年金と十分な貯蓄があっても“思わぬ出来事”により家計が破綻するケースは少なくありません。65歳の徳永夫婦(仮名)が家計破綻危機に陥った原因は、90歳になる夫の父親でした……。徳永家にいったいなにがあったのか、事例をもとに、老後に潜む支出リスクとその対策をみていきましょう。ファイナンシャルプランナーの辻本剛士氏が解説します。

年金月26万円、貯金2,000万円…「老後に不安ナシ」の60代夫婦

徳永健司さん(仮名・65歳)と妻の仁美さん(仮名・65歳)は、東京郊外のマンションで2人暮らしをしています。

長年勤めた機械部品メーカーを定年退職した健司さんは、先日から本格的な年金生活に入りました。

2人の年金収入は、健司さんが月18万円、仁美さんが月8万円で、合計26万円。現役時代から堅実に暮らしてきたこともあり、生活水準は大きく変えていません。毎月の支出は28〜29万円程度で、年金だけではやや不足気味です。

とはいえ、貯金は2,000万円程度あり、月々2〜3万円の赤字が続いたとしてもすぐに生活が困窮するようなことはありません。

1人暮らしは限界だろう…夫婦は自宅を売却し、90歳父との「同居」を決断

金銭面では悩みのない徳永夫婦ですが、1つだけ心に引っかかっていることがありました。それは、1人暮らしをしている健司さんの父・茂さん(仮名・90歳)の存在です。

数年前に最愛の妻を病気で亡くして以降、茂さんは目に見えて元気をなくし、日々の暮らしも少しずつ雑になっていきました。健司さんは定期的に電話をかけるなど父の様子を気にかけていたものの、心配は募るばかりです。

「このまま1人で暮らしを続けさせるのは限界かもしれない……」

そう感じた健司さんは、妻の仁美さんに「父と同居したい」と打ち明けます。

突然の提案に最初は戸惑っていた仁美さんでしたが、将来のことを見据えて話し合いを重ねた結果、最終的には同意してくれました。

そこで夫婦は、思い切ってマンションを売却。売却益は1,500万円となり、もともとの貯金2,000万円に加えて、手元には合計3,500万円の資金が残りました。

新たな生活の拠点は、父が長年住み慣れた戸建て住宅です。築年数も古くそのままでは暮らしにくいため、茂さんの貯金から250万円、健司さん夫婦の貯金から500万円を出し、大幅なリフォームを実施。

こうして、3人での同居生活がつつがなくスタートしました。

同居によって懐と心にゆとりが生まれた徳永夫婦

リフォームを終えたばかりの明るいリビングで朝食を囲む3人。妻を亡くしてからどこか寂しげだった茂さんの顔に、久しぶりにやわらかな笑顔が浮かんでいました。

「これで、また家族一緒に暮らせるんだな」

そう言って笑う父の姿に、健司さんはホッと胸をなで下ろしました。

月々の収入源は、夫婦の年金月26万円と、父の年金月11万円を合わせた37万円。経済的にはこれまで以上に余裕が生まれ、気持ちにもゆとりができます。

父と一緒に暮らすようになってから、仁美さんは毎日の食事作りにいっそう気を配るようになりました。栄養バランスはもちろん、味付けにも工夫を凝らし、父が楽しく食事できるよう心を込めて食卓を整えます。

「ごちそうさま。今日も美味しかった。ありがとう」

感謝の気持ちを素直に言葉にし、笑顔で箸を置く父。そんなあたたかな食卓を横目に、健司さんは、ふと心のなかで願います。

「この時間が、少しでも長く続きますように」

朝ごはんはステーキにしてくれ…父が放った「突飛なひと言」

しかし、そんな穏やかな暮らしも長くは続きませんでした。

同居生活を始めて1ヵ月ほど経ったある朝、茂さんが次のように言います。

「これからは朝ごはんステーキにしてくれ」

突飛なひと言に、健司さんも仁美さんも思わず顔を見合わせました。理由を尋ねると、父は本を差し出しながらこう言います。

「知らんのか? 長生きには肉だ。ここに書いてある」

最初はなにかの冗談かと思い、とりあえず冷蔵庫にあった肉を焼いて出すことにした仁美さん。しかし、しだいに父の要求はエスカレートしていきます。

「肉がまずい。国産にしてくれ」 「こんな薄い肉じゃダメだ。ステーキにしてくれと言ったろう」 「ブランド牛しか食べたくない。いい脂は健康にいいんだ」

そして父は、1kg3万円もする松阪牛神戸牛を自ら買ってきては、必ず毎朝100g食べるようになりました。

「お父さん、急にどうしたのかしら」 「本当になあ。まあ、すぐに飽きるだろう」

2人はこんな会話を交わしていましたが、その期待は裏切られます。

父・茂の“暴走”

茂さん、しまいには「晩ご飯も週3日、ステーキにしてくれ」と言い出し、食費は月18万円に。父の年金11万円では足りず、月7万円超の赤字です。

健司さんが「少し控えてくれないか」と伝えると、茂さんは「俺の楽しみを奪うのか」と反発。さらに「ステーキのおかげで長生きできてるんだ」と主張しました。

「たしかに長生きを願ったが、こんな形になるとは……」

父の突然の“暴走”に、健司さんは首をかしげるばかりです。

老後の家計を左右する2つのリスク

老後の家計を脅かす要因として「過度な散財」と「長生きリスク」には注意が必要です。

現役時代と比べて収入が限られる老後は、日々の支出をいかにコントロールするかが家計を左右します。加えて、高齢になるにつれ医療費や介護費といった予期せぬ出費が増える傾向にあり、突発的にまとまった費用が必要になるケースも少なくありません。

なかでも意識すべきなのが「長生きリスク」でしょう。「人生100年時代」といわれる昨今ですが、介護などを必要とせずに健康で過ごせる期間は、それよりも短くなるケースが多いです。

厚生労働省の資料によると、男性の平均寿命は81.05歳であるのに対し、健康寿命は72.57歳と約8年半の差があります。一方、女性の平均寿命は87.09歳、健康寿命は75.45歳と約11年半の差です。つまり、この期間には介護を必要とする可能性が高くなると考えられます。

さらに、公益財団法人生命保険文化センターによると、介護が必要となった場合、その期間は平均55.0ヵ月(約4年7ヵ月)とされており、介護に要する一時費用は平均47万円。また、1ヵ月あたりの平均介護費用は9.0万円で、これらを合計すると約550万円近い支出が発生する可能性があります。

今回の徳永夫婦のように、同居した父の食費により毎年100万円以上の赤字が続く場合、現時点では貯蓄で対応できたとしても、将来的に介護費などが重なれば対応できなくなるリスクがあります。

このような事態に備えるには「家計のスリム化」と「健康寿命を延ばす対策」が欠かせません。年金中心の生活では、普段の支出を抑えながら、思わぬ出費にも対応できるよう準備しておくことが大切です。

長生きを見越して、常に数年先を見据えた備えをしておくことが安心できる老後につながるでしょう。

茂さんが“われに返った”きっかけ

夫婦は悩んだ末、思い切って近所にあるファイナンシャル・プランナー(CFP)の事務所を訪ねました。もちろん、父・茂さんも一緒です。

事情を丁寧に聞き取ったCFPは、家計の状況や生活費の内訳を1つひとつ確認したうえで、こう助言します。

「この状態があと数年続き、さらにお父さまの介護が必要になった場合、資産の大幅な目減りは避けられません。お父さまの老後はなんとかなるかもしれませんが、その後に続くお2人の老後資金が足りなくなるリスクが高いです」

そのうえで、FPは徳永さん夫婦が事前にまとめておいた「毎月の食費の内訳」を、見やすく整理して茂さんに示しました。グラフや金額がひと目でわかる資料を見て、茂さんは目を丸くします。

「こんなに使っていたのか……すまない。迷惑をかけた」

自身のこだわりが家計に大きな影響を与えていたことに気づき、茂さんは素直に謝罪し、肩を落としました。

執着の裏にあった「寂しさ」

あとでわかったことですが、父は夫婦と暮らすようになり、仁美さんがつくる料理が慣れ親しんだ妻の味と異なることに寂しさがあったようです。

ステーキ」と急に言い出したのは、本の影響もありますが、若いときに妻と食べた「思い出の味」でした。

その後、夫婦は茂さんと今後の食生活について話し合い、ステーキは週に1度の楽しみにとっておくことに。その代わり、茂さんが慣れ親しんだ亡き妻のレシピを仁美さんが研究し、なるべく寂しい思いをさせないよう配慮することにしました。

その結果、食費は大幅に抑えられ、徳永家の家計は黒字へと転じます。ひと安心した健司さんは、将来の備えについても前向きに考えられるようになりました。

一方の茂さんも、年に1度の健康診断を欠かさず、毎日近所を散歩するなど、改めて自身の健康と向き合うように。

こうして、再び穏やかな家族3人の暮らしへと戻っていったのでした。

辻本 剛士 神戸・辻本FP合同会社 代表

(※写真はイメージです/PIXTA)