
高収入の家庭であっても、定年後、思いがけない資金不足に直面するケースは少なくありません。むしろ高収入の家庭ほど気づきにくい家計の落とし穴があって……。本記事ではAさん夫婦の事例とともに、老後破綻の予兆をCFPの伊藤貴徳氏が深堀りしていきます。※プライバシー保護の観点から、相談者の個人情報および相談内容を一部変更しています。
まじめに働き続けた元公務員夫婦
東京都内在住のA夫婦。夫のAさん(66歳)も妻のBさん(66歳)も公務員として定年まで勤め上げました。ピーク時の世帯年収は1,200万円ほど。退職金は2人合わせて3,000万円が口座に着金したことを確認しました。「共働きだったし、まじめに働き続けてきたのだから、老後は安心だろう」と信じて疑いませんでした。
Aさんが30代後半のころ、3人目の子どもが誕生。それを機に、家族5人で暮らせるマンションを都内に購入しました。広さと学区を優先した結果、住宅ローンは6,000万円超。返済計画は35年でしたが、「退職金で完済できるだろう」と楽観的でした。
3人の子どもたちは塾や習い事に通い、私立中学・高校への進学も選択肢に。「教育だけは惜しまずに」という教育方針のA夫婦は、学費や進学資金をその都度、ボーナスや貯蓄でカバーしてきました。「うちは2人とも公務員。安定収入があるから」と、家計を見直す機会はあまりなかったそうです。
月の支出をほぼすべて使い切り、貯蓄がほとんど増えないまま時間が流れていきました。ある夜、夕食後の会話で「そういえば、退職後の生活費ってどれくらいかかるのかしら?」妻のBさんの何気ない問いに、Aさんは曖昧に答えました。
「まぁ退職金もあるし、子どもたちも就職したし……年金も出るし、大丈夫じゃないかな」
そのときはそれで話を終えました。ですが、ふと通帳を見直してみると手元にあるのは数十万円だけ。退職金の一部は住宅ローンの一括返済に消え、残りも生活費や子どもたちの自立支援、親の介護費用などであっという間に減っていったのです。数十万円は突発的な支出でも消えうる額、つまり老後資金はゼロという状態。AさんとBさんは顔を見合わせ、ようやく危機に気づきました。
このようなケースは特別ではありません。収入の多寡にかかわらず、見えない支出の積み重ねで、誰もが“老後破綻予備軍”になりうる時代。ここからは、A夫婦が直面した“見えない支出”とその原因を深掘りしていきます。
「お金がない」!は、長い年月をかけて忍び寄る
A夫婦の家計に、目に見える「大きな無駄遣い」はありませんでした。むしろAさんもBさんも、堅実に暮らしているという自負があったほどです。外食は月に1〜2回程度。ブランド物には興味もなく、海外旅行も数年に一度。それでも家計は、じわじわと崩れていました。
「見えない支出」の正体
「子どもたちには不自由させたくない」
「せっかく都内に住んでいるのだから、ある程度は便利さも大事」
そんな思いが重なり、教育費や住居費に加え、日常生活も“そこそこ快適”をキープ。
・中学受験のための塾代:年間100万円以上
・私立高校・大学の学費と仕送り:計1,000万円以上
・住宅ローンの月々返済:約17万円
・マイカーの維持費:年間約40万円
・親の介護費用:週2回の訪問介護+デイサービス利用
気づけば、生活を“回す”ことにすべての収入が吸い取られ、手元にお金が残らない体質になっていたのでした。夫婦の共通認識は、
「まだなんとかなる」
「子どもが卒業すれば、楽になるよ」
「ローンもあと少しだし……退職金で一気に返そう」
「年金もあるし、老後はなんとかなるさ」
A夫婦は、お互いに“なんとなく”安心していました。けれど、その「なんとなく」が、もっとも危険なサインだったのです。定年退職のあと、生活は一変しました。Aさんの退職金で住宅ローンを完済。子どもたちへの支援、Bさんの母親の介護費用も継続。そのうちの半分以上が、わずか1年半で消えていったのです。
「貯金って、使い始めると早いのね……」Bさんがつぶやいた言葉に、Aさんは返す言葉がありませんでした。
安心できる暮らしは、感覚ではなく設計でつくる
