したとき、『思春期のうちはそういうことがままあるけど、いずれ治るから』と言われたんです。『治る』ってことは病気なのだなと思い、自然と『誰にも気持ちを打ち明けてはいけないんだ』と考えるようになりました」
胸に秘めた嗜好を表現していいと教えてくれたのは、進学した大学院の恩師だった。
「大学院は研究計画書を提出するのですが、私は実際には自分の関心から遠いものをテーマとして選んでいました。しかし恩師には『君の計画書には愛情が感じられない』と簡単に見破られ、本当にやりたいことを聞かれたんです。そのとき、私は偽らずに本音をすべて語りました。結果的に、性的マイノリティの人の表現活動をすることができたと思っています」
◆初めての新宿2丁目で緊張した経験があるからこそ…
その後、上京した際に訪れた新宿2丁目で感銘を受けた。
「そのときにレズビアンバーを初めて経験しました。さまざまな人が思い思いに楽しんでいる様子が印象的でしたね。仙台にもこうした形態のバーがあればいいなとは思ったものの、すぐに現在の形態で店を経営して生きていこうと考えていたわけではありません」
仙台での出店にあたっては、まず1日単位で間借りできる店舗を探しておおよその収支の見通しを立てながら貯蓄を行い、1年間の“試運転”のあと、満を持して『楽園』をオープンさせた。風俗営業の許可を取得し、毎日ショータイムが行われるバーに育て上げた。現在、7年目。県外からも多くの女性が癒やしを求めて訪れる人気店になった。
「さまざまなお客様がいらっしゃいますが、心から愛おしく感じますね。というのは、私自身、初めて新宿2丁目のレズビアンバーを訪れたとき、あまりに緊張して店の周囲をグルグルして2時間も経過してしまって。少し苦い思いでなんです。お客様はそれくらい緊張すると思うし、勇気を出して扉を開けてくれたのだろうと思うと、必ず楽しませたいなと思うんです」
◆「諦めなかったから」成功できた
この業界で働くにあたって、レズビアンバーのみならず夜の職業の見習いを経験したというヒロコ氏は、こんな思いを打ち明ける。
「正直に言えば、男性を相手にするとき、これまでの劣等感の裏返しとしての優越感がありました。私は男性からずっと虐げられてきて、罵られてきたから、『男性が今、まさに私にお金を使っている』という類の、ある種の復讐心も混じっていたと思います。けれども、『楽園』においては、さまざまなお客さんが少なくはないお金を使ってくださることに対して、『価値に見合う楽しませ方をしよう』とポジティブな感情で向き合うことができています」
ヒロコ氏がいじめ被害に遭っていた過去を告白し、現在の成功と併せて語る意味とはなにか。
「今、必ずしも人生が楽しいと思えなくて、誰にも打ち明けられない気持ちを抱えている人は多いと思います。私自身、多くの男性から『ブサイク』と罵られてきた過去があり、とても水商売で成功するような容姿ではありませんでした。けれども、足を運んでくれるお客様の心に向き合って、満たしてあげたいと本当に思えたとき、サービスが価値を帯びて売上も伴ってきたように感じます。
私のような、勉強も運動もできない地味な人間が夜の街で一定の成功を収められたのは、ひとえに諦めなかったからでしょう。孤独感や喪失感を抱えた人たちが扉を開けてくれるたび、元気づけたくなるんです。その繰り返しの先に、今の私があると思っています。だから現状がどんなに悲惨であっても、『自分がやりたいことを諦めないで』と伝えたくて、すべてを公開するようにしているんです」
◆私が生きているうちは無理かもしれないけれど…
レズビアンという性的マイノリティの立場からエンターテイメントを発信する立場として、世の中に対するこんな視座も提示する。
「多様性が謳われ、柔軟性を獲得したかに思える社会ですが、世間の多くの人が『多様性が認められているからよかったね』という感想以上の思考をやめてしまっている点をとても不安に思っています。たとえばパートナーシップ条例が施行されたとしても、公正証書を作成するには少なくない費用がかかります。それなのに相続などは認められないですよね。男女カップルでは当たり前に認められている権利と同じ水準にいくには、まだ時間がかかります。私が生きているうちは無理かもしれないけれど、もっとのちの社会には本当の平等が達成されていることを夢見ています」
ヒロコ氏の見渡す世界は広く深い。存在を無視され、さまざまなものを剥奪されて生きた学生時代の経験が、彼女のなかに創造の種を蒔いた。それを美化することも矮小化することもなく、ひたすら自らの傷と向き合って表現し続けた先に、性的嗜好を同じくする者たちが集う空間が現出した。
不安に苛まされ、打ちひしがれたすべての女性にとっての、『楽園』。人から疎まれ、受け入れられなかった経験だけが織りなせるサービスの境地が、ここにある。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
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