
部下の女性検事に性暴力を加えたとして、大阪地検トップの検事正だった北川健太郎氏が準強制性交の疑いで逮捕されてから、この6月で1年が経つ。
北川氏は初公判で起訴内容を認めたが、その後、無罪主張に転じており、刑事責任の有無は今後の裁判で明らかにされる。
異様なのは、検察庁が社会的な説明を一切果たさないばかりか、被害者に公での発言をさせないよう警告するなど「二次加害」的な対応を続けていることだ。
法の番人であるはずの組織で一体何が起きているのか。
検事として34年間勤め、今年3月に大阪高検を最後に退職した田中嘉寿子(かずこ)さんに検察組織の問題についてインタビューした。(弁護士ドットコムニュース・一宮俊介)
●北川氏の逮捕報道にびっくりした──北川氏が逮捕されたことをどう知りましたか?
田中さん:私は2022年9月から2024年9月まで国際刑事裁判所の検事局に派遣され、オランダのハーグに住んでいました。日本のニュースをいつもチェックしていたので、2024年6月に北川氏逮捕のニュースを見て本当にびっくりしました。
私にとっては、北川氏は恩師であり、私自身が2008年以後、長く北川氏の部下として働いていた間、セクハラは一切なく、噂を聞いたこともなかったので、ありえないと信じていたからです。
ただ、北川氏が大阪高検検事長のポストが確実視されていたにもかかわらず、大阪地検検事正で辞職したとき、すごく唐突で不思議に思っていました。
●すぐに広まった事実無根の噂、「真っ赤な嘘」と確信──北川氏が逮捕されてから被害者に関する情報を聞いたそうですね。
田中さん:北川氏の逮捕から10日ほど経った頃、東京にいる知り合いの検察官に事件についてメールで尋ねたところ、「真偽の程は定かではありませんが、伝え聞くところによると、元々は被害者の方が、北川さんのことを物凄く慕っていて、ラブラブと言い、飲み会のセッティングを積極的にしてもらった経緯があるようです。ですので、北川さんを知る人たちは困惑している感じです」という返信がありました。
これが私が直接聞いた被害者に関する最初の噂です。報道では「部下の女性」としか書かれておらず、検察官なのか事務官なのかもわかりませんでした。
もし噂通りなら不起訴になる可能性もあると思いましたが、その後、起訴されたので、何が真実なのか分からないと感じました。
──事件に対する印象が変わったきっかけは何ですか?
田中さん:2024年9月に帰国し、10月から大阪高検での仕事が始まりました。親しい人たちに帰国のあいさつメールを送ると、親しい後輩の(被害者の)Aさんから「お会いしたい」と返信があり、10月の初めごろに私の部屋に来てくれました。
そのときの彼女は憔悴(しょうすい)しきっていて、「大病でもしたの?」と思うほどでした。「何があったの?」と聞くと、開口一番、彼女が「北川事件の被害者は私なんです」と。ものすごくびっくりして、あの噂は真っ赤な嘘だなとその瞬間にわかりました。
●Aさんに「虚偽供述をする動機がまったくない」──なぜ、噂が嘘だと確信できたのでしょうか?
田中さん:彼女は北川氏を上司として尊敬し、慕っていたとは思いますが、「ラブラブ」ということはありえません。彼女には子どもがいて、旦那さんと仲が良いということも聞いていました。
彼女は私の部屋で、これまでの記者会見で話した内容と同じような話をしました。私はなるべく公平な立場で、彼女の話が本当に正確で真実であるかどうかを注意しながら聞きました。
一般的に裁判で被害者の供述の信用性が高いと評価されるのは、自然で合理的で、記憶の濃淡に従い、真摯に一貫性を持って話している場合です。
彼女の話はそれに加えて、体験した者でなければ語れないような「体験性兆候」がいくつもありました。
たとえば彼女の話には、事件の本筋とはまったく関係のないささいなことや、相手の言動に対する自然なリアクション、そして「秘密の暴露」がありました。
これだけ「体験性兆候」にあふれた供述に、疑問を差しはさむ余地はほとんどありませんでした。
そして何より、彼女には虚偽供述をする動機がまったくないのです。北川氏を告発して良いことなど一つもなく、キャリアが潰れるに等しく、マイナスしかありません。
特に北川氏は、いずれ検察のトップ4に入る大阪高検の検事長(高検のトップ)になることが確実視されていた人物です。その人に逆らって良いことは何もありません。
北川氏は酔いやすい方でしたので、飲み会の後で女性をレイプできる状態にはないのが普通でした。
ですから、私はAさんの話を聞くまでは、北川氏が飲み会の後でレイプなんかできるはずがないと思っていたのですが、Aさんの話を聞いて、逆に、飲み会でAさんが泥酔したのを見てレイプの犯意を生じて飲むのを控えたからレイプできたのだろうと思っています。
これは、酔余(すいよ)の衝動的犯行ではありえません。
●北川氏は「私にとってベストな上司」だった──田中さんから見て、北川氏はどのような人物だったのでしょうか?
田中さん:私が2008年から2010年まで神戸地検刑事部にいたとき、約1年半の間、北川氏が刑事部長でした。当時、北川氏は私に性犯罪や児童虐待事件をたくさん担当させてくれました。
私はその経験をベースにして、のちに『性犯罪・児童虐待捜査ハンドブック』という本を書いたのですが、それも北川氏からの教えの集大成であり、出版の際にも彼に相談しました。
北川氏は頭が良く、難しい事件でもどうすれば起訴できるか、どういう場合は不起訴にせざるを得ないかを的確に指導してくれました。当時の北川氏は、私にとってベストな上司でした。
それに、北川氏は被害者支援にも熱心でした。大阪地検の次席検事だったときには、被害者支援委員会を独自に立ち上げ、弁護士会と連携して早期から被害者が弁護士のサポートを受けられるような体制づくりを進めました。
その中心にいた北川氏が、まさか被害者の気持ちを踏みにじるようなことをするとは夢にも思っていませんでした。
●北川氏に有利なうわさが広まった背景──検察庁内でAさんを貶めるような誹謗中傷や事実無根の噂が広まったのはなぜだと思いますか?
