
(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)
現役時代の人気と実力
一人のスポーツ選手の記事でほとんどのページが埋め尽くされている──生まれてこの方、私はこのような新聞を見たことがありませんでした。
2025年6月4日、この日のスポーツ紙は全紙が前日に逝去した長嶋茂雄さんの写真を1面に大きく掲載し、その死を伝えました。
『スポーツ報知』『日刊スポーツ』『スポーツニッポン』『デイリースポーツ』は各紙足並み揃えて、ホームランを打った瞬間のその雄姿をとらえた写真、ではなく、ヘルメットを飛ばしながら空振りしている写真を掲載、ヒロイックではない、こうした一見カッコ悪そうな写真にこそ、日本中のファンや記者から慕われた長嶋さんの魅力がしみ込んでいるような気がします。
巨人軍の親会社でもある読売新聞は一般紙にもかかわらず、この日、全26ページのうち10ページを長嶋さん関連の記事を掲載、読売系のスポーツ紙『スポーツ報知』に至っては全32ページのうち、長嶋さん関連記事が掲載されていないページはわずか7ページ(競馬競輪等のレース欄、広告ページを含んでわずか7ページ)しかなく、全体の約8割に当たる25ページが長嶋さんの写真で埋め尽くされていました。
昭和天皇崩御の際の記事をはるかにしのぐ、この圧倒的な量の写真と関連記事こそ、長嶋さんが戦後最大の国民的ヒーローであり、いわゆる唯一無二の存在だったことを裏付けています。
1950年代(昭和25~34年)、野球人気が絶頂だったのは六大学野球の人気に負うところが大きかったのですが、そこにも長嶋さんの存在がありました。野球に対する世間の人気が大学野球からプロ野球に移行していった大きな理由に、立教大学を卒業した長嶋さんがプロ野球に入団した経緯があり、これこそ「野球人気=長嶋人気」だったことの証といえるでしょう。
私の手元に昭和36年(1961)3月に発売された月刊漫画雑誌『少年画報』4月号の付録「野球ブック」があります。すでに紙は変色していますが、読むのに支障はなく、今から64年前のセ・パ両リーグ選手名鑑としての機能を果たしています。
プロ入り4年目となる長嶋さんの項目では、2年連続して首位打者を獲得した前年の打撃成績「3割3分4厘」が記されたあと、「日本プロ野球を代表する第一人者。去年は後半故障して、おしまれた。毎年三冠王をとるのではないかと、期待されるのはさすが」と書かれています。この短い論評だけでも当時の長嶋さんの人気と実力のほどがわかります。
昭和の少年たちが夢中で読んだプロ野球漫画
長嶋さんの影響というか、いわゆる一つの大きな功績として、少年向け漫画雑誌にプロ野球を舞台にした野球漫画が登場するようになったことがあります。
漫画の主人公はほとんどの場合、巨人に入団するというのがお決まりで、そこには主人公をやさしく見守る存在として必ず長嶋さんが登場、子供たちは漫画の中の長嶋さんの似顔絵にも好感を持って接していたものでした。
私が小学2年生に進級する直前の昭和34年3月に『少年サンデー』が創刊されますが、表紙はユニフォーム姿の長嶋さんとひそひそと長嶋さんに話しかけるモデルの少年でした。すでに前年の活躍でプロ2年目にして長嶋さんはプロ野球を代表する顔、少年たちの「憧れのヒーロー」となっていました。
そのとき、創刊号から連載されていたのが『スポーツマン金太郎』(作・寺田ヒロオ=手塚治虫が住んでいたトキワ荘の寮長みたいな存在)というプロ野球の世界を舞台にした野球漫画です。
言葉を話す熊とともに「おとぎ村」からやってきた小さな子供が巨人に入団し打って投げて大活躍する物語で、長嶋さんをはじめ当時の水原監督、川上コーチなどが登場、似顔絵もそれらしく描かれていて私のお気に入りでした。
その後、いわゆる野球漫画が全盛になっていくのも、長嶋さんの活躍とシンクロしています。1960年代に人気を誇った野球漫画『ちかいの魔球』『黒い秘密兵器』『ミラクルA』『巨人の星』等、主人公は皆、読売巨人軍に入団して活躍する物語になっていますが、これもすべて長嶋さんの人気から派生した作品たちといっても過言ではないでしょう。
そのほか、「ナガシマくん」といういわゆる一つのユーモア漫画(1959年、雑誌『少年』に連載)もあって、作者のわちさんぺいが描く長嶋さんと同姓同名のドジな小学生・ナガシマくんは、誰からも好かれる好人物に描かれていました。
忘れてはいけないのが、長嶋さんの人気は歌謡界にも影響を及ぼしていたことです。前述の「ナガシマくん」と同時期、1959年1月、長嶋さんと親交のあった1学年上の石原裕次郎が『男の友情 背番号・3』をレコーディング、初期の裕ちゃんの歌をほとんど手掛けている大高ひさをが作詞し、歌詞には「男、長嶋」とか「シゲ」といった名前が挿入されています。今でも喜寿以上の高齢男性がカラオケで歌うのを聞いたことがあるかもしれません。
入団2年目にして漫画に登場したり、いわゆる歌謡曲となって芸能界の大スターに歌われてしまうところからも長嶋さんの幅広い人気が窺われます。
小学生時代と編集者生活を通して一番うれしかった日
私(堀井)は昭和33年4月に小学校へ入学しましたが、これは長嶋さんの巨人軍入団と重なっていて、その後の6年間、小学生ながら長嶋さんの全盛時代を知るという幸運に恵まれました。
私を含め、同級生の男友達は誰もが長嶋さんに憧れるいわゆる野球少年で、若干の友達を除き誰もがサードの守備を希望、ユニフォームは着られなくても、「3」のバッジをYGマークの帽子につけ、長嶋さんになったつもりで少しでも長嶋さんに近づこうとプレーしていました。人気選手はほかにも若干いましたが、長嶋さんだけは別格だったのです。
低学年だったそんなある日、我が家に遊びに来た同級生が、長嶋さんの誕生日が2月20日であることを教えてくれました。
まあ、そのときの驚きというかうれしさは今でも忘れることができません。何しろ私の誕生日と同じだったのですから。365分の1の確率とはいえ、大ファンだっただけに長嶋さんへの私の想いはいっそう膨らんでいきました。
やがてスポーツ紙を購読するようになってから、毎年楽しみにしていたことがありました。2月20日の翌日のスポーツ紙に必ず掲載される、誕生祝いのケーキを前にした長嶋さんの笑顔の写真です。誕生日の翌朝、それを見て一人悦に入る自分がいました(笑)。
そして、今から40年以上前になるでしょうか、『月刊カドカワ』という文芸誌が角川書店から創刊されることになり、当時、非正規雇用の新米編集者だった私は、なんと創刊号の目玉だった「特別対談 プレイボールは華やかに 長嶋茂雄VS有吉佐和子」の対談現場に足を運ぶことになったのです。
長嶋さんを間近に見たのは子供の頃の巨人軍多摩川練習場と後楽園球場巨人戦観戦以来のことでしたが、なぜかそのときの映像記憶や話の記憶があまり残っていません。憧れのヒーローを目の前にして、新米編集者は極度に緊張していたのかもしれません。
「ヒトツ時代を振り返ってみますとですね、わたしにとっては、やはり、選手の時代が、いわゆる、ハッピーだったですね」という長嶋さんらしい表現によるコメントが創刊号の目次に掲載されています。
まだ非正規雇用者の待遇が正社員に比べて格段に悪いというブラックな時代でしたが、お金で買えない思い出を頂戴した気分で、編集者になってよかったなあ、という想いを強くしたものです。これも長嶋さんのおかげですね。
さらば、ミスター・プロ野球!
2024年の年末にNHKテレビで『みんなあなたが好きだった プレーバック 長嶋茂雄の世紀』という長嶋さん関連の番組が放送されました。
「引退してから50年。終戦で日本が焼け野原から復興を果たし、国民が未来に向かって生きていたとき、躍動感あふれるプレーに多くの日本人が励まされ、野球選手を超えたヒーロー」というようなコピーが付けられていて、現役時代の画像を交えながら有名・無名を問わず、長嶋さんと接したことのある人たちへのインタビューをまとめた好番組でした。
「みんなあなたが好きだった」というタイトルは、まさに長嶋さんのことをひとことで表わすにふさわしい言葉だと思います。
時の総理大臣の名前は知らなくても、昭和生まれの人で「長嶋」という名前を知らない日本人はいなかったことでしょう。知っているだけでなく、誰からも愛されたという証拠は、いわゆるアンチ・ジャイアンツの野球ファンは「巨人が負けて長嶋が活躍する試合」を願っていた、という事実が物語っています。
若干の日本国民を除き、いやいや若干どころか、いわゆる日本中の誰もが長嶋さんの笑顔をいとおしく思っていたのです。
プロ野球選手、いや日本人を代表する「華」、それは長嶋さんの笑顔でした。赤の他人にもかかわらず「燃える男」の炎のようなプレーがまぶしかった、長嶋さん。さようなら、背番号3!
今回、この原稿を書くにあたり愛する長嶋さんへさらに心を寄せたいという自分の気持ちを表わすため、敬意をこめて「いわゆる」「若干」という長嶋さんの好んだ表現を多用させていただきました。ありがとう、長嶋さん。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)
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