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2025年3月、古賀史健さん著『さみしい夜のページをめくれ』(ポプラ社)が発売された。本作は、2023年に刊行された『さみしい夜にはペンを持て』(ポプラ社)の第二弾にあたり、同シリーズは累計18万部を超えている。前作は「海のなか」を舞台に、中学生のタコジローが不思議なヤドカリおじさんと出会い「日記を書くこと」を通して成長していく作品だった。

第二弾となる本作では、進路に迷う中学3年生のタコジローヒトデの占い師と出会い「本を読む」という体験を通して、新たな変化が描かれている。また作中では、100冊ほどの小説や教養書が実名で登場しており、本書から読書に興味を持った人が次のステップに進むためのブックガイドとしての機能も持った作品となっている。

ダ・ヴィンチWebでは、著者の古賀さんにインタビューを実施した。なぜ古賀さんは「さみしい夜」に書くこと、そして読むことを薦めるのか。これまでの読書体験や本への想いとともに、その考えを聞いた。

■明日が楽しみになる何かがほんのちょっとでもあれば、今日を生きる理由になる

――発売おめでとうございます! 前作『さみしい夜にはペンを持て』は伝えたいメッセージに付随するようにストーリーが存在した印象がありましたが、本作『さみしい夜のページをめくれ』は純粋にストーリーを楽しめる小説になっていて、次の展開が気になって一気に読んでしまいました。

古賀史健さん(以下、古賀):ありがとうございます。ストーリーを重視したのは、当初から考えていたことでした。前作は「日記/文章を書こう」というメッセージが明確で、基本的には「何か書いてみたい」という人のためにつくった本。書いてみたい人に対して、書くことの効果や、書き方を伝えることがひとつの目的でした。

一方、本作のメッセージは「本って面白いよ」「本屋さんに行こうよ」というものなので、作者である僕の存在が見え隠れすると、校長先生の朝礼みたいな上からのお説教になってしまうのではないかという危惧があったんです。

――たしかに本をたくさん書いている著者から「本をたくさん読みましょう!」と言われても、鬱陶しいと感じる人も多いんじゃないかと思います。

古賀:そうならないためには、物語のなかでタコジローたちの体験として「本屋さんに行ったらめちゃくちゃすごい世界が広がっていた」とか、そこで生まれた彼らの感情を丁寧に書く必要があると思いました。メッセージはタコジローの肩ごしに見えるぐらいでいいかなって。それで今回はストーリーを重視した本になったんです。

――タコジローが本と出会うことによって、劇的に人生が好転したようなハッピーエンドが描かれないことも、説教臭くなくてリアリティがありました。

古賀:それだと怪しい健康食品のCMになってしまうので(笑)。前作も、タコジローが日記を書き始めたことで「今まで人生真っ暗だったけど、今はこんなにハッピーです」って結末にはなってないじゃないですか。書く前と後で何が変わったのかわからないけど、でも読み返すのがちょっと楽しみになった、という程度でしたよね。

僕自身もそうなんですが、「明日が楽しみになる何か」がほんのちょっとでもあれば、今日を生きる理由になると思うんです。前作も本作も、そのほんのちょっとした変化を書いたつもりです。

――タコジローにとっての「ちょっとした変化」は日記を書くことであり本を読むことでしたが、「明日が楽しみになる何か」は別のコンテンツでもいいと思われますか?

古賀:もちろんです。もし僕が小中学生の時に本作を読んだら、映画に置き換えて読んだりしたんじゃないかと思います。大切なのは、大人が本気になって作った、学校で語られていないものを自分で選ぶこと。それを選ぶ場所は映画館でも、CDショップでも、フェス会場でも何でもいいんじゃないかな

――あくまでひとつの選択肢として、本や本屋を挙げられた。

古賀:そうですね。映画や音楽、スポーツなどはそれぞれ専門のライターさんがたくさんいるので、その方々にお任せすればいいと思っていて。僕は僕にしかできないことというか、僕の持ち場についてお話しすべきだなと思って「本」を題材に選びました。

■詩人の言葉に「感じた何か」が正解

――本作は小説でありながら、たくさんの本が劇中で紹介されているブックガイドにもなっています。どのように作品をセレクトしたのでしょうか?

古賀:トータルで100冊近い作品を紹介していますが、そのためにたくさんの本をひたすら読み込みました。過去に読んだものもあれば、本作のために初めて読んだ作品もあります。作中の良いと思ったフレーズをExcelにまとめて「ここにこういう言葉が欲しいな」という箇所に、物語の都合に合わせてはめていったという感じです。

――全編を通して長田弘さんの詩の断片がカードとして登場し、作品全体を覆うメッセージのように読みました。どのようにこの扱い方を決めたのでしょうか?

