年金の受給開始年齢を遅らせれば、その分だけ受取額は増える。「年金の繰下げ」の仕組みは制度としては合理的で、多くの人にとって魅力的に映るかもしれません。しかし、将来の「安心」を得るために、今という「時間」を差し出すその選択に、思いがけない代償が伴うこともあります。果たして、年金を「遅らせること」は誰にとっても得策なのでしょうか。

年金月23万円に増額。「これで安心」と思ったのに

年金を繰り下げることで、将来の受取額を増やせる――そんな制度に希望を託し、70歳まで年金の受給を我慢する人がいます。制度上、65歳以降は1カ月繰り下げるごとに0.7%ずつ増額され、70歳まで繰り下げれば42%も増える計算です。老後の安心を得るための、ひとつの選択肢といえるでしょう。

伊藤浩一さん(仮名・72歳)もそのひとりでした。60歳で大手メーカーで定年を迎えた伊藤さんは、再雇用制度で70歳まで働きました。月収は手取りで月22万円。そこに妻・明美さん(仮名・74歳)の年金月10万円が加わりますが、こちらは全額貯蓄に回していたとか。一方で伊藤さんは65歳になっても年金は受け取らず、「受給開始を遅らせて、将来に備える」ことを選びました。

「毎月の年金の受取額が増えたほうが、さらなる老後の安心につながると思ったんです」

そして70歳を迎えた年、ついに増額された年金を受け取り始めました。42%増額で月23万円。もし65歳から受給していれば月約16万円だったので、月7万円、年間84万円の差はかなり大きなものです。受給初月には「ここまで我慢したかいがあった」と、ささやかな達成感もあったといいます。しかし、そんな思いは半年後には、「もっと早く年金を受け取っておけばよかった」という後悔に変わってしまいます。

年金が増えて喜んでいた伊藤さんに、いったい何が?

「実は、妻が倒れまして……」

ある日、脳梗塞で倒れた明美さん。救急搬送され、緊急手術。一命は取り留めたものの右半身に麻痺が残り、要介護2の認定をうけます。夫婦水入らずの穏やかな老後は一瞬で終わり、在宅介護がスタートしました。日中はヘルパーを頼みつつも、夜間の介助や、食事・入浴の支度などは伊藤さんが担います。「今はもう、一緒に外出することもほとんどできません」とこぼします。介護は肉体的にも大変ですが、それ以上に精神的にツラいといいます。

「介護自体がツラいわけではないんです。将来を不安に思うばかりで、妻との時間を先延ばしにしてきたことが――本当に後悔でしかなくて」

老後の安心よりも大切なことがあった…

伊藤さん、もし65歳で仕事を辞めて年金を受け取っていたなら――伊藤さんの年金は月16万円。そして妻・明美さんの年金は月10万円。二人合わせて26万円でした。手取りにすると22万円ほどでしょうか。明美さんの年金を貯蓄に回すことはできず、老後の不安という面では繰下げ受給をした場合よりは大きかったかもしれません。たとえば夫婦で旅行に出かける――そのような楽しみも、貯蓄を取り崩して実現、ということになったでしょう。

「それでも年金を65歳から受け取っていたら……もっと妻と出かけたり、美味しいものを食べたり、記憶に残る時間を一緒に過ごせていたかもしれません。70歳まで年金を受け取るのを我慢した結果がこれですよ…バカだな」

伊藤さんの後悔は、もはや、年金額の多寡ではないのです。

厚生労働省令和4年度 年金制度基礎調査』によると、老齢年金の繰下げ受給者は受給者3,421.87万人のうち、70.79万人。全体のわずか2.07%しかいません。

なぜ、繰下げ受給を選んだのか。理由のトップは「年金額が思っていたよりも少なく、増やしたかったため」で28.3%。「終身で受け取れる年金額を増やしたかったため」26.0%、「自分自身に十分な収入があったため」23.0%と続きます。

ただ調査ではその後、繰下げ受給をして後悔したかはわかりません。もちろん、繰下げ受給を選択した理由のとおりになり、万々歳という人もいれば、伊藤さんのように後悔でしかないという人もいるでしょう。こればかりは人それぞれなので、一概に年金の繰下げ受給が良い/悪いをいうことはできません。

「老後資金の準備」は確かに重要ですが、それと同じくらい「老後をどう生きるか」も重要な。「いつから年金を受け取り始めるか」、夫婦で慎重に考えるべきテーマといえるでしょう。

[参考資料]

厚生労働省令和4年度 年金制度基礎調査』

(※写真はイメージです/PIXTA)