※2024年4月撮影
トップ画像は2024年4月14日日曜日、井の頭公園池の弁天池。弁天橋が見えます。
弁天橋の横、この日本庭園の場所に1983年(昭和58年)までプールがありました。筆者も小学生の頃に友人たちと来たコトがあります。プールの水が井戸水で死ぬほど冷たかったコトを覚えています。公営で入場料は安かったなぁ。
あな懐かし。
※2024年4月撮影
弁天橋です。
※2024年4月撮影
長さは100メートルほどでしょうか。
※2024年4月撮影
何度も渡っていますが写真を撮るのは初めてです。
※2024年4月撮影
「井の頭池の生きもの」が掲示されています。左からニホンスッポン、カルガモ、テナガエビ、スジエビ、モツゴ。
※2024年4月撮影
筆者達はモツゴをクチボソと呼んでいました。小学生の頃、世田谷区の実家近くにあった弁天池(井の頭公園の弁天池とは違う池です)でクチボソやスジエビがたくさん採れました。自宅に持って帰って井戸水なら少しは生きていましたが、長生きはしなかったですね。
その横に「井の頭池の魚・エビ・カニ」のパネル。池に大量に泳いでいる錦鯉は、外来種なのですね。
※2024年4月撮影
その先にも「井の頭池の生きもの」こちらは、ゴイサギ、カワセミ、ギンブナ、ニホンイシガメ、ウキゴリとならんでいます。奥に弁天様が見えます。
※2024年4月撮影
弁天橋から弁天様。
※2024年4月撮影
弁天橋の北側、この左、池に向かって小さな石の鳥居がありました。写真を撮っておけば良かった・・・。
※2024年4月撮影
2013年(平成25年)不審火で焼失してしまった親之井稲荷(尊)があった跡です。
※2024年4月撮影
三鷹市教育委員会の案内の記載内容は以下です。
「徳川家光(慶長9(1604)年~慶安4(1651)年)は、鷹狩のためこの地に訪れ、その水が清いことから「井の頭」と命名されたと伝えられています。井の頭池は、七ヵ所の湧水点を持つといわれ「七井の池」という古名がありますが、「親之井」もまた、井の頭池の古名のひとつです。(寛永15(1638)年「神田御上水源井之頭弁財天略縁起」より)。
「親之井稲荷」の建立時期に関しては、確実な文書等は残されていませんが、江戸時代の地誌には、弁財天の隣の「いなりの社」についての記事があり(文化13(1816)年村尾嘉陵「井の頭記行」)、また、江戸時代初~中期に製作された牟礼村の古地図(「牟礼村絵図」)にも「いなり」社の記載があるため、古くからこの地に祀られていたようです。
「親之井稲荷」は、井の頭弁財天からみて北東(鬼門)の方向に位置し、池を挟んで弁財天の方へ向けられています。池の水面近くに鳥居を構え、七段の石段(参道)の先に、幅1間(約1.8m)奥行2間の覆屋の中に祀られていました。
平成25(2013)年5月1日深夜の不審火により、社が全焼しました。」
今は平になっていますが、右側に盛り土があってその上にこちらが後側の赤い覆屋がありました。その池に沿った側に小さな赤い鳥居も列んでいて、くぐったコトもあります。
※2024年4月撮影
しかし、弁財様の鬼門を護るお稲荷様を焼いてしまったバカ者が捕まったとは聞きません。罰当たりな話です。しかも公営公園なので宗教施設の所有など、複雑な経緯があって、何もなくなってしまった様です。
次回は、井の頭池の「かいぼり」です。
(写真・文/住田至朗)
※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。
※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。
※参照資料
・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)
・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他
下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました
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