A夫婦の事例から見えてくるのは、「高収入でも安心できない家計」が、誰にでも起こりうるという現実です。ここではA夫婦の状況を分析し、見落とされがちな3つのポイントを整理します。
視点1:支出の「見える化」とライフプラン設計
A夫婦は、教育費や住宅費、介護費用など、支出の多くを「必要経費」として把握していたものの、それが家計全体でどれだけの比率を占め、将来どのような影響を及ぼすかまでは把握していませんでした。ポイントは、「いま、なにに、いくら使っているのか」だけでなく、「将来、なんのために、いくら必要か」を明確にしておくこと。家計簿が続かなくても構いません。最低限、「固定費・変動費・特別な支出」に分けて可視化し、将来の支出予測(ライフプラン)と照らし合わせることが重要です。
視点2:貯蓄と投資の優先順位づけが不在
A夫婦は、子どもたちへの教育支援や生活水準の維持を優先するあまり、「将来の自分たちのためのお金」をあと回しにしてきました。つまり、“貯めるべき時期に貯めなかった”ことが最大の失敗だったのです。特に40代〜50代前半は「貯蓄のゴールデンタイム」で、子育てや住宅ローンのピークと重なる反面、収入も最も安定する時期。この時期に老後資金の積み立てを意識的に行っていたかどうかが、60代以降の生活に大きな差を生みます。さらに、超低金利時代においては「貯蓄だけ」では資産は育ちません。投資信託やNISA、iDeCoなども活用し、長期的に資産を“働かせる”発想が必要です。
視点3:「退職金があるから大丈夫」という過信
「退職金でローンを完済して、あとは年金でなんとかなるだろう」A夫婦のように、退職金を“最後の砦”と考えている人は少なくありません。しかし実際には、退職金は一時的な資金であり、長期的な生活費や医療・介護費をカバーし続けるには不十分なケースが多いのが現実です。また、まとまったお金が入ると「安心して使ってしまう」心理が働き、必要以上に生活費が膨らむことも。退職金は“残りの人生のライフライン”であることを理解し、計画的に配分する必要があります。
いまからでもできる!“老後破綻予備軍”の処方箋
A夫婦のように、気づいたときには貯蓄が底をつき、老後資金が足りない……という事態に直面しないために重要なのは「いまからなにができるか」に目を向けることです。
老後ビジョンを共有する
老後資金の問題は、夫婦どちらか一方だけが悩んでも解決しません。特に、子どもや親との関係性も絡んでくる今後の生活を考えるなら、家族での対話が不可欠です。
・退職後、どこに住むのか?
・子どもへの金銭的支援はいつまで、どこまで?
・介護が必要になったとき、どう備えるのか?
・夫婦でどんな老後を送りたいのか?
このような老後のビジョンを共有することで、「なにに備えるべきか」「なにを優先するか」が明確になります。特別な場を設ける必要はありません。夕食後の雑談からでも、ぜひ「お金の未来」について話し合う時間を持ってみてください。
お金の安心は「収入」よりも「計画力」で決まる
「収入はそれなりにあるし、きっと大丈夫」「退職金や年金もあるし、なんとかなるだろう」そう思ってきたA夫婦も、気づけば老後資金がほとんど残っていないという現実に直面しました。けれどこれは、決して特別なケースではありません。収入の多さに関係なく、「見えない支出」や「計画のなさ」が、家計をじわじわとむしばむことは誰にでも起こり得ます。老後不安は、「準備をしてこなかった人の問題」ではありません。むしろ、「見えにくい将来に、どう向き合っていくか」の問題です。まずは今日から、できることを一つずつ。
・支出を見える化する
・家族と将来について話してみる
・少額からでもお金を育ててみる
この小さな一歩が、あなた自身と家族の未来を守る大きな力になります。「お金の不安」は、知識で和らぎます。「老後の安心」は、行動で手に入ります。未来の自分に「ありがとう」といえる日を迎えるために。いまここから、「見えるお金管理」を始めてみませんか?
伊藤 貴徳
伊藤FPオフィス
代表

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