
(鷹橋忍:ライター)
大河ドラマ『べらぼう』第21回「蝦夷桜上野屁音」では、えなりかずきが演じる松前道廣が、不気味なまでの存在感を示した。そこで今回は、松前藩と松前道廣を取り上げたい。
松前藩とは
松前藩は、本拠を松前(渡島半島南西部)とし、蝦夷地(北海道)を領有した外様小藩である。
松前藩は、蝦夷地でアイヌとの戦いを制したと伝わる武田信広(のぶひろ)を始祖と仰ぎ、彼の子孫である蠣崎慶廣(かきざきよしひろ)を藩祖とする。
文禄2年(1593)、蠣崎慶廣は豊臣秀吉から、「蝦夷地に来る者は、慶廣に無断での自由な往来を許さない。慶廣の命令に従わず、夷人の理不尽な行ないをしてはならない」という意の朱印状を与えられ、これをもって蝦夷地の領主と認められた(松前町町史編集室『概説 松前の歴史』)。
慶長4年(1599)には、姓を「松前」と姓を改めている。
松前の名は「松平氏の松と、前田氏の前」をとったともいわれるが、本拠の地名「松前」だと考えられている(新藤透『北海道戦国史と松前氏』)。
慶長5年(1600)、松前に居所「福山館」の営築に着手し、慶長11年(1606)に完成をみた。
慶長9年(1604)、前年に征夷大将軍に任じられた徳川家康から、蝦夷地の領知権と懲役権、交易の独占権のみを認める(アイヌ人に対する支配権は認めていない)黒印状が発給される(松前町町史編集室『概説 松前の歴史』)。
ここに徳川幕府と松前家の主従関係が成立し、松前藩が誕生した(以上、濱口裕介・横島公司『シリーズ藩物語 松前藩』)。
以来、松前氏は、慶廣、盛廣(内々家督相続)、公廣、氏廣、高廣、矩廣、邦廣、資廣、道廣、章廣、良廣、昌廣、崇廣、徳廣、修廣と在封している(児玉幸多・北島正元・榎森進監修『新編物語藩史 第1巻』)。
松前藩の実態は、他の藩と大きく違っていた。
異例ずくめの松前藩
松前藩と他の藩との最も大きな違いは、「石高」がないことである。
松前藩の領地である蝦夷地は、米が収穫できないからだ。
ゆえに、松前藩は「無高(むだか)大名」と称された。
対馬を所領とする宗氏も無高大名である。
一万石以上の領地をもつ武家を大名と呼ぶが、後に松前藩は便宜的に「一万石格の大名」とされる(新藤透『北海道戦国史と松前氏』)。
松前藩の財政を支えていたのは、米ではなく、アイヌ人との交易だった。
松前藩では、蝦夷産物、木材、砂金(産出は江戸前期)、鷹などを商品とする交易収入、のち、交易を商人に請け負わせ、その運用金・雑税を財源としていたという(児玉幸多・北島正元・榎森進監修『新編物語藩史 第1巻』)。
松前藩は家格も異例である。
江戸時代の初期には「賓客(ひんきゃく)」待遇という、特殊な扱いだった。松前藩以外には、石高は五千石だが、名家のため十万石の格式を与えられた喜連川藩ぐらいしかないという(濱口裕介・横島公司『シリーズ藩物語 松前藩』)。
参勤交代もまた異例だった。
多くの大名は毎年の参勤が義務付けられていたが、松前藩の江戸参府は3年に一度(のちに5年に一度)で、さらに期間も、4~5ヶ月でよいという、特例が認められていた。これは前述の対馬藩宗氏も同じ扱いだった。
ドラマに登場した松前道廣は、この松前藩の8代藩主である。
8代藩主・松前道廣
松前道廣は宝暦4年(1754)に、7代藩主・松前資廣(すけひろ)の長男として、福山館で生まれた。
寛延3年(1750)生まれの蔦重より、4歳年下となる。
母は中納言・八條隆英の娘であるが、道廣の出産後10日で、亡くなっている。
明和2年(1765)3月、父・松前資廣が40歳で没したため、同年10月12日、僅か12歳で家督を相続し、第八代藩主の座に就いた。
同年10月15日、眞島秀和が演じる10代将軍・徳川家治に謁見し、12月に従五以下に叙され、志摩守に任じられている。
明和8年(1771)10月、花山院常雅の娘・敬姫(安永2年2月に「初」、同年5月に「知子」と改名)を正室に迎えた。公家の娘を妻としたのは、歴代藩主の中で5人目である。
正室は安永5年(1776)4月に男子を死産し、自身も同年5月に息を引き取った。
子は側室の支毛が、一男三女を産んでいる(以上、松前町史編集室編『松前町史 通説 第1巻下』)。
12歳で藩主に
松前道廣は幼い頃より英明で、兵学、武術はもちろんのこと、書画や茶、音曲など諸芸に長けていた。
特に、馬術は「右に出る者なし」と称されるほどの名手だったという。
社交性が豊かで、生田斗真が演じる一橋治済から、伊達、島津などの有力な諸大名まで積極的に交際し、幅広い人脈を誇った。
一方で、両親を早くに失い、よき師にも恵まれなかったせいか、性格は放埒でプライドが高く、色を好み、浪費家であった。
参勤の際に吉原の女郎を落籍し、2回ほど松前に伴ったという。
12歳で藩主となった頃は家老が中心となって藩政を運営し、長じてからも、藩政は重臣に任せて、自由奔放な生活を送ったとされる(松前町史編集室編『松前町史 通説 第1巻下』)。
幕政は困窮し、朝廷と幕府間の紛争である「尊号一件」を仲立ちしようとしたらしいことも問題視され、幕府は病気を理由に、隠居願いを出させたという。
こうして、寛政4年(1792)、道廣は藩主の座を嫡子の松前章廣に譲り、隠居した。
だが、道廣は隠居後も実権を握り続け、勝手な振る舞いを続ける。
寛政8年(1796)8月、イギリスの探検船・プロヴィデンス号が来航した。
その知らせを受けると、「北門の守護神」を自任する道廣は、家臣たちが止めるのも聞かず、自ら甲冑を纏い、280人もの兵を率いて、松前から出陣する。
ところが、途中でイギリス船退去の報が舞込み、僅か数日で引き返すこととなった。
幕府から、ロシアと内通しているとの疑念もかけられ、同年、道廣は江戸藩邸詰を命じられる。
文化4年(1807)3月には重禁固となり、道廣は79歳で没するまで、土蔵で過ごしたという(松前町町史編集室『概説 松前の歴史』)。
ドラマの松前道廣は、これからどのように描かれるのだろうか。
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