古賀:詩はどうしても紹介したかったのですが、詩人の言葉は切り取ると台なしになってしまうので、引用が難しいんですよね。できれば全部を引用したいけど、全部を引用するには長すぎる。どうしたらいいかなと考えたときに、あのカードのやり方を思いつきました。

――詩人の言葉をどうしても紹介したかったのはなぜですか?

古賀:「本を読みましょう」と言われたとき、小説、エッセイ、ビジネス書や新書はみんな思い浮かぶんだけど、詩集って抜け落ちやすいんですよね。でも僕にとっての詩人って、「日本語の最前線で、日本語の可能性を切り拓いている人たち」なんです。そんな彼らの言葉にちゃんと触れておくのは絶対に必要なことだと思っています。

それに、詩人の言葉って知識で対峙するものではないので、小中学生が読んでも何か感じるものがあるはずなんです。詩においては、その「感じた何か」が正解なので、小中学生にはぜひたくさんの詩に触れてほしいと思っています。

■自分のために書かれたとしか思えない本

――本作のなかでドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が「難しい本」として登場します。本作を読んでドストエフスキーに手を伸ばす若い読者もいるんじゃないかと思いますが、このあたりの意図を教えてください。

古賀:ドストエフスキーやトルストイに代表されるロシア文学って、翻訳したときの言葉遣いがすごく面白い。面白いというか変なんです。その「変さ」を楽しんでほしいというか、書かれている内容が全部理解できなくても、初めてブルーチーズを食べたときのような「なんだか臭いけど、もしかしたらおいしいかも!」みたいな感触を味わってもらえるといいかなと思っています。

――本作のなかにこんなフレーズが登場します。「不意に運命の一冊と出会う。自分のために書かれたとしか思えない本に出会う。『この気持ちがわかるのは自分だけだ!』って感激するような本にね」古賀さん自身の実体験としてこのような本との出会いがあったのか、お聞きしたいです。

古賀:やっぱり1冊挙げるとドストエフスキーになってしまいますね。20歳ぐらいの頃に『罪と罰』を初めて読んだんですが、主人公・ラスコーリニコフは、自分が「天才か凡人か」って葛藤しているんです。まさに当時の僕は同じようなことで悩んでいて「俺にはなにか可能性があるんじゃないか。一発逆転できるんじゃねえか」と自分に対する変な期待があって。

そんな時に『罪と罰』と出会い、まさに「俺のことが書かれている!」と感じて、現実とフィクションの境目がなくなるような感覚を生まれて初めて味わったんです。

――その感覚は読んだときの瞬間風速的なものか、それとも何年も持ち続けていたのでしょうか。

古賀:結局、アドラー心理学に出会う29歳までその感覚を持ち続けていました。当時はすでにライターをやっていたのですが、「いつか俺にも芥川賞的な何かが訪れるのではないか」みたいな変な期待がずっとあって。小説なんか書いたこともないくせに(笑)。

――可能性だけはずっとあり続ける、みたいなことですか?

古賀:そうですね。アドラー心理学はその人の才能を問わずに「君に足りないのは才能ではなく、勇気なのだ」と、ガーンと言ってくれるんですよ。確かに、書かないのは賞に応募して落選するのが怖いからだし、結局俺には勇気がなかったんだなと気づかされたわけです。それまでずっと、ラスコーリニコフ的な悩みを抱えていました(笑)。

■さみしい二人が本を介して出会っている

――本作、前作ともに、タイトルに「さみしい」という単語が使われています。タイトルだけ見ると「さみしい」の対象は日記を書く人であり本の読者だと読めるのですが、本作のなかでこんなフレーズが登場します。

引用----

アンタと同じくらいのさみしさを抱えた作者が、だれかとつながろうとして書いたことばだ。だから本は、アンタが手に取ってくれるのを待っている。アンタとつながることを待っている。さみしいのはアンタだけじゃない。それは本も一緒なのさ。」

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作者もさみしい、という視点はすごく印象的でした。

古賀:「つながりたいのは読み手だけではなくて、書き手も同じなんだよ」というのは、本のなかでどうしても伝えたかったことでした。さみしいから読むというのはもちろんだけど、本の向こう側にはさみしいから書いた作者がいて、さみしい二人が本を介して出会っているんだ、という。そこは作者と読者、両方の気持ちがわかる立場として書いておきたかったんです。

