
■トランプ流コモンセンスの正体
トランプは、伝統的な価値、保守的な道徳の擁護者だということになっている。実際、たとえばアメリカの伝統的な価値の継承者だとされているキリスト教福音派は、トランプの重要な支持母体のひとつである。
トランプが大統領就任演説で口にした言葉の中で最も意外な語は、「コモンセンス」である。彼は、コモンセンスを継承し、守護する者として自己を提示しているし、かつ国民からもそのように見なされている。
しかし、他方で、トランプの公的なふるまいは道徳とはほど遠い。そのパフォーマンスは、保守的な価値観の中でよきものと見なされていることの正反対である。思いついたままにしゃべり、他人を口汚く罵(ののし)り、品位あるマナーのすべてを蹂躙(じゅうりん)している。隠れてなされていたこと――しかしすでに暴露されていること――までも含めれば、不品行の程度はますます高まっていく。その中には、セックススキャンダルや犯罪的なことも含まれる。
この両極性をどのように解釈したらよいのか? これもまた、既成支配層の――つまり主流の――民主党的リベラルへの反発という文脈で説明できることである。しかし、ここにも逆説がある。
■寛容の先に待ち受けている「トランプ」像
最初に気づかねばならないことは次のことだ。トランプを、単純にリベラルがめざしていた社会への「敵」として解釈すべきではない。「トランプ」なる人物は、むしろリベラルが指向しているものの極限に見出される像である。
言い換えれば、リベラルが理想化している状態を極端化し、戯画化して表現すれば、「トランプ」という像が得られるのだ。
どういうことか?
アメリカのリベラルが実現しようとしている社会は、寛容な社会である。かつては道徳的に望ましくないとされていたアイデンティティ――たとえば同性愛者やトランスジェンダー等々――も認められ、受け入れられる社会、かつてはタブー視されていた行動も、他者に危害を与えない限り、個人の自由の範囲として承認される社会。寛容であるということは、許容的だということだ。
ところで、道徳の本性は「禁止」にある。許容性の拡大は、したがって、伝統的な道徳から離脱していくプロセスである。このプロセスを徹底的に推し進めたらどうなるか。「(ほとんど)すべての道徳的な禁止を平気で、恥ずかしげもなく公然と侵犯する人物」という像が得られるだろう。それこそがトランプである。トランプは、リベラルがめざしている許容的な社会の誇張された真実である。リベラルは、トランプを通じて「あなたが向かおうとしている先には、こんな人物がいるのですが、これでよろしいでしょうか?」と問われているようなものだ。
■「意識高い系」の容赦ない排斥
無論、リベラルとしては、こんな極限は受け入れられない。避けなくてはならない。
しかし、そうするとリベラルは別のかたちの極限を、自己否定的な極限を得ることになる――すでにそのような極限に到達してしまっている。それが、「ウォーキズムWokism」と(右派から)揶揄されている潮流であり、また「キャンセル・カルチャー」と呼ばれている現象だ。
「ウォークWoke」とは、「目覚めている人」という意味であり、現代日本の社会現象と対応させれば「意識高い系」と似たような含意をもつ語である。律儀な左派系の人々を嘲笑(ちょうしょう)的に指し示す名詞だ。
キャンセル・カルチャーは、リベラルにとっての社会正義、PC的な正義の基準にわずかでも反する言動をとった個人を排斥し、追放し、そして解雇したりする社会現象を指している。「キャンセル」という言葉が、その排斥の容赦なさを表現している。
■寛容を追求した果てに生じる不寛容
キャンセル・カルチャーや過激なウォーキズムは、リベラルがめざす寛容な社会を厳格に追求したことから生ずる自己否定的な現象である。
寛容に徹しようとすると、「寛容」を推進したり、維持したりするとされる行動や態度からの一切の逸脱が許容できないものに見えてくる。そうした逸脱を禁止し、逸脱者を排斥しなくてはならない。
つまり寛容を律儀に追求した結果として、当初よりもはるかに不寛容な状態が出現する。あるいは包摂的な社会を極限まで追求した結果、逆に過酷な排斥をともなう状態が導かれる。
リベラルが求める寛容な社会、許容的な社会は二種類の極限をもつ。文字通りの過剰な寛容、道徳にこだわらない極端な許容性は、リベラルの外部に現れる(トランプ)。寛容の極限をリベラルの内部に押しとどめようとすると、今度は、極端な不寛容が得られる(キャンセル・カルチャーやウォーキズム)。
■最も不品行な男が「道徳の守り人」になる
