トツ子のことを考えている。
【大きい画像を見る】藤津亮太のアニメの門V
『きみの色』の主人公。タイトルも、彼女が周囲の人の存在を、いろいろな“色”として感じていることにちなんでいる。
小さい頃から、他人の存在を色で感じていたトツ子。でもまわりから「ヘン」といわれることが多く、自分からそのことを話すことも次第に少なくなってしまった。……と、本編のあらすじを書くならこのような導入になるだろうが、実際の映像の導入はもうちょっと複雑だ。
ファーストカットは、礼拝堂で祈るトツ子の姿(ここでその後幾度も繰り返される「ニーバーの祈り」が登場する)が描かれる。そこから幼い日にバレエをやっていた記憶と、それを辞めてしまった記憶が映像で示される。このあとからトツ子の「色」をめぐる述懐が始まるが、「色が見える女の子」と並行して、「バレエを辞めてしまった女の子」のトツ子描かれているということは、とても重要なポイントだと思う。
どうしてこの冒頭の語り順にこだわるかといえば、決して饒舌ではないこの映画の中で、そこにトツ子を理解する鍵があるからだ。思えば『リズと青い鳥』も冒頭のシーン、音楽室を開けたのが誰かということに、さりげなく映画全体の進む方向性を暗示していた。本作も、この冒頭に映画全体を方向づける意図があると考えてもおかしくはないだろう。
トツ子とバンドを組むふたりも、それぞれ葛藤を抱えている。周囲から見られる自分の姿と、自分自身の実感のギャップに耐えられず学校を辞めてしまったきみ。医者になることを求められながらも、音楽が好きでそれを言い出せないルイ。若者らしいふたりの悩みも、この映画の重要な要素ではある。ただ、このふたりの悩みは、トツ子の悩みと比べると、ある意味“わかりやすい”のである。
だからこそ、当たり前の(それはつまり“ありきたりの”と紙一重だ)衝突や葛藤などにフォーカスを当てることなく、映画はスパッと物語を進めた。むしろこの映画はコンフリクトに意味を求めているのではなく、悩みそのものに向けてそれぞれの心が澄んでいく時間や空気にこそ“ドラマ”を見ている。
その“ドラマ”のピークが、クリスマスの夜のシーンだ。バンドの練習のため島の教会にやってきたトツ子ときみ。しかし天候が悪化し、ふたりは船で帰れなくなってしまう。そのためルイも交えて、3人は教会で夜を過ごすことになる。ロウソクの明かりの中、それぞれが抱えている悩みを話す3人。ある種の宗教が生まれる瞬間にも似た神聖な時間。この時間と空気こそ、本作が描く“ドラマ”なのである。それをルイは「僕たちは好きと秘密を共有してるんだ」と語る。
この世界に3人しかいないような静かな夜を経て、ルイときみは、それぞれの思いを家族にちゃんと告げることになる。そして物語はクライマックスの学園祭へ向かう――のだが、ここであらためてトツ子の悩みについて考えたい。
ふたりに比べてトツ子の“色”にまつわる悩みは普遍性が低く抽象的だ。さらに冒頭で示されるトツ子の悩みは二層になっている。第一に「人に色を感じてしまう(が普通と違うので理解されない)」があり、そこに加えて「もし、自分の色が見えるなら、どんな色なんだろう」という第二の悩みがある。ただ後者は「悩み」というにはあまりにふわりと、ある種の憧れのように語られているので、切迫感は伝わってこないが、映画を丁寧に見ると、むしろ「人に色を感じること」以上に、「自分の色がわからない」ということが、トツ子の心の奥底に刺さっていることが見えてくる。
トツ子は、クリスマスの夜、なんと語っただろうか。トツ子はふたりに「人を色で見るクセがある」という話をした。しかしここで彼女は「自分の色がわからない」という話はしていないのである。トツ子は、(おそらく無意識に)自分の色の話をしなかった。このことからトツ子は、自分の思う以上に「自分の色がわからない」ということが自分を縛っているということに気づいていないのである。
例えば、冒頭で礼拝堂でトツ子が祈っているときは、ニーバーの祈りの前半「変えることのできないものについて、それを受け入れるだけの心の平穏をお与えください」を口にしている。この後、彼女の色をめぐるエピソードが説明されることを考えると、このときトツ子は「自分の色が見えないこと」も「変えることのできないもの」のひとつだと考え、それをちゃんと受け入れようとしているのではないか。その後のトツ子の様子をみると、他人の色が見えることは、むしろ喜びで、そこに「変えることのできないもの」としての縛りを感じているようには見えないから、ここはやはり「自分の色」を中心に考えていたのではないかと考えられる。
