人間の唇は、柔軟性や機能、見た目の点で、他の動物と比べて非常に特殊です。
私たちにとって当たり前の「唇」は、代わりのない貴重な存在なのです。
だからこそ、唇を損傷してしまうと医学的にも復元が難しく、患者のその後の人生に大きな影響を及ぼしてしまいます。
また唇の細胞は採取することが難しく、唇の病気に関する研究も難しいものとなっていました。
そのような唇に関連する治療問題に対して、スイスのベルン大学(University of Bern)に所属するマーティン・デゲン氏ら研究チームは、シャーレ内で唇の細胞を培養することに成功しました。
今後は、この唇細胞を用いて、唇の外傷や感染症に対する新しい治療法を試すことが可能になるという。
研究の詳細は、2024年11月4日付の学術誌『Frontiers in Cell and Developmental Biology』に掲載されました。
目次
- 動物たちの中でも特異な「人間の唇」
- 唇細胞の培養に成功!新たな治療法の研究に役立つ!
動物たちの中でも特異な「人間の唇」
動物の口の形は多様であり、「唇(くちびる)」または「口唇(こうしん)」の形状や機能も異なります。
例えば、鳥類には唇がありませんが、くちばしがその機能を果たしています。
また爬虫類にも私たちが考えるような唇はなく、その多くでは、ワニのように歯がむき出しになっています。
ちなみに、アメリカのオーバーン大学(Auburn University)の2023年の研究によれば、一部の恐竜には唇があったかもしれないという説が出ていますが、これも唇の特異性から注目される報告です。
一方、哺乳類の多くには唇があり、草食動物(ウマやウシ)では草を噛み取るために発達していて、非常に柔軟です。
サルやゴリラなどの霊長類の唇は人間と非常によく似ており、表情を作るのに重要な役割を果たします。
唇を使ってコミュニケーションを取ることもあるのです。
哺乳類の赤ちゃんが母乳を上手に吸うことができるのも、唇があるからです。
しかし、サルやゴリラには人間のような赤い唇(毛細血管の血液が透けた色)がなく、人間ほど粘膜が露出するまで外側にめくれていません。
これらを考えると、人間の唇は、動物たちの中でもかなり特殊だと分かります。
そして人間の唇は、人間の他の皮膚と比べても異質な部位です。
唇は角層(表皮の最表面にある細胞の重なり)が非常に薄く、ほとんどの皮膚に存在する皮脂を分泌する「皮脂膜」や、汗を分泌する「汗腺」がありません。
また唇の内部には複数の組織が存在しており、唇全体を口の字状に囲む「口輪筋」によって、唇をすぼめたり引き締めたりすることが可能になっています。
さらに唇には多くの血管と神経が集まっており、これが唇特有の赤色を作り出したり、非常に敏感な触覚を生み出したりしています。
こうした構造は、人間の唇に、他では見られない重要な役割を与えています。
例えば、飲食の際に、唇を閉じて口から食物が出ないようにしたり、水分を吸いやすくしたりできます。
そして唇はコミュニケーションにも欠かせない存在です。
言語においては、「ぱ」行や「ま」行を発音する際に唇が必要であり、唇の形を変えることで表情を作り出し、様々な感情を伝えることができます。
さらに人間同士の唇の接触(キス)は、愛情を確認し合う行為として重要な意味を持ちます。
なにより、唇は顔の中でも非常に目立つ部位であり、「美と健康の象徴」としても見られています。
それゆえデゲン氏は、「この組織に欠陥があると、外見が著しく損なわれているように見られてしまう」と述べています。
実際、唇の一部が失われたり、大きく腫れてしまったりした人は、自分の外見に自信を持てなくなる場合が少なくありません。
しかし唇は一度損傷してしまうと復元が非常に難しい部位です。その原因の1つが、唇は細胞自体が特別だという点にあります。
唇の細胞はまだ完全に理解されておらず、デゲン氏も「これまで、唇の外傷や感染症の治療法を開発するためのヒト唇細胞モデルが不足」していたと指摘しています。
また皮膚細胞とは異なり、ドナーから唇細胞を入手することも難しく、唇の細胞は研究が難しい分野だったのです。
それでも最近、デゲン氏ら研究チームは、それら唇の課題を解決する新たな道を開くことに成功しました。
唇細胞の培養に成功!新たな治療法の研究に役立つ!
ヒトの生体組織から直接採取された細胞は、「初代細胞(Primary Cell)」と呼ばれ、研究のための優れたモデルとなります。
しかし、初代細胞は入手や維持が難しく費用がかかります。
しかも寿命が限られており、最終的には分裂が停止するため、利用し続けることができません。
では、唇細胞のように、初代細胞を簡単に入手できない場合はどうすればよいでしょうか。
この問題を解決される方法が、細胞の不死化です。
これは、初代細胞の分裂回数の限界を決める遺伝子の発現を変更することで、細胞が無限に増殖し続けるようにすることであり、その細胞は「不死化細胞」と呼ばれます。
細胞の不死化と言われるとがん細胞をイメージする人もいるかも知れません。
しかしこうした研究では、主に安定した細胞株を作り出して長期の研究を可能にすることが目的であり、制御された不死化であるため、がん細胞とはまったく異なるものです。
そこで今回、デゲン氏ら研究チームは、唇の細胞を不死化する方法を開拓することにしました。
彼らは唇の損傷を治療している患者2人から提供された唇細胞を使用しました。
そして細胞の分裂回数の限界を決める遺伝子を不活性化し、細胞のテロメア(染色体の末端部にある構造)の長さを変更することで、唇細胞を不死化することに成功したのです。
次いで研究チームは、培養した不死化唇細胞が、治療の実験モデルとして機能するかテストするために、サンプルを傷つけ、その治癒速度を測定しました。
また細胞を使った3Dモデルを作成して感染症を引き起こす菌「カンジダ・アルビカンス(Candida albicans)」に感染させ、その感染状態を確認しました。
その結果、不死化唇細胞の傷の治癒速度や感染状態は、実際の唇細胞と同じでした。
このことは、唇の不死化細胞が新しい治療法を試すのに役立つことを示しています。
さらに、この研究は損傷した唇の再建や修復といった整形外科的応用も視野に入れています。
不死化された唇の細胞を用いた3Dモデルは、唇の再生医療や組織工学の分野での応用が期待されており、損傷や先天的な異常を持つ唇の修復方法の開発にも貢献する可能性があります。
人間の唇は、非常に特殊で替えのきかない部位ですが、今回の研究により、唇に対する科学者たちの理解はますます深まっていくことでしょう。
Breakthrough In Growing Lip Cells In The Lab Could Help Develop Medical Treatments
https://www.iflscience.com/breakthrough-in-growing-lip-cells-in-the-lab-could-help-develop-medical-treatments-76640
Scientists create a world-first 3D cell model to help develop treatments for devastating lip injuries
https://www.eurekalert.org/news-releases/1062064
元論文
Immortalization of patient-derived lip cells for establishing 3D lip models
https://doi.org/10.3389/fcell.2024.1449224
ライター
大倉康弘: 得意なジャンルはテクノロジー系。機械構造・生物構造・社会構造など構造を把握するのが好き。科学的で不思議なおもちゃにも目がない。趣味は読書で、読み始めたら朝になってるタイプ。
ナゾロジー 編集部
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