寛容で、多様なアイデンティティを公平に包摂する社会。非常に結構だ。が、この理念には、根本的な矛盾がある。少なくとも、現代の資本主義を前提にしてこの理念を十全に現実化しようとすると、寛容の追求が不寛容へと反転するのである。
ウォークによる批判のターゲットになりやすいのが、相対的に貧しい白人中産階級の労働者たちである。先に述べたように、彼らは、リベラルな既成支配層が、移民やジェンダーに関して多様性や包摂を訴えているのに、自分たちを尊重し、積極的に包摂しようとしていないことに不信感を抱いているからである。
リベラルの「多様性・公平性・包摂」といった理念に反発を覚えるのは、下層の白人労働者たちだけではない。ここまで述べてきたように、この理念は矛盾を内在させているので、これに疑問を覚えたり、うさんくさいものを感じたりするのは当然のことである。
この理念への疑念は、「道徳の不在」に対する不安という形態をとる。先ほど述べたように、寛容な社会、許容的な社会という理念の極限には、一種の虚焦点(きょしょうてん)として、一切の道徳の効力が停止する状態、すべての道徳から解放された状態が待ち構えている。ある特定の道徳ではなく、道徳一般が無効になった世界……これは人に耐え難い不安を与える。
こうした不安を抱く者は、リベラルの理念に対してどのように対抗するのか。ごく素朴な戦略は、リベラルが唱える「寛容」や「許容」の中で消滅しかけている保守的な価値観、「古きよきコモンセンス」を称揚し、リベラルの理念に対置することだ。
■道徳の真空地帯を純粋に否定する保守派
かつて――1980年代に――共和党の大統領の誕生に貢献した政治組織「道徳的多数派(モラルマジョリティ)」は、実際、そのような戦略をとった。が、今日の右派――リベラルな民主党に反対している右派――には、単純に、伝統的な道徳の復活や保守を訴える戦略はアピールしない。
なぜならば、彼ら自身もすでに、伝統的な道徳の大半を恣意的なものに過ぎないと見なしており、それらが誰に対しても強制できるような妥当な規範ではないことを理解しているからだ。
個々の道徳や規範に関しては、もはや時代遅れのものに感じられる。しかし、リベラルが推進している「寛容な社会」のさらにその先に予感されている、道徳の真空地帯に対しては恐怖を感じる。このような心理状態にある保守派に対しては、どんな態度が魅力的なものとして現れるだろうか。許容的な社会へと向かうダイナミズム、民主党的なリベラルが成し遂げようとしていることをただ純粋に否定すること、これである。
何か守るべき道徳を唱えるのではなく、「多様なものの寛容なる共存」を指向するリベラル派の実践に対して嘲笑的にふるまい、その価値を徹底的に貶める人物、つまりPC的な「社会正義」の規定を蹂躙し、蔑(ないがし)ろにするような人物が、今日の保守派を惹きつけるはずだ。そのような人物こそ、ほかならぬトランプである。
■トランプ人気は「対立物の一致」という逆説現象
かくして、一見奇妙なことが生ずる。PC的な品行方正さを意図的に侵犯し、徹底的に冒瀆(ぼうとく)的にふるまっている人物が、保守的な価値や伝統的な道徳を守る最後の砦(とりで)として現れるという逆説が、つまり一種の「対立物の一致」が生ずるのだ。
その上で、トランプは、道徳性の一般を代表するような論争的な主題に関してだけは、はっきりと保守的な道徳を支持する。たとえば、女性の人工妊娠中絶に関しては、――「プロライフ(胎児生命尊重)」の名目を使って――否定的な態度をとる(*1)。あるいは、LGBTQ+を認めず、「男と女しかいない」と公言する(*2)。
トランプは、性行動に関しても極端に奔放なので、こうした保守的な主張はちぐはぐな印象を与える。が、ここまで述べてきたように、トランプの支持者は、これを矛盾とは見ていない。
*1 選挙期間中にトランプは、中絶の規制は、全米一律ではなく州レベルでなされるべきだと主張したが、自らが任命した最高裁判事がロー対ウェイド判決を覆したことを誇るなど、彼が女性の中絶の権利に対して否定的なことは明らかである。
*2 トランプの大統領就任演説。
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社会学者
1958年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社、毎日出版文化賞)、『自由という牢獄』(岩波書店、河合隼雄学芸賞)、『三島由紀夫 ふたつの謎』(集英社新書)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎との共著、講談社現代新書)など著作多数。
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