世の中には、やって善いことと悪いことがある。社会が複雑化し、多様な価値観が入り交じる現代では、善悪の基準が曖昧になってきている感もあるが、子どもでもわかる「悪い行い」のナンバーワンは、「人を殺すこと」だろうか。生命はかけがえのないものであり、自他の生命を尊重することが、小学校道徳の学習指導要領にも書かれている。

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 法治国家では、殺人を犯すと法で罰せられる。極刑は死刑だ。人を殺してはいけないはずなのに、法のもととはいえ殺人が容認されるのは、どういうワケだろうか。また、戦場では守られないどころか、積極的に人を殺す。子どもに「人を殺すのは悪いこと? 善いこと?」と問われると、大人はどのように答えればよいのだろうか。「人を殺してはいけない場合とよい場合がある」「人を殺すことは善いとも悪いともいえない」などという曖昧な答えで、子どもが納得しそうもない。

 東大の理系教授が執筆した『東大理系教授が考える 道徳のメカニズム』(鄭 雄一/ベストセラーズ)は、永遠に答えが出そうにないこの問いに、理系的視点でアプローチ。子どもの腑に落ちる、わかりやすい説明を模索する。

 「人を殺す」ことの是非は、道徳心が大きくかかわってくる。本書では、まず、道徳の混沌とした現状を正確に分析し、問題点をあらわにしていく。宗教や哲学も含めた道徳の歴史をひも解くと、次の2つの考え方に大別できるという。

(1)人間には理想の道徳がある
道徳とその根拠は問答無用に決まっており、時々で変化しない。個人より社会全体の安定が重視される。権威主義的。「汝殺すなかれ」のキリスト教や、「不殺生」の仏教などが代表例として挙げられる。

(2)道徳は個人個人が決めるもの
道徳は個人間や時々で変化するもの。社会より個人に重きを置く。自由主義的。韓非子、マキアヴェッリ、デカルトカントニーチェなどの思想が例として挙げられる。

 「人間には理想の道徳がある」と信じる人は、権威が教える「不殺」をいかなる場合でも遵守するものとして捉えており、安定した社会が築かれやすいが、死刑制度や戦争についての意見が硬直化しやすい。一方、「道徳は個人個人が決めるもの」と主張する人は、「不殺」が事情によって刻々と変化する。死刑制度や戦争についてなど意見は柔軟的だが、社会の不安定さを生み出す。では、結局、「人を殺すこと」は悪いことなのか、善いことなのか。「不殺」を遵守すべきなのか、場合によるのか。著者は、(1)か(2)、どちらかが正しく、どちらかが誤っているということではなく、どちらも一部の真理を含んでいるのでは、と推論する。

 問題点が検出できたところで、本書はモデル構築へと進む。すでにお気づきの人がいるかもしれないが、死刑や戦争の際に「人を殺してはいけない」という決まりに矛盾が起きるのは、「人」という言葉が変化するからである。「不殺」は「敵」や「仲間でない者」には適用されないのである。戦争では、自分や仲間は積極的に守るが、敵は殺す。死刑が宣告されるのは「社会の敵であり、かつ今後も(再び)仲間になれる可能性が少ない人間」とみなされたからである。死刑になる判断基準が、多数を殺した、残虐な殺し方をした、反省していない、計画性があった、再犯である、などであることからもわかる。著者は、チャップリンの映画「殺人狂時代」の名セリフ「一人殺せば悪人で、百万人殺せば英雄」を取り上げて、正しくは「仲間を殺せば悪人で、敵を殺せば英雄」なのであり、数の多寡は関係ないと言い切っている。

 人は「人間一般」ではなく、じつは「仲間」と置き換える。「仲間を殺してはいけない」と読むなら(1)はよく守られてきた決まりといえそうだ。

 (2)については、どのように理解すればよいのだろうか。これは、「仲間の範囲は変化に富む」ことで説明できる。たとえば、平時と緊急時では仲間の範囲が変化する。また、危機になればなるほど資源が限られれば限られるほど、仲間の範囲は狭くなって、自分にとってコアかつ重要度が高い集団へと適応範囲が縮んでいく。

「(いかなるときも)仲間は殺してはいけないが、仲間の範囲は個人や状況によって変わる」。こう考えれば、(1)も(2)も正しい道徳である。戦争で人を殺して勲章がもらえることや、死刑が容認されることの説明もつく。「人(=人間一般)を殺してはいけない」という理由で死刑制度に反対するのは、「人」という言葉の意味を読み間違えていると指摘している。ちなみに、未成年犯罪への刑罰が成人よりも軽いのは、「未成年者は心が柔軟なので、再教育して矯正すれば、社会の仲間に引き戻せる可能性が高い」と考えれば納得がいく。

 SNSの普及などでバーチャルな出会いが増えている。しかし、直接出会って顔を見知っている人たちが、個人にとってもっとも大切な「仲間」であり、拡大する社会においてそういった仲間を増やしていくことが平和な社会の実現に繋がると結んでいる。

文=ルートつつみ

『東大理系教授が考える 道徳のメカニズム』(鄭 雄一/ベストセラーズ)