ここで疑問に感じるのは、なぜトツ子は「自分の色が見えない」のか。これは作中ではあまり明確に示されていない。自分の顔が自分では見られないようなものかとも想像できるが、映像を見ると、そうでもないようにも読める。
冒頭の回想には、自分の色が知りたくて顔にシールを貼ってみているトツ子の様子が描かれている。こういう描写と前後して、バレエシューズを使ってトツ子がバレエを辞めた、ということが暗示されるカットがある。
一方で、彼女の見ている色はある種の好意や憧れに根ざしているものであろうことは説明されている。子供時代のバレエ教室のお姉さんが、見事に踊る様子がきれいな色で描かれたりもしている。
このふたつが並行して描かれているということは、バレエに挫折したことで生まれた「自分は憧れたお姉さんのようにはなれない」という挫折の感情が、自分の色を見えなくしてしまったのではないか。トラウマというほど重くもないが、心の中の小さなトゲ。おそらく周囲もそれがトツ子を縛っているとは思ってもいない出来事。それがトツ子を小さく、でもしっかりと縛っている。こう考えてみると、不思議と抽象的だった「自分の色が見えない」という悩みが具体的なものとして理解できるようになる。
中盤、トツ子は修学旅行をキャンセルして、きみを寮に招いた一件で、一旦、実家に帰ることになる。自宅のマンションの一階にあるバレエ教室の前でふと足を止めるトツ子。そこに現れた母と、そのまま外で会話をすることになるトツ子。
この帰省のエピソードは、台詞のレイヤーでは、母の「かばってあげたくなるような友達ができたんだね」という言葉が、きみとの関係性の深さを言い表すポイントになっているが、トツ子のドラマとしては別の部分に力点がある。そもそも、マンションの一室で繰り広げられても問題のない母との会話をわざわざ屋外で展開しているかといえば、それはトツ子に、幼い子供たちがバレエをやっている姿を見せるためだからだ。
実際、トツ子は母を会話をしながら、子供たちのバレエの様子を見ている。その時、彼女の目は潤んでいる。これはおそらく、幼い頃の自分の姿を彼女たちに重ねているのだろう。そうして、思った以上に心に残っているバレエの挫折を、少し客観視できるようになりつつある自分を感じている。
トツ子は、バレエを辞めてしまったこともまた「変えられないこと」だと思っていた。けれど、辞めてしまったことに縛られずに、「あのときの自分は一生懸命だったな」「今も自分はバレエを好きだと思っていいんだな」という自分を肯定してあげる感覚が生まれつつある。それは「『好きなものを好き』といえるつよさ」(山田尚子監督の企画書に書かれた言葉)が生まれてくる瞬間でもある。
こうして帰省をきっかけにトツ子の中に変化が生まれ、それがクリスマスの夜の告白と、ふたりの演奏に合わせて、子供のころから憧れてきたジゼルを(少しだけ踊る)ということにつながる。こうしてトツ子の心を抑えているダムは徐々に崩れ始めていき、そこに最後の一撃が加わるのが学園祭の日だ。
しろねこ堂の演奏の直前、きみから投げかけられた「トツ子は何色なの」という言葉。何気ない一言として聞かれたからこそ、トツ子は、これまで口にできなかった言葉を口にできる。「実はわからないんだ」。でもこれを言えたことで、トツ子は完全に解放されることになる。
思えばあの日、トツ子が口からでまかせで言ってしまったバンド活動。でも、それがトツ子をそれまでよりもずっと遠い場所へと連れて行くことになった。それを通じてトツ子は「変えることのできるものについての変えられる勇気」(ニーバーの祈りの後半の一節)が、自分の中にもあることを知った。
その実感を胸にトツ子は、ひとり中庭でジゼルを踊る。誰かに見てもらうためではなく、自分のための、自分を好きだなと思っている気持ちの表れとしての踊り。だからその瞬間、トツ子は自分の色が見えるのである。
誰の心にもあるちょっとした影。誰が悪いわけでもなく自分が傷ついてしまった記憶。自分を縛っているそういうものを、トツ子は自力で乗り越えた。友達も親も大きな存在としていてくれたけれど、それは強力な触媒のようなもので、トツ子は自分の心の中に降りていき、自力で自分を更新した。
その姿が因果関係が明確な図式として示されるのではなく、本当にトツ子が偶然の重なりの中で変化していくように描かれていることに、心が動かされる。
[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。
【ほかの画像を見る】藤津亮太のアニメの門V
コメント