著名人や政治家の不倫スキャンダルに対し、「絶対に許さない」と息巻く人たちは何者なのか。作家の鈴木涼美さんは「不倫をしていないというだけでその人たちが正義の側に立つ理由にはならない。不倫を断罪する人は、家庭の脆弱さに薄々気付いている人たちだ」という――。

※本稿は、鈴木涼美『不倫論』(平凡社)の一部を再編集したものです。

■昭和の価値観から見た令和の不倫問題

TBSドラマ『不適切にもほどがある!』は昭和61年令和6年がバス型タイムマシンによってリンクし、ポリコレガン無視の(というかポリコレという概念のない時代の)いわゆる昭和のオジサンが令和の現在へやってきてどこか歪んだ現代人の意識に不適切な形で活を入れるという内容で、現時点では爽快と不快の際にあるようなその活がよくも悪くも話題を呼んだ。

主人公は昭和61年に男手一つで娘を育てながら体育教師をする口の悪い中年男で、ひょんなことからタイムマシン機能のついたバスに乗ってしまい、バス内でタバコを吸っている状態で令和の地に降り立つ。

当然、昭和の常識の多くが非常識となった令和の世の中で、彼の行動や発言は白い目で見られるが、現在当然のごとく常識として信じ込まれているものを共有しない彼の言葉は、コンプライアンスやポリコレの横文字を思考停止状態で過信する令和人たちの怠慢を指摘するものでもある。

ただ実際の世間の反応はというと、昭和的な思考やその抑圧と現在進行形で戦っている者たちのコメントは割と冷ややかで、人権問題やセクハラ議論などに関して問題ある発言の指摘もいくつか見受けられた。そもそも昭和オジサンが令和を救うというよりは、令和の常識の歪さを外部から指摘する目の役割に過ぎないのだが、それだけ現存する昭和的思考に悩まされる者は今でも多いということなのかもしれない。

■赤の他人の不倫を許さない無関係な「世間」

そんな中、第8話は、近年過熱しがちだった不倫報道とその余波を扱った内容で、見覚えのある謝罪や批判の光景が映し出される見応えのあるものだった。一度の不倫で仕事を奪われ、閑職に追いやられた元・人気アナウンサーの男性の「再起したい」「反省している」という気持ちを汲みとってやりたい主人公は、彼に再挑戦の機会を与えない会社や、無関係であるにもかかわらず彼を許さないとする「世間」に疑問を向ける。

そして実際に街頭へ出て、彼を許さない「世間」にマイクを向けるが、一体なぜ彼の再起を許さないのか、彼の不倫によって世の中にいかなる迷惑が降りかかったのか、一体彼は誰に謝り、誰に許されなければならないのかを問いかけられた世間の返答は頼りない。

■「世間」を装って意見を述べ続ける不気味さ

彼を許さないのは一体何なのか、何かわからないものによって断罪され続ける彼を「世間」の言うままに冷遇する会社は一体どこを向いているのか、昭和オジサンとともに視聴者もまた腑におちずに立ち止まる。

有名人だから仕方がないのか、という気分になってくるうちに、不倫アナウンサーに手厳しい対応をしていたコンプライアンスにうるさいテレビ局幹部が、ホームパーティーに主人公を誘う。そこで繰り広げられる光景は、まさに現代の不倫夫と「世間」の関係の縮図であった。

要はテレビ局幹部は大昔、妻を裏切り妻の友人と浮気をしてしまったという過去がある。夫婦間の会話や家庭の雰囲気を見れば、妻とはすでに向き合い、2人の間の問題は解きほぐされているようである。しかし年に1回やってくるという妻の友人たち、そしてその夫たちは彼の過去を許す様子も彼の言葉を信じる様子もなく、未だに熱量高く怒り、彼を批判・断罪し、説明や謝罪を要求し続けている。

「妻の気持ち」を代弁している風を装う彼女たちは実際は妻の制止も聞かず、無関係な立場から彼の行動の愚かさや間違いを指摘し続けるのだ。

■「異常な人」から見た「フツウの世界」

思えば少し似た光景を描いた女性作家による文学作品があった。綿矢りさの短編集『嫌いなら呼ぶなよ』に収録された表題作、「嫌いなら呼ぶなよ」である。

同書に収録された四つの物語はいずれも、「異常な人」が主人公であり語り手である。それも、自意識がすごいとか面倒臭さがやばいとか、ある意味純文学の主人公としてはステレオタイプだけどその異常さこそ才能とか言われていそうな異常さではなく、現代社会に蔓延る異常さとしてネット空間や週刊誌で名指しされているような凡庸な異常さである。

