
かつて「勝ち組」と称された人も、人生の後半で思いがけない壁に直面することがあります。社会的な成功や十分な資産があっても、それだけでは乗り越えられない現実がありました。
「まさか、あの人が…」エリート街道を歩んだ男の転落
都内の閑静な住宅街に居を構える、佐藤健一さん(67歳・仮名)。誰もが知る大手企業に新卒で入社し、海外赴任も経験。順調にキャリアを重ね、50代で本部長にまで上り詰めた、絵に描いたようなエリートサラリーマンでした。
定年退職時には3,600万円というまとまった退職金を受け取り、完全に仕事を辞めた65歳からは、月22万円ほどの年金を受け取っています。住宅ローンはとうに完済し、息子と娘も独立。現在は妻と二人、趣味のゴルフや海外旅行を楽しみながら、悠々自適のセカンドライフを送っていました。周囲の誰もが、佐藤さんを「人生の勝ち組」とみていました。
しかし、退職から2年が過ぎた頃から、健一さんに少しずつ変化が現れ始めます。
「今日の夕飯、何だったかな」
「また同じことを聞くの?お刺身だったじゃない」
食卓でのそんな会話が、日に日に増えていきました。最初は「年のせいだろう」と笑っていた妻の良子さん(65歳・仮名)も、次第に不安を覚えるようになります。約束の時間を忘れたり、テレビのリモコンを冷蔵庫に入れてしまったり。かつて、何百人もの部下をまとめ、いくつものプロジェクトを成功に導いてきた夫の姿とは、あまりにもかけ離れていました。
エリート意識の高さが、かえって自身の変化を認める障壁になったのかもしれません。良子さんが心配して「一度、病院で診てもらわない?」と促しても、健一さんは「馬鹿にするな。俺は正常だ」と声を荒らげるばかり。趣味だったゴルフにも「面倒だ」と行かなくなり、一日中、目的もなく家の中をうろうろすることが多くなりました。
エリートのプライドが崩壊した日
事件は近所のコンビニで起こりました。夕食の材料を買いに来た健一さんは、レジで小銭をうまく取り出せず、手間取っていました。後ろに行列ができ始め、焦りを感じたアルバイトの若い店員が「お客様、大丈夫ですか?」と声をかけた、その瞬間でした。
「なんだその態度は! 俺を誰だと思っているんだ!」
健一さんは突然、大声で怒鳴りつけ、あろうことか店員の胸ぐらに掴みかかったのです。あまりの剣幕に、他の客も店員も凍り付きます。すぐに別の店員が割って入り、警察沙汰になることだけは避けることができました。
「なぜ、あんなことをしてしまったのだろう――」
健一さん、やってしまったことは理解できても、なぜ、自身があのような行動に出たのか、まったく理解できず。これまで築き上げてきたプライドも、この一件で粉々に打ち砕かれました。
なぜ、温厚だったはずの夫が、見ず知らずの店員に暴力を振るうような人間になってしまったのか。良子さんも絶望的な気持ちで、半ば強引に健一さんを専門外来へ連れて行きました。下された診断は、「アルツハイマー型認知症」。輝かしい経歴も、社会的地位も、築き上げてきた資産も、病の前では何の意味もなしませんでした。
2022年時点、65歳以上の認知症患者は443万人。さらに認知症の前段階といわれる「軽度認知障害(MCI)」は559万人で、双方合わせて高齢者の27.8%を占めています。また認知症のうち、67.6%が健一さんと同様「アルツハイマー型認知症」。19.5%が「血管性認知症」、4.3%が「レビー小体型認知症」と続きます。
認知症の初期症状として、もの忘れがひどくなったり、判断・理解力が衰えたり、時間や場所が分からなくなったり――また健一さんのように、些細なことで怒りっぽくなるなど、人柄が変わることも珍しくありません。自身も「おかしい」と思いながらも、そのような変化を受け入れることができず、苦しい思いをすることも。
健一さんはこれまで仕事一筋で高いプライドを持ってきました。だからこそ、自身の変化を受け入れることができなかった、そんな一面もあったかもしれません。診断を受けてから、健一さん夫婦の生活は一変しました。良子さんは介護サービスや地域の支援センターについて情報を集め、夫を支える日々を送っています。健一さんも、病気と向き合い、少しずつ穏やかさを取り戻しつつあるといいます。
「勝ち組」と呼ばれた元部長が「迷惑老人」と化してしまった悲劇。それは、誰にでも起こりうること。もし、身近な人の「あれ?」という変化に気づいたら、それは病気のサインかもしれません。早期に気づき、適切な支援につなげることが、本人と家族の未来を守るための第一歩となります。
[参考資料]

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