『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、「対中国観」において露呈した日本の右派・左派の"ガラパゴスな常識"の問題点を指摘する。
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中国・北京で2023年3月に拘束されたアステラス製薬の現地法人幹部の日本人男性が、中国の検察に「スパイ罪」で起訴されていたことがわかりました。2014年の「反スパイ法」制定以降、本件を含め少なくとも17人の日本人が拘束されたという事実には、ジャーナリストやビジネスマンにとってのチャイナリスクの重大さをあらためて認識させられます。
また一方で、本件に関する報道で考えさせられたのは、朝日新聞の社説(8月23日付)です。もちろん中国政府の対応を批判してはいますが、最後はこう締めくくられていました。
「このところ日中の政府間関係は停滞気味だ。首脳会談や外相会談の機会が数えるほどしかなかったことも、事態の解決を難しくさせていた面はなかったか。事件の舞台は法廷へ移るが、社員の早期釈放に向けて日本政府としていかなる関与が有効か、熟考すべきだ」
まるで日本政府にも責任の一端があるかのような書きぶりは、中国に対する忖度、真正面から中国を批判することからの逃亡と指摘されても仕方ありません。私はそこに読者、あるいは朝日の"ファン"に対するサービス精神すら感じました。
その少し前にも、思想的には真逆ですが、似たような印象を覚えたケースがありました。
靖国神社の石柱に落書きしたとして中国人男性が指名手配された事件に関し、「"こんな人間"の訪日を許した日本の当局」への批判のニュアンスを醸す右派メディアや言論人。ビザ発給審査の厳格化という提案もありましたが、これはなんら実現性のない"ファン向けのサービス"でしかありません。前科さえない人間の迷惑行為をどう予測しろと? 独裁国のような恣意的で非人権的な入国審査や外国人監視を手当たり次第にやれとでも?
いずれの問題にも共通するのは、"認知バブル"の内側の常識でしか物事を考えていない偏狭さです。日本人のアイデンティティ(左派なら「憲法9条の特別な国」、右派なら「優れた日本民族」)からくる世界観を気楽に全地球へ投影し、そのまま世界を把握しようという試みは、矛盾と論理破綻の塊です。
多くの先進国では近年、社会に多様な"常識"が混在し、しばしば衝突し、人々は不愉快なことと向き合う中で少しずつ価値観をアップデートさせている。ところが、前述したようなそれぞれの"認知バブル"の中では、「日本だけは特異点であり、画一的・均質的な社会が維持される」という期待感が醸成されています。
「郷に入れば郷に従え」的な言葉は世界中にあります。確かにありますが、はっきり言えば時代遅れで、もう誰も守っていません。良くも悪くもマジメにそれを守り、そして相手にも守ることを求め、狭い世界の潔癖さを保ち続けようとしているのは、少なくとも先進国だけでは日本人だけではないでしょうか。
望むと望まざるとにかかわらず、今後世界はさらに多様化していき、「理解できない問題」も増えていく。これを受け入れられない人は、ストレスを抱えながら余生を過ごすしかありません。新しい現実、これからの日本社会の礎を築いていくのは、「変わっていく」ことを前提に、時に苦しみながらも、それまでの常識やルールを塗り替えていける世代の人々になるのでしょう。
また、こうした問題とは別に、日本政府や企業が中国とどう向き合っていくかという「スタンス」の問題も曲がり角にきています。
これまで日本では「アメリカに配慮しつつ中国とのビジネスは加速させる」というアプローチが"現実派"とみなされてきました。しかし、中国経済の失速、少子化問題、高度技術を国産化でリプレイスする国策などにより中国市場の魅力は低下し、多くの欧米企業は「中国+1」「中国+2」などという形で依存を減らす戦略を採用しています。
つまりこれは、「世界の工場・大市場となる中国に乗るしかない」という時代ではなくなりつつあるということです。「日本は中立の立場で米中対立の煽りを食わない道を探る」とか、「中国経済が回復すれば"政冷経熱"が再び戻ってくる」といった甘い見立ての下で、脅迫されたり現地の日本人社員を"人質"に取られたりしてまで市場アクセスを維持し続ける価値はあるのでしょうか。
中国に幻想を抱くオールド左翼の世界観と決別し、一方で「中国人は下品で無法だ」などと感情に任せた"愛国ファンタジー"へと逃げ込むこともなく、着実に中国との付き合い方をアップグレードしていくべきでしょう。
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