私の両親は日本人であるが、中国に行き戦争中滞在していた。しかし父は軍医で母も医療関係者であったので、終戦後でも中国に強制的に抑留された。当時は医師不足で、中国では日本人でも医師が重宝された。当時は敗戦の混乱もあり、多くの日本人が中国に残った。しかし父母は延々と終戦後8年も滞在し、滞在中に出会い結婚した。

それだけ長期間に滞在した日本人は例外的である。理由の一つは、父の帰国の順番がきたとき同僚に譲ったからである。父の同僚は医師の資格なしで、医療行為をしていた。もちろん違法であり、それが判明すると当時の中国では厳罰になる。そこで父の帰国の順番がきたが、その方に懇願され帰国を譲った。残った父に帰国の補償はなく、ずっと中国に滞在する可能性もあった。しかし人の命の重みを感じた父の善行である。

その為、長年の試練の連続となる。しかし中国の人達は分け隔て無く、父母は中国人の方達とも生活では協力しあっていた。いわば地域のチームプレーで、人々は生活していた。物資が少ない時代で、中国の方も必死で生きていたし、日本の方も抑留ということを忘れて協力していた。父母の話からは不自由さはなく、生きることにおおらかな様子が見られる。国籍を凌駕して、生きていく逞しさがあった。

技術が未熟な時代で、農耕や狩猟で生活の糧を得ていた。しかし酒はたくさんあった。父は酒が好きで、中国の人々とのコミュニケーションでは酒はなくてはならないものであった。その習慣は帰国後でも役だった。友人との酒を酌み交わしての団欒は、疲れを癒やしてくれる一時であった。

父母は中国で医療従事者として働き、それなりの収入も得た。しかし帰国にあたって費用がかかり蓄財は殆どなかった。そして昭和28年に私が生まれたが、すぐには帰国できず、生後半年してようやく帰国ができた。だから私の出生地は中国で、中国に滞在したことになる。父母も中国で出会い、私も中国で生まれ、中国が私の家族を生んだ。

父は帰国後に中国に滞在した日本人達で会をつくり、年に1回集まり再開を喜びあっていた。会報も作り、父もよく寄稿していた。会員でいつか中国を訪れようと計画もしていた。私は両親よりよく中国の話をきかされた。両親とも中国語は堪能で、父は胡弓をひきながら中国語で歌うのが好きであった。

また中国の自然の壮大さには憧れていた。対岸が見えない大きな川、そびえ立つ巨大な山、どこまでも続く広大な野原等、日本では見られない情景を思い、中国に思いをはせた。生活もそういう自然と融合して健康的である。こういう中国らしさは、もしかすると乳児期に体験した記憶が体に残っているのかもしれない。

両親から聞いた中国の話は、どこまでも壮大である。言語も多種類あり、同じ中国でも南と北の人々では、方言も違い、食生活も違う。その為、遠方の方達が交わる場合、相手の地域の言葉や食生活をあらかじめ調べておく。また中国の文化やスポーツや音楽は多種多様である。中国独自の文化としての曲芸は、先祖代々続くもので、そのバランス感覚を養うために、赤ちゃんの時でも戸外で大人がゆるやかに赤ちゃんを投げて受け取る。もちろん下に安全マットとかはない。落ちれば大変であるが、落ちるという概念がない。そうして赤ちゃんでも空中での感覚を鍛える。

中国はスポーツ大国であるが、中でも卓球はすっと世界の覇者である。広大な国土に多くの人口で、そういう方達が幼少児から卓球になじみ、国をあげて訓練される。母集団が大きい分、当然頂点では優れた方達が君臨する。音楽も中国独自の楽器があり、世界的な演奏者も多く、素晴らしい音色をインターネットで聴ける。それも伝統と中国人の才能のなせる技である。

そういう壮大さが両親のおおらかさを作った。父は豪放磊落な人であった。あれだけ苦労しても、中国生活を語る言葉はいつも笑顔に満ちていた。帰国して開業したが、全く資金のない所から、借金して設備を整え診療した。患者さんとの交流もよく、病気のみならず生活も指導する田舎の名医であった。母も実家から遠ざかる生活で、仕事に明け暮れる中で私を出産し育ててくれた。日本でも開業医の父を支え、仕事をしながら家事と私の育児をせっせとしてくれた。診療室と食事の場はすぐ隣で、診療の合間に食事を作り私に食べさせてくれた。仕事が終わり片付けをして、それから家事をして、朝も早朝から起きて家事をしていた。でもいつも笑顔であった。

父母は慈しみの人であった。患者さんや隣人にも怒ったことはなかった。あれだけ苦難の生活をしてきて、日常生活で不満を言わず他人を思いやることができるのは偉い。それも中国の壮大さがなせる技であろう。父母は中国を訪問することはできなかったが、私は生まれ故郷を訪ねてみたい。父母の位牌を持って。

■原題:中国が生んだ家族

■執筆者プロフィール:木俣 肇(きまた はじめ)医師

1953年中国生まれ。1977年京都大学医学部卒業後、1985~1988年米国UCLA留学。2014年からアレルギー科木俣肇クリニック院長。2015年イグノーベル賞受賞。現在は、ステロイドホルモンやプロトピックを一切使用しない治療で、アトピーや他のアレルギー疾患を診療。ステロイドを使わない治療を求めて、他府県からも多数の患者さんが受診している。

※本文は、第6回忘れられない中国滞在エピソード「『香香(シャンシャン)』と中国と私」(段躍中編、日本僑報社、2023年)より転載したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。


私の両親は日本人であるが、中国に行き戦争中滞在していた。しかし父は軍医で母も医療関係者であったので、終戦後でも中国に強制的に抑留された。