――古賀さんはこれまでも『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』(ダイヤモンド社)、『20歳の自分に受けさせたい文章講義』(星海社)など、「書くこと」と向き合うための本を書かれてきました。その根底には、いま仰っていたような「書くこと/読むことを通して誰かとつながれる」という信念のようなものがあるのかなと思いました。

古賀:自分だけの、真剣に思っている「ほんとう」を言葉を発したら、受け止めてくれる人は必ずいると信じているんです。同じように思っていた人とか、その言葉を待ってくれている人が絶対にいる。それを信じているから、どんな面倒臭いことをしてでも自分にしか書けないことを書きたい。それで誰かとつながることができたとしたら、そんなにうれしいことはないじゃないですか。

■いつの時代にも通用する言葉だけで本を作りたい

――本作の登場人物でいうと、タコジローをいじめるトビオや、彼とつるむウツボリたちも、さみしさを強く持っているキャラクターだと思いました。集団で連帯してターゲットをいじめることで、さみしさを誤魔化しているような。

古賀:書き始めた当初は、ラストシーンでトビオたちも本を読んで…という展開も考えたのですが、それこそ都合が良すぎるなと思ったんですよね。みんなが本を読んでみんながハッピーになるって教育マンガみたいじゃないですか。かといって、彼らを懲らしめるというのもあまりしたくもないし、致し方ないラストだったかなと思っています。

――トビオやウツボリは前作以上に、明確に嫌な奴として書かれていますが、何か意図はあったのでしょうか?

古賀:前作のトビオは、集団でいじめるというよりひとりでタコジローをからかったり、彼がいじめっこグループのどこにポジショニングするかみたいなところで右往左往するキャラクターでしたよね。一方、本作でのトビオは、ずっとグループで行動しているんです。だから今回は特定の個人というよりも、人びとが「集団」になったとき、グロテスクな事態が起こる流れを書いたつもりです。

――前作にあった、クラスのグループLINEのようなツールでタコジローを集団攻撃するシーンは、現実世界のあれこれが思い浮かんで読んでいてつらかったです…。

古賀:グループになったときの悪意の暴走って、なかなか止められないんですよね。だからこそ、僕たちはひとりになる時間を持つことが大切だと思うんです。そんなひとりの時間を過ごすために、「本」ってツールを紹介できればいいなと思っていました。

――トビオたちが「本屋」に導かれるメッセージに気づかなかったように、現実世界でも、例えばSNS等で信じられないほど残虐な攻撃をするような、本当に誰かとつながることが必要な人ほど本を読まないような気がしますし、この作品のメッセージも届かないのではないかと思いました。古賀さんはどのようにお考えですか?

古賀:僕は、それこそが本の役目のような気がしていて。僕がXやnoteに何をたくさん書いたとしても、そういった人たちには絶対に届かないと思います。その一方で、本は物理的な形として残るじゃないですか。例えば、僕のところにはときどき、服役中の方からお手紙が届くんです。「こういう事件を起こして、いま刑務所に服役している。差し入れでもらったあなたの『嫌われる勇気』(岸見一郎、古賀史健/ダイヤモンド社)を読んでこんなふうに考えが変わった」と。

その方に『嫌われる勇気』が届いた最大の理由は、内容が良かったからではなく、単純に「本」だったからだと思うんです。SNSの言葉だったら絶対に届かないわけですから。だから、今現在、本を読まない人に僕の言葉が届くとは思わないけれども、なにかの拍子で5年先、10年先に届く可能性だけは残り続ける。みんなネットのほうが広がりやすいと思っているかもしれないけど、本のほうが5年後や10年後の希望がある。信じています。

――そう言われると『嫌われる勇気』もそうですが、『さみしい夜のページをめくれ』で書かれていることは普遍的というか、10年後でも私たちは同じようなことで悩み、苦しんでいるような気がします。

古賀:本を書く人間として、自分の寿命より長く残る本を作りたい、という気持ちは常に持っています。例えば、今回の本に生成AIの話題を入れたとしたら、とても今っぽい、時代を的確に捉えた本にはなる。けれど10年、20年後の読者が読んだときには、ものすごく古い話をしているように思えるはずなので、そういったことはしたくないんです。

いつの時代にも通用する悩み、いつの時代にも通用する言葉だけで本を作りたい。10年後、20年後の読者とつながれる本を作りたい。戦前に書かれた『君たちはどう生きるか』を僕たちが読んでも、胸に迫るなにかがあるわけじゃないですか。そんな本を作っていけたらなと考えています。

取材・文=金沢俊吾 撮影=中惠美子