社会の、特にネット社会で大人数のように見える「正常な人」に「異常だ」と後ろ指を指され、時に言葉で分析され、取り締まられ、排除されそうになるような人。バレバレなのに浮気がやめられないヤリチン夫、さりげないカジュアルファッション全盛の今ロリータ服を着てプチ整形を繰り返しカワイくあることに命をかける女、気になるユーチューバーに粘着して応援と称して誹謗中傷コメントを書き続けるファン。

通常は「世間」や「ネット警察」や「普通の人」に、眼差される側にいて、私のような迂闊な文章屋などに、こういう人最近いるよね〜現代の闇だよね〜と書き立てられて、根幹にあるのはズバリ男根コンプレックスなのです、とか、想像力の欠如をもたらした教育政策の失敗が生み出したのです、とか、ルッキズムに毒された社会の被害者なのです、とか勝手な社会批評の種にされがちな彼らが、ここでは世界を眼差す側に立っている。普段彼らを異常だと指差している世間が彼らの目に映る。

あちらから見れば「フツウの世界」は実に歪で、「フツウの世界」が信じ込んでいる正解には何の根拠もなく、しかも自分らは多数派でまともなのだという最高の盾でもって安全な場所から、イノセントなままに人を傷つける。読者は異常な人の異常な思考回路につい納得してしまううちに、パラレルなワールドに一瞬だけ誘い込まれている。

■不倫をしていないというだけで正義の側には立てない

表題作である「嫌いなら呼ぶなよ」は、妻の友人の主催するバーベキューに夫婦で出かけたら、実はその会は妻や友人たちが仕組んだ罠であって、2組の友人夫婦と涙を流す妻に一斉に不倫を責められる夫の目線で綴られる。

夫の脳裏には「妻と愛人で立場が違うとはいえ、同じ恋愛感情なのに、楓は周りから同情されて、星野さんは蔑まれ悪しざまに言われる。ただただ僕を好きで、頭では駄目と分かっていても離れられないだけなのに」というような真理がしばしば過ぎり、ついつい愛人の側から世界を見る癖が育っているアラフォー独身の女性なんかは時折声に出して読みたい日本語に触れた気分にもなる。

被害者ヅラを崩さず夫を陥れた妻も、正直全然関係ない部外者なのに場を仕切って人の気持ちを決めつけるような友人たちも毒々しく、異常なのはこっちだったのか、などと納得しかける。

しかし夫はそんな一触即発で絶体絶命の場で、「自分も他人も責めすぎないで、穏やかにホンワカとストレスをためずに、どこかに逃げ場を残しておく生き方が一番だ」としみじみ思ったり、自分の不倫を「そんな低次元の感情ではない。もっとストイックな行為だ」と位置付けたりする。

やっぱり彼は彼で異常な人に間違いはない。そしてここに集まる彼以外の人は不倫大好きな彼から見ても、絶対不倫なんてしていない人ではあるけれど、不倫をしていないというだけで彼らが正義の側に立つ理由にはならない。異常でない人がいないのだ。

■不倫の断罪は「家庭の脆弱に気付いた人々」の証

自分に責められる一点があると思っているという点で、世間よりはちょっと彼の方がマシのように思えるけれど、それは数十ページ彼の視点で物語を読み進め、すっかり愛着が湧いたからというだけの気もするし、多勢に無勢ならそちらを応援したいという心理のような気もする。

『不適切にもほどがある!』のテレビ局幹部断罪のシーンを見て、口汚く彼を罵る「世間」代表の友人たちに肩入れする者はほとんどいないだろう。街頭で主人公が見たように、彼を責める世間の一部として普段は常識の内側にいる者たちの多くは一人ひとりに解きほぐせば、家族形態に疑問を感じていたり、不倫する人の気持ちがわかったり、許す心を持っていたりする良識的な普通の人々である。

それでも総意として家庭という枠組みの脅威を大声で断罪しなくてはならないのであればやはり、それだけ家庭の脆弱さに徐々に人々が気付いている証のようにすら思えるのだ。

不倫を許さない風潮、と言ったときに主体となっているのはそうした「世間」で、無関係な「世間」がサレ妻やサレ夫に先んじて浮気者を断罪することに対してはすでにワイドショーのコメンテーターですら「人様の家庭のこと」として違和感を示すような問題ではある。

そしてそのような風潮が話題になることのもう一つの罪は、無関係なのになぜか「許さない」世間に対して、実際に傷をつけられた者の傷が焦点化されづらくなることかもしれない。

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鈴木 涼美(すずき・すずみ)
作家
1983年生まれ。慶應義塾大学在学中にAVに出演。東京大学大学院社会情報修士課程を修了。修士論文が『「AV女優」の社会学』として書籍化。日本経済新聞社記者を経て、文筆家として活躍中。初の小説『ギフテッド』が第167回芥川賞候補になった。

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