田中さん:Aさんが調査を受けた比較的早い段階から、検察庁内では彼女が被害者だということがかなり噂になっていたようです。
そして、海外にいた私のところまで「被害者の方が北川氏にラブラブだった」というまったく逆の噂が届きました。
この2つの情報があれば、「Aさんが元々北川氏に好意を持っていて、飲み会を積極的にセッティングし、泥酔に乗じて北川氏と性交渉に及び、何かでこじれたから恨んでいる」というストーリーを作り上げ、北川氏に同情的な空気を醸成することは簡単です。
なので、彼女の人となりを知る人間以外は北川氏に同情的な状況になってしまったのだと思います。
そして、不起訴となりましたが、噂を広めたとされる副検事の女性の存在も大きいと思います。彼女は検察事務官時代、北川氏の秘書を長くつとめ、非常に親しい関係でした。
先日、検察OBの先輩と会った際、先輩からAさんに対する虚偽の悪口を聞きました。その先輩は北川氏と仲が良かったので、Aさんに関する嘘の噂を信じていました。
北川氏は検察内部で絶大な影響力を持っていました。歴代の検事総長や大阪高検検事長とも知り合いで、最高検察庁の監察指導部長も務めており、東京にいる検察庁の幹部とも関係があると思われます。
そうしたつながりが北川氏に有利な情報が広まりやすい状況を生んだ可能性は否定できません。
●検察による冷酷な“二次加害”、調査も行わず──今回の事件の被害者に対する検察庁の対応について、どのように見ていますか?
田中さん:もし警察が捜査する通常の性犯罪事件であれば、被害者支援員が付き、送迎や付き添い、捜査状況の説明など、さまざまなサポートがあります。
しかし、Aさんに対して検察庁がそうした対応をしていないことに疑問を持っています。
Aさんが記者会見を開くという手段を選ばざるを得なかったのは、検察庁が何のサポートもせずに彼女を追いつめていたからだと思います。
どうしてこのような対応になるのかを考えると、検察庁がAさんを「職員」としてしか見ておらず、「被害者」として扱っていないからだと思います。
「検察庁の職員なのだから守秘義務を守れ、記者会見などするな」というスタンスなのでしょう。
上司の指示を無視して記者会見をするような職員は失格であり、保護したりケアしたりする必要はないと考えているようにしか見えません。
さらに問題なのは、北川氏がAさん以外にも複数の部下等の女性と性交渉を持ったことを認めているにも関わらず、検察庁がそれについて一切調査をしていないことです。
「同意があったからいいだろう」という問題ではありません。
検事正は、セクハラ・パワハラ防止の指導監督をする立場にあるにもかかわらず、検事正という立場を利用して部下職員や関係者と性的関係を持つこと自体が、セクハラであり、厳正な懲戒処分を受けるべき非違行為であり、絶対にあってはならないことです。
なぜ調査しないのかと思います。
●「Aさんを被害者として扱っていない自覚が検察にない」──検察庁の幹部職員がAさん側に脅しとも取れる警告メールを送ったことも明らかになっています。
田中さん:あのメールを送ったとされる部長は、おそらく悪気はないのだと思います。
彼にとっては検察の常識、組織の論理がすべてであり、なぜAさんが記者会見をするのか理解できないのでしょう。自分たちがAさんを被害者として扱っていないという自覚がないと思います。
もし、交通事故死事件のご遺族が、検察の処分に不服があると記者会見した場合、検察官が、それを止めたり、非難したり、検察の処分に文句を言うなと言ったりしませんよね。
でも、Aさんには言う。それは、Aさんを被害者ではなく、指導監督すべき部下職員としてしか見ていないからです。
●性犯罪捜査を熟知した北川氏の弁解──報道によると、北川氏は「Aさんが抵抗できなかったという認識はなく、同意があったと思っていた」という趣旨で無罪を主張しているといいます。
田中さん:「同意があった」という弁解は、性犯罪事件で無罪になりやすい、最大の弁解方法です。性交渉があったという事実を否定できないときに、被告人が最後に出してくるのがこの「同意誤信」弁解で、これを崩すのは非常に難しいです。
北川氏は、私の著書『性犯罪・児童虐待捜査ハンドブック』の内容も熟知しているはずです。なぜなら、その本は、彼が神戸地検の刑事部長だったときの指導や決裁をベースに書かれているからです。
ちなみに、被害者の方が事件前から被疑者に好意を持っていた場合、不起訴になりやすい事情であるということも本に書いており、北川氏の決裁を得た不起訴事件を参考にしています。
性犯罪事件でどうすれば無罪になるかを知り尽くしている人間が今、本気で闘おうとしているのです。
●このままでは「優秀な人材」が検察庁から離れていく──検察庁は今回の事件にどう向き合うべきだと思いますか?
田中さん:今の検察庁には、「地位を利用した性犯罪が容易に起こる職場の環境に問題がある」という反省がありません。
その問題に対する自覚を持って取り組まなければ、同様の事件は根絶できません。
検察庁は第三者委員会の設置など、外部の人間を入れることを極端に嫌う組織です。それなら自ら内部で自浄作用を発揮して、徹底的な調査をしたと社会に示す必要があります。
何もしないというのはありえません。このままでは、優秀な人材が検察庁に就職しようとせず、離職が進み、組織全体が弱体化していくと思います。

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