仕事を辞めるか、それとも続けるかは人それぞれですが、多くの人が迎える60歳の定年。それは人生の大きな節目。退職金で大金を受け取る人も多いでしょう。夫婦のこれからのことに思いを巡らせて……そんななか、これまでの“秘密”を知ることもあるようです。

2,700万円の退職金、順風満帆だったはずのセカンドライフ

高橋健一さん(仮名・60歳)は、カレンダーの日付を指でなぞり、静かに息を吐きました。今日この日をもって、38年間勤め上げた大手機械メーカーで定年を迎えます。直近の月収は64万円。自分でもよく頑張り抜いたものだと、深い感慨に浸っていました。以降は、再雇用で契約社員として勤務する予定。フルタイムではあるものの、責任のない、お気楽なポジション。ほぼ毎日、定時の17時45分には会社を出ることができる、というのは、先に再雇用で働いている同期の話。仕事人間だった健一さんによって、ある意味信じられない日常が始まろうとしています。

とはいえ、サラリーマンとしてきちんと区切りをつけることができたのは幸せなことです。その日の夜、妻の良子さん(仮名・58歳)が腕を振るった豪華な夕食を囲み、ささやかな祝宴が開かれました。「あなた、本当にお疲れ様でした」。そう言って微笑む良子さんの顔には、安堵と喜びが浮かんでいます。健一さんにとって、その笑顔は何よりの褒美でした。食事が一段落した頃、ふたりで今後のことについて話し合います

「これでようやく、肩の荷が下りたよ。旅行にも行けるし、家のリフォームも考えられるな」

「ええ、本当に。これからの人生も楽しみね」

仕事を優先しながらも、家庭を大事にしてきた健一さん。忙しいなかでも、学校の行事には必ず参加したり、受験の際には子どもたちの勉強に力を貸したりと、できる範囲で良い夫、良い父でいようと心掛けてきたといいます。だからこそ、時間的余裕が生まれるこれからは、夫婦水入らず、少し贅沢をしても――そんな思いもありました。

1~2ヵ月後には、定年退職金2,700万円ほどが振り込まれるはず。しっぽりと温泉でも、新婚旅行以来の海外旅行でもいいな――健一さん、色々と思いを巡らせていました。

厚生労働省令和5年就労条件総合調査』によると、大学・大学院卒(管理・事務・技術職)の定年退職者への平均退職給付額は1,896万円。勤務年数が35年を超えると平均2,037万円。さらに従業員1,000人以上の大企業の場合、平均2,242万円、月収換算40.8ヵ月分となります。定年前の月収が64万円だった健一さん。平均以上の退職金を受け取れる予定でした。

妻の告白…笑顔の裏で20年間続いていた「秘密の送金」

それは、翌朝のこと。健一さんはコーヒーを片手に、退職金をもとにした今後のライフプランについて考えを巡らせていました。資産運用はどうするか、年金の受け取り開始時期はいつにするか。そんなことを考えていると、背後から良子さんがおずおずと声をかけてきました。

「あなた、少し、話があるの」

いつもの快活な様子とは違う、硬い声色でした。健一さんが振り返ると、そこには不安と申し訳なさをない交ぜにしたような表情で、俯きがちに立つ妻の姿がありました。その姿に、健一さんは得もいわれぬ胸騒ぎを覚えました。

「実は……あなたにずっと言えなかったことがあるの」

良子さんは、震える声でそう切り出しました。そして、ダイニングテーブルの椅子に力なく座り込むと、驚くべき事実を告白し始めたのです。それは、良子さんが20年近くもの間、健一さんに内緒で、自分の実家へ仕送りを続けていたという話でした。

「最初は、お父さんが病気をしたときの入院費の足しに、ほんの少しだけだったの。でも、弟が事業に失敗してからは、毎月のように……」

良子さんの実家は地方で小さな商店を営んでいましたが、15年ほど前に経営が傾き、多額の借金を抱えてしまったといいます。プライドの高い父親は、娘婿である健一さんに頭を下げることを良しとせず、良子さんもまた、家計を支える夫に余計な心配をかけたくない一心で、黙って自分の貯蓄や日々の生活費を切り詰めた中から送金を続けていたのです。

健一さんは言葉を失いました。妻が自分の知らないところで、そんな苦労を抱えていたとは夢にも思っていなかったからです。「今まで、全部でいくら送ったんだ」 健一さんの問いに、良子さんは顔を伏せたまま、か細い声で答えます。

「……正確な金額はもうわからない。でも、たぶん、1,000万円は超えていると思う」

想像をはるかに超えるその金額に、健一さんは頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えました。年収に相当する金額が、家庭の財布から、自分の知らないうちに消えていたわけですから仕方がありません。

夫婦間での金銭的な隠し事は、決して珍しい話ではありません。スパークス・アセット・マネジメント株式会社が全国の20歳以上の既婚(配偶者がいる)男女を対象に行った『夫婦のマネー事情と夫婦円満投資に関する調査2024』によると、へそくりをしている夫は全体の47%、妻は50%。平均は全体では302万円で、男女別にみると、男性は236万円に対して、女性は365万円でした。良子さんの場合、総額1,000万円を超えているだろうという話ですが、夫に知られずに家族を支援することはそれほど難しいことではないといえるでしょう。

健一さんは、なぜ今まで話してくれなかったのかと良子さんを問い詰めたい気持ちと、一人で苦悩を抱え込ませてしまったことへのやるせない気持ちで、何ともいえない感情でいっぱいになりました。昨日、隣で微笑んでいた妻の笑顔の裏に、こんなにも重い秘密が隠されていたとは――。

「秘密を告白されたからといって、お金が戻ってくるわけではないですから、どうしようもないですよ。家計の管理もすべて任せっきりでしたし。これからはもう少し、自分も関与していこうと思っています」

[参考資料]

厚生労働省令和5年就労条件総合調査』

スパークス・アセット・マネジメント株式会社『夫婦のマネー事情と夫婦円満投資に関する調査2024』