
80年代バブル期、輸入車は「外車」だった
輸入車のことを「外車」と呼んでいた80年代バブル期。「ワンレン・ボディコン」スタイルの女性が増殖し、彼女らのいわゆる下僕が「アッシー、メッシー、ミツグクン」と呼ばれていた時代です。このバブル時代にモータージャーナリストになった青山尚暉さんが、当時のことをクルマを交えて振り返る「ぼくたちのバブル考現学」。第一回は国産車からいかにして外車に乗り換えたのかを紹介します。
ある日、音楽誌ライターからクルマ雑誌編集者に
1970年代、プロミュージシャンとして活動していたボクは、80年代に入り音楽誌のライターに転身。そしてある日、突然、自動車専門誌の編集に携わることになった。その経緯を簡単に説明すると、音楽雑誌の会社が、新たに自動車専門誌を立ち上げるということで、当時、いすゞ「ピアッツァ」とチューニングしたマツダ「ファミリアGT」を所有し、それで音楽雑誌の会社に乗りつけていたクルマ好きのボクに白羽の矢がたったというわけだ。
その後、憧れていたマンハッタンカラーの「S130フェアレディ280Z Tバールーフ」を、2台の愛車を売却して購入。当時、横浜三ツ沢にあった、Zカーファンの聖地、ジャパンダットサンサービスに通いつめ、Zクラブ(ダットサン・スポーツカー・クラブ・オブ・ジャパン)に入会し、北米仕様にカスタマイズするなど、心底、Zファンになっていったのだ。
そのジャパンダットサンサービスを訪れるのに同伴した当時の彼女が今のカミサンなのだが、結婚式をハワイで行うことになり、ジャパンダットサンサービスの社長がZクラブのハワイ支部に連絡してくれて、ワイオリ教会で執り行った結婚式にハワイ支部のメンバーが参列。同時に、発売されたばかりのZ31フェアレディZの北米仕様を借りて、自身初の海外試乗!?試乗インプレッションを書かせてもらうことにもなったのだ。
外車専門誌の創刊編集メンバーとなり、マセラティオーナーに
が、結婚翌年、子供が生まれたのをきっかけに、フェアレディZからVW「ゴルフII(MT)」に乗り換えることになった。世界のコンパクトカーのベンチマークを勉強したいということと、手頃な価格の4ドアで後席にチャイルドシート(レカロを買ってしまった)を取り付けられることが選択理由で、ボクにとって初めての外車所有(当時は輸入車ではなく、外車と呼ばれていた)でもあったのだ。フェアレディZやゴルフ、かつて所有した「外車」の話は今後、追って紹介することにしたいけれど、以来、外車への想いが強まり、しばらくは外車専門誌での記事執筆を中心に活動。1986年には、主に外車を取り上げるエンタテイメントマガジンでもあった自動車専門誌「GENROQ」の創刊編集メンバーとなったのだった。
その勢いで、1987年にガレージ伊太利屋から購入したのがマセラティ「ビターボ」。それが自身の数十年に及ぶモータージャーナリストとしての活動のひとつの大きな転機となったのも本当だ。
というのは、マセラティ所有がきっかけで、1988年春に刊行された自身初の単行本『ぼくたちの外車獲得宣言』(発行リヨン社/発売二見書房)を執筆することになったからである。1987年は日本の外車市場が一気に盛り上がっていた時期でもあり、円安もあって空前の外車ブームに突入。年間の外車登録台数は9万7750台と、1986年の6万8357台から伸び率143%!! 生産国別に見ればフランス227%、イギリス170.8%、スウェーデン149.1%、ドイツ137.8%、イタリア125.8%。そんな背景もあって、外車専門誌に携わり、マセラティに乗り、外車三昧の日々を送るボクに、出版社から外車購入術に特化した単行本執筆の依頼がきたというわけだ。
巻頭カラーページには80年代の日本の外車市場を彩ったVW「ゴルフGTI」、ポンティアック「2000GTコンバーチブル」、ランチァ「テーマi.eターボ」、ルノー「5バカラ」、そしてボクの愛車だったマセラティ・ビターボの三又の鉾=トライデントのキーと、マセラティ購入の祝いにと奮発したイタリアワイン、1980年のバローロが登場する。
それをきっかけに、1988年秋には「ムリしないで外車が買える本」(三推社/講談社刊)を執筆。ますます外車沼にどっぷりはまっていくことになる。
御大からのお言葉は「基本は日本車」
おそらく、日本初の外車購入術の単行本だったかもしれない『ぼくたちの外車獲得宣言』の発売後、今でも忘れられないエピソードがある。1988年のある日、憧れの自動車評論家、徳大寺有恒さん(の事務所)から連絡があり、会って話しをしたいというのである。もちろん、まだ直接お会いしたことのない巨匠からの願ってもないお誘いに、当時、徳大寺さんがお住まいになられていたホテルのラウンジへと、緊張しつつ足を運んだのだった。そこで記憶に残る徳大寺さんからのアドバイスが、「君は今、外車に熱心で、外車の記事ばかり書いているけれど、基本は日本車。日本車のこともしっかり勉強しなさい」ということだった。
その徳大寺さんのアドバイスのおかげもあって、それから6年はかかったものの、モータージャーナリストとして1994年第15回から日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員(初めての推薦媒体は当時、クルマ記事を担当していた講談社ホットドッグプレス)を務めさせていただくことにもなったのである。もっとも、マセラティの前に買ったクルマも、バブル期が到来したその後に買ったクルマも「ぼくの外車獲得」を勝手に宣言し!?“外車”だったんですけどね……。つづく
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