「中学校2年生から高校1年生までのはっきりした記憶がない」
そう語ったのは、書評ライターや連句人として俳句や文芸情報をX(旧Twitter)で発信をしている高松霞さん(@kasumi_tkmt)。
家族の不幸に無意識に追い詰められていた日々と、それにより発覚した躁うつ病との日々を綴ってもらい、その心情にぴったりな俳句とともにコミカライズ。
作画は、自らのことを「霊感のようなものがある人間」と紹介する漫画家・桜田洋さん(@sakurada_you)が担当。その柔らかで心に染み入る絵のタッチと、鮮やかな色づかいが魅力だ。
今回は「必ず死が訪れる」ことがわかっている、という理由で「動物や花」を買うことができなかった著者が、ふと花を買いたくなったときの話だ。高松さん自身の俳句もあるので必見。
――今回の話で、一番読者に伝えたいことは何ですか?
高松霞さん(以下、高松):生死の狭間の、死にごく近いところにいて、でも結局は生に戻って来てしまった話ですね。こういう人、案外多いんじゃないかなって思っています。私のように実際に自殺未遂にいたらなくても、ふっとそちら側に行ってしまいそうになった経験、あわてて我に返るような経験をしたことのある方のほうがきっと多い。「あるある」ネタとして書きました。
――1つ目の俳句「てざわりがあじさいをばらばらに知る」について、こちらの俳句をどのような思いで選んだのか教えてください。
高松:解説にも書いたのですが、「てざわりで」ではないんですよね、「てざわりが」なんです。助詞ひとつで主体のありかが変わる。これが俳句のおもしろさです。ちょっと寂しい感じもする、でも紫陽花の手触りが心地よい感じもする。ぜひご紹介したいと思って選びました。
――足をベルトで締めてきて放置する、という不思議な友人が出てきます。差し支えなければこのときの感情や何を考えていたのかなど教えてください。
高松:何も考えてなかったです(笑)。「両手は空いているが許可がないからベルトを外すことができない」って、素直に思ったんですよね。途中で彼が窓のカーテンを開けに来て、何も言わずに隣室に戻って行ったんです。「あ、これを見てろってことね」と思って、そうしました。そういうシーンです。
――あらためて、今友人たちに伝えたいことがあればぜひ教えてください。
高松:特に自殺未遂のときは、本当に心配をかけてしまいました。今でもたびたび心配をかけてしまいます。だから、いつも本当にありがとうございます、心配も迷惑もかけてしまうけど、なるべく最小限にできるようにするから、仲良くしててください、と伝えたいです。
――高松さんの俳句「靴擦れが自己主張する夏の果て」について、どのような思いで書いたのか教えてください。
高松:数年前に書いた句です。歳を取って自分に合う靴がわかってきたから、靴擦れもしにくくなってきたけれど、あのズキズキとした痛みは自傷のようでもあります。生きているんだ、という主張を、自分の体から知る感じというか、そういう気持ちで入れました。
第5話では、ふと花を買いたくなった話について描いてもらった。自殺未遂をして、生の世界に戻ってきた感覚が、このような感情をじわじわ生み出すのかもしれない。いずれ死んでしまう花ではあるが「今は生きている」ことを受け入れられるようになった変化が、とても尊いと感じた。
人とは異なる視点で眺めた世界と、じわっと心に染み入る俳句が織りなす情景を、じっくり味わってみてほしい。
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