
イノベーションとは、必ずしも壮大な目標や崇高な理念の下で生まれるものではなく、選ばれし一部の人間によって成し遂げられるものでもない。課題解決方法の改善と挑戦という身近な取り組みこそが、イノベーションの実現につながる。本稿では、世界的な経営大学院INSEADの元エグゼクティブ教育学部長であり、一橋大学で経営学を学んだ知日家としても知られるベン・M・ベンサウ氏の著書『血肉化するイノベーション――革新を実現する組織を創る』(ベン・M・ベンサウ著、軽部大、山田仁一郎訳/中央経済社)から内容の一部を抜粋・再編集。W.L.ゴア、サムスン、IBMなど世界的な大企業がどのように障害を乗り越え革新をもたらしたかについて、その実行プロセスからひもとく。
組織の創造性を引き出すために、ネットフリックスが最小限にしたもの、そして反対に最大化したものとは? イノベーションを生み出す組織の実像に迫る。
実践的に創造性を授ける
■階層、ルール、そして創造性――優れた革新実現エンジンを動かすための教訓
現場のイノベーションを担う人材のエンパワーメントに秀でた企業を見ると、いくつかの経営パターンが明確に見える。
特に、企業にとって重要なのは、革新実現エンジンを、可能な限り自由で柔軟な状態で動かすことである。その一方で、業務遂行エンジンを動かすには、日常業務を可能な限り効率的かつ一貫性をもって遂行するための伝統的な階層やルールが必要な場合もある。
これは必ずしも、革新実現エンジンを動かすのに、階層やルールをなくすべきだという意味ではない。しかし、現場のイノベーターが必要とする創造性を制限する傾向があるため、会社はそのような管理業務の増幅を、必要悪として最小限に抑えるよう努力することで、利益を得ることができる。
例えば、大企業として成功したネットフリックスの事例から学ぶこともできる。ネットフリックスは、ルールや階層を最小限に抑える努力を惜しまない。バルブのような極端なやり方ではないが、同規模の企業が成し遂げてきたことを、はるかに上回る。
ネットフリックスのシステムについては、創業者のリード・ヘイスティングスとINSEADのエリン・メイヤー教授が著書『No Rules Rules(邦題:NO RULES――世界――「自由」な会社、NETFLIX)』の中で語っている。ヘイスティングスは、以前の勤務先で、息苦しい階層や厳格なルールを嫌うようになったと語る。
そのため、彼がネットフリックスを設立し、映画配給会社として成功しようとした時、彼は企業の官僚的構造をできるだけシンプルで目立たないものにしようと誓った。
異例なものとしては、次のようなものがある。
同社は、従業員が取得できる休暇日数や、社員旅行に費やせる金額、新たな事業企画に投資できる金額さえも管理する規則がないことで有名だ。
ネットフリックスのカルチャー・デッキと呼ばれる、企業の経営理念をまとめた有名なスライド集では、「コントロールではなく、コンテクストで導け」「上司を喜ばせようとするな」といった格言に従って行動することを社員に奨励している。このように、革新実現エンジンを働かすのに注力するだけでなく、ネットフリックス全体が、規則や規制からできる限り自由な状態で管理されている点も重要な点である。
伝統的な経営に基づく企業からネットフリックスに転職した人達は、その自由度の高さにショックを受けることが多い。それに耐えられない人もいる。例えば、毎年何人かの新入社員が辞めていくが、その理由は、自分の選択を確認し、承認しなければならない上司がいない中で、自らがビジネス上の意思決定をすることに馴染めないからだ。
そして、ごくひと握りの者がシステムを悪用する。先の著書『No Rules Rules』では、ネットフリックスのある社員が、3年間で10万ドル以上のバケーションの支払いを手配していたことが発覚し、解雇を余儀なくされたエピソードが紹介されている。
創業者のヘイスティングスは、従業員に自主的な意思決定をさせるという原則には、自ずと限界があることを認めている。エンターテインメント以外の業界では、このようなモデルは通用しないかもしれない。彼は例えば医薬品の製造のような、エラーが安全性のような重要な事柄に影響を及ぼす可能性のある「大量生産かつ低エラー」ビジネスでは、伝統的な管理方法が必要かもしれないと見ている。
ネットフリックス自身も、財務報告や顧客データのプライバシーなど、「イノベーションよりもエラー防止が明らかに重要」な分野では、制限的なルールを実施している。言い換えれば、業務遂行エンジンの機能は、一般的にルールやプロセスから隔離された、絶対的な自由が望ましい場所で期待される機能ではない。
さらに、イノベーションの実現に関しても、ネットフリックスにルールやプロセスが全くないわけではない。例えば、イノベーションの基本原則の1つに、新しい自主的な企画を立ち上げる前に「反対意見を探す」ことを社員に義務づけるというものがある。
つまり、同僚からのフィードバック、特に排除すべき弱点を浮き彫りにする可能性のある反対意見を、積極的に求めるのである。このように、ネットフリックスの革新実現エンジンを動かすためのルールや手順は存在するが、それらは可能な限り最小限に抑えられている。
とはいえ、2019年時点で18億ドル以上の売上を誇る大企業には珍しく、ネットフリックスには、現場の従業員が革新実現に携わる自由を制限するような規則や階層的慣行がない。ネットフリックスは非常に成功しており、また非常に革新的でもあるという確かな証拠もある。
2002年の株式公開以来、株価は1株あたり1ドルから500ドル以上(2021年1月現在)まで上昇し、この持続的な成功は、多くの競合他社を動揺させるような劇的な技術的・市場的転換を果たすことで、相次ぐエンターテインメント業界の変化をうまく乗り切ることによって達成されている。
その結果として、多くの従業員はネットフリックスのシステムが提供するイノベーションの機会を好意的に見ている。2018年の調査では、技術者はネットフリックスを「働きたい会社No.1」と評価している。このように優秀な人材を惹きつけられることは、ネットフリックスにとって大きな競争優位性となる。
もちろん、先に見たバルブや他のソフトウェア開発企業と同様、ネットフリックスも尋常ではないほど、イノベーションを中心に据えていることに留意することが重要である。
同社の従業員の大半は、ネットフリックスの数百万人の加入者に配信するための新作映画やテレビ番組の開発など、純粋にクリエイティブな仕事にほとんどの時間を費やしている。これは他の業界の企業にはあまり当てはまらない。企業全体がイノベーションを実現することだけにほぼ集中しているため、個人の自由と創造性を最大限に引き出すような組織編成が可能なのだ。
このような理由から、多くのビジネスリーダーが、バルブやネットフリックスの経営構造を、自社の革新実現エンジンを効果的に動かすための潜在的なモデルとして見ることは理にかなっていると思う。しかし、それは必ずしも業務遂行エンジンのためのものではない。
多くの業界では、業務遂行エンジンは伝統的な階層構造を維持し、並行して革新実現エンジンで働く従業員には、より非構造的で自由なやり方で交流し、活動することを奨励する必要がある。
また、バルブが目指している「上司を完全に排除した経営」は、おそらくほとんどの企業にとって行き過ぎたものだとも言える。多くの企業にとって、これらの企業のストーリーから得られるイノベーションの教訓は、「革新実現エンジンを動かす上で階層をなくすこと」ではなく、「革新実現エンジンを動かす上で、階層を最小限に抑えることで、現場の従業員のイノベーション本能に力を与え、インセンティブを与えること」だろう。
バルブが採用したアプローチに比べれば、あまり野心的・革新的ではないが、企業の成長に即して革新実現エンジンを維持するのに役立つアプローチであるはずだ。
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