
10代の子どもは、大人からすれば「嘘をつく」「人の気持がわからない」「なぜかトラブルばかり起こす」という振る舞いをすることがあります。精神的な問題を抱えているわけではないのに、周りを困らせてしまう。その理由は、彼らが物事を理解する方法、つまり「ものの見方」が、私たちとは少し違うからだと、ロバート・キーガン氏は言います。本記事では、同氏著『ロバート・キーガンの成人発達理論――なぜ私たちは現代社会で「生きづらさ」を抱えているのか』(英治出版)より、社会に適合できない若者たちの事例から「生きづらさ」を解決するためのヒントを探ります。
大人は10代の子どもになにを期待しているのか
編集注(参考は書籍の60ページ)
意味づけの形態(フォーム)
ものごとの理解の仕方、評価の仕方。「形態(フォーム)」という表現は「ものごとの理解の仕方には一定の型がある」ことを示唆している。
多種多様なものごとの意味構築をする際に働かせている、ある共通の原理のこと。キーガンは原理には次元があると考えており、より複雑な原理を「高次元のマインド」と呼んでいる。
第2次元のマインドは、「持続的カテゴリ」と呼ばれ、自己や他者に関わらずあらゆる具体的なものごと・要素を1つの集合に沿って意味構成する原理を指す。第3次元以降のマインドについては「『持続的カテゴリを超えた理解』が必要である」と述べ、複数の持続的カテゴリを横断した、いわば複数の評価軸を意味構成に挿入できる状態、としている。
ティーンエイジャーに対しては、どうやら重大性の認識なしに要求がなされているらしい。両親や学校の先生からも、雇い主、近所の人、サイコセラピスト、町の人たち、さらには同世代の子どもからも、精神的(メンタル)意味構築という特定の原理、すなわち私が「第3次元の意識」と呼ぶものを持つことを求められているようなのだ。
ただしこれは、現代の文化を生きるティーンエイジャーについての、語られることのない話の半分にすぎない。残る半分はこれだ。13歳になった、年頃になった、反抗期に入ったなど表現がどうであれ、思春期を迎えたと思われる段階の子どもはふつう、さまざまな経験をこの次元の複雑さで意味構成していない、という話である。実際、私の研究を含め、マインドを主眼にしたさまざまな研究が正しければ、通常の精神発達としては、マインドは12歳~20歳の時期に、第2次元から第3次元へ徐々に変化すると考えるほうが理にかなっている。
これはつまり、思春期の大半において、子どもは大人の文化からの強い期待に応えられないほうがふつうだということである。このような2つの話によってもし大きな問題が生み出されるなら、期待にまず応えられない子どもを、私たちはどのように理解すればいいのだろう。この問いに対する答えは、以下の問いにどう答えるかで変わるだろう。
「いったい、大人はどのような種類のことを10代の子どもに期待しているのか」
もし、主として行動に関して期待していると考えるなら、それに応えられない子どもは、適切な行動ができないとか能力がない、つまり、するべきことをしようとしない、あるいはできないとみなされるだろう。もし、主として感情に関して期待していると考えるなら、それに応えられない子どもは、情緒不安定だとか心の病にかかっているとみなされるだろう。
どちらの考え方であれ問題なのは、期待に応えられない子どもが、期待に応えられる子どもと同様の理解の仕方をしていると、大人が無意識に思い込んでいる点だ――期待に応えられない子どもは、そういうマインド(理解の仕方)をなぜかきちんと作用させることができていない、あるいはそういうマインド(理解の仕方)がどういうわけか整っていないだけなのだが。結果として、期待に応えられない子どもは、何をやっても駄目だとか、出来が悪いとか、頑固さや能力不足や不安定さのために頼りにできない人間だなどとみなされ、大人から残念に思われたり疎うとんじられたりすることになる。
しかしながら、そのように考えるのはどこか間違っている、あるいは危険とさえ言えるかもしれない。期待に応えられない子どもについて「適切な行動ができない」「情緒不安定」などと私たちの目に映るのは、その子どもが「持続的カテゴリを超えた」第3次元の理解の仕方をしていると、私たちが誤解しているからかもしれないのだ。
もし当の子どもがまだこの理解の仕方を構築していないなら、問題は、「ルールは知っているがゲームをする意志がない/したくない/できないこと」ではなく、むしろ「ルールを理解できていないこと」だと言えるだろう。そのようなティーンエイジャーはおそらくあっぷあっぷのお手上げ状態になっているが、期待を裏切られていると大人に誤解されているせいで状況はいっそう危機的だ。人間は、相手にとってそんなつもりはなかったのに失望させられる結果になったと思える場合はともかく、相手がまさにそのつもりだったせいで失望させられていると感じる場合には、思いやりを持つ気になどなれないのだ。
一部の10代が社会に適合できない本当の理由
極端な例で考えてみよう。臨床的には「ソシオパス(社会病質人格)」あるいは「反社会的気質」を持つ人として、一般には「詐欺師」「ぺてん師」「不良」などと表現される若者の例である(※1)。そういう人のことを、かつては「サイコパス」と呼んでいたが、その呼び方は「精神異常者」や「偏執症患者」と混同されがちで、「サムの息子」や「ジェフリー・ダーマー」といった連続殺人鬼と同様であるかのような誤ったイメージを与えかねなかった。
しかし、ソシオパスは精神障害ではないし、殺人を犯すこともまずない。むしろ、自分を愛してくれている人の心を深く傷つけたり、家族に車のカギやクレジットカードを枕の下に置いて眠らなければと思わせたり、見るも無惨な破壊の跡を修理するために両親に家の二番抵当ローン(ホームエクイティローン)を組ませたりすることのほうが多い。つまり、ティーンエイジャーに対する社会からの期待をことごとく裏切る、そういう人々である。
ただ、専門家なら頷くにちがいないが、彼らのことは今もまだ詳しくはわかっていない。このテーマの教科書的な資料の1つに、ハーヴェイ・クレックレーが書いた的確かつ丁寧なきわめて長い観察記録がある(※2)。その終盤に、特に的を射た表現がある。このような人たちは、「人間の通常の経験に対する意味づけが、通常と違う」。今から50年以上前にクレックレーを当惑させた事実は、今日もなお謎のままである。
だが、ソシオパスの心理においてほかにどんなことが起きているとしても、彼らの意味づけの形態(フォーム)を調べると、必ずと言っていいほど第2次元のマインドの特徴が見られる。
信頼を逆手に取るソシオパスの論理
ある裁判官が、目の前に立つ若者にこう尋ねた「判決を下す前に、ぜひ聞いておきたいことがある。きみは、きみを深く信頼している人たちから、なぜ盗みを働けるのか」。すると若者は率直に答えた「なぜって裁判官、信頼してくれていない人から盗むのは、難しいからです」。
また、別の裁判官の前には、レストランで無銭飲食を繰り返したという若者が立った。浮かない顔の若者に、裁判官は動機を探ろうとして尋ねた「教えてくれないか。一体どうしたというのか。つまり、なぜ無銭飲食を繰り返すのか」。若者は少し考え、それから真面目な顔で答えた「そうですね、ぼくがレストランに入って注文するのは、お腹が空いているからです。そしてぼくがお金を払わないのは、お金を持っていないからです」。
裁判官たちはおそらく、心の奥底の状態を語ってほしい、できれば内面の葛藤を、いや少なくとも自己を省察した結果としての言葉くらいは聞きたいと思っていただろう。なのにそういう言葉を聞けなかったのは、「内省」を内なる対話について述べることだと位置づけるようには「自己」が意味構築されていなかったからかもしれない。
内省をそのように経験・表現する心理状態は、自己のなかで複数の考えが調整されて生じる。この若者たちが第2次元のマインドによって制約を受けていたなら、「自己省察」は行動を順を追って述べるだけになり、それを裁判官たちは聞いたのである。
他者の視点を理解できないソシオパスの「思考の限界」
自分自身のものの見方を構築したり、他者は他者自身のものの見方を構築していることを認識したりはできるが、一方で、両者のものの見方を一定の関係に整えたり、自分のものの見方という観点からだけでなく相手のものの見方との関係という観点からも自分や相手の存在を意味構成したりすることはできない――このように、できることとできないことが同時に起きているために、ソシオパスは、自分の目標と目的の追求にばかり目を向けているにもかかわらず、言いたいことを汲んでもらえているという印象を与えるくらいには他者を考慮できる。
そうでなければ、他者はソシオパスの行動を自己中心的だ、無神経だ、人の善意につけ込んでいる、あるいは不誠実だとさえみなすだろう。
認知的な観点では、臨床医曰く、ソシオパスは知能は高いが、同時に哀れなほど幼い場合が少なくないという。恐ろしく込み入った企みを考えたり多様な情報を一度に記憶したりできるのに、長期的な計画を立てることはできないのだ。どの文献を見ても、臨床医はソシオパスの思考について、異常ではあるが、精神病を患っているわけではなく、通常の意味での思考障害もないと述べている。
しかしながら、ソシオパスの「通常とは違う意味での思考障害」が本質的に、「持続的カテゴリ」の意識という次元の思考であり、認知発達理論でいうところの「具体的操作」としてあらわれているのだとしたらどうだろう。物事の大小や量を比較して序列を判断したり分類できたりする具体的操作の思考は「持続的カテゴリ」の意識に支配されており、複数の情報を結びつけることはできるが、現実のものというカテゴリを、可能性という「持続的カテゴリを超えた」意識の領域――長期的な計画やパターンや一般化の構築のために必要なもの――の下位に置くことはできない。
知能の高いソシオパスもなかにはいるだろうが、やはりこの知性の(理解の)形態(フォーム)についてもっと詳細に研究する必要があるだろう。
編集注(参考は書籍の52-60ページ)
「持続的カテゴリ」
本書籍p.52でキーガンが提唱している「精神的意味構築」を行う次元のマインド(第2次元マインド)の呼称。あらゆるものごとを、ある特質を含む現象として意味整理する能力のことを指す。ものごとは「主体が知覚した姿」から変換され、クラス(集合)やカテゴリなど、1つの精神的なまとまり(知覚とは無関係に恒常的に働くルール)に沿って配置される。
共通する意味構築の原理(前述の「次元のマインド」)が作用して