
コロナ禍が一段落し、世界的なインフレと人手不足が重なった2024年。日経平均株価はついにバブル経済の盛期に記録した最高値を上回り、「失われた30年」といわれた長い不景気とデフレの時代に一応の終止符が打たれたとされています。では、バブル景気とは一体何だったのでしょうか? バブル景気前後の1980年代から1990年代を「日本社会の曲がり角」だったと語る、精神科医・熊代亨氏の書籍『ないものとされた世代のわたしたち』(イースト・プレス)から、その時代について振り返ります。
ないものとされた世代のわたしたち 1980年〜
私たちの世代が矢面に立つことになった「日本社会の曲がり角」について振り返ってみる。
2024年から振り返ったとき、バブル景気の崩壊は長い長い停滞の出発点に見え、それに引き続いた、いわゆる「失われた30年(ロストジェネレーション、通称・ロスジェネ) 」は愚かしい過ちとうつるかもしれない。そのときまったく何もできなかった私たちを笑う人もいるだろう。
しかし、バブル景気にしてもその後の停滞にしても、その渦中にあって私たちはそれを自覚できず、だからこそ対応が難しかった。私たちの世代だけではない。当時の社会を主導していた上の世代も事態をうまく認識できず、1990年代末や2000年代前半においてさえ適切に対応できなかった。1980年代から1990年代をとおして多くの人が個人主義的なライフスタイルを身につけ、そこに埋没しきっていたがために、政治運動のようなかたちでは団結することもできず、ただ個人単位で目の前の現実をサバイブするしかなかったのも悪く働いたかもしれない。
社会の曲がり角は、その渦中にあって案外気付きにくい。そのことを知るうえで、あの、葬送しようにも葬送しきれない一時代が教えてくれることは多いように思う。
バブル景気なんて本当にあったのか
1975年生まれ、いわゆる就職氷河期世代にあたる私は、好景気というものをよく知らない。
コロナ禍が一段落し、世界的なインフレと人手不足が重なった2024年の日本は好景気とみなされ、実際、日経平均株価はバブル経済の盛期に記録した最高値をついに上回った。バブル崩壊後の「失われた30年」といわれる不景気とデフレの時代に一応の終止符が打たれたのは事実だろう。
ではその前にあったとされる「バブル景気」は、本当にあったのだろうか?
歴史的には、それは実在したという。安田海上火災保険がゴッホのひまわりを53億円で購入したのが1987年。日経平均株価が3万8,915円の史上最高値を記録したのが1989年のことである。この時代に就職活動をした人の昔話には、就職活動でハワイの研修旅行に連れて行ってもらった、タクシーを1万円札で呼び止めたといった話が珍しくない。
しかし、そうしてバブル景気の羽振りの良さを肌で感じ取れたのは、2024年の好景気がそうであるのと同様、限られた世代・限られた職業・限られた生活の人々だけだったのではないだろうか。
バブル景気にあたる1980年代後半から1991年は、私にとって中学生時代から高校時代の前半にあたる。それは不登校のために社会に対してアンテナを張り巡らせる余裕のほとんどない時期だった。そのうえ私の両親は公務員で、親族もだいたい公務員だったから、バブル景気の恩恵はない……というよりも相対的には羽振りが悪いぐらいだった。
石川県は昔から繊維産業が盛んで、私の学区にも小さな町工場がたくさんあった。だが、町工場がバブル景気に大儲けしたといった話は聞こえてこず、むしろ、聞き慣れた工場の稼働音は次第に聞こえなくなっていった。
バブル景気の頃は、全国にショッピングモールの先祖のような複合商業施設が作られ始めた時期でもある。私の地域でも、国道8号線沿いに当時としては大きめの複合商業施設が作られ、それまで街の中心に出かけ、デパートやアーケード街で買い物をしていた地元の人々が複合商業施設で買い物を済ませるようになった。
私たち学生も同様である。駅前のゲーセン(ゲームセンター)や書店から、複合商業施設のなかのゲームコーナーや書店へ。そうした人の流れが地元経済にどんな影響を及ぼすのか、街並みをどう変えていくのか、当時の私には知るよしもなかった。そして街の中心部にあった商業施設やアーケード街は高校在学中の3年間ではっきりわかるほど衰退し、実家の近所にあった個人経営の商店も同じ運命を辿った。
だから私にとってバブル景気らしい記憶はメディアが報じたものしかない。東京では若い男女が華やかな生活をおくり、地上げ屋が暗躍し、コピーライターをはじめとするカタカナ商売がもてはやされていたというが、そう報じられる東京をじかに知っている人が私の周りにいなかった。
私の父は「あんなものはあてにならない」と切って捨てていた。それが公務員一族ならではの見方なのか、一種のひがみから来る反応だったのか、先々まで見通したうえでの見識だったのかはわからない。ともあれ、その父の言葉は「失われた30年」のなかでは正鵠(せいこく)を射たもののように響いたのだった。
熊代 亨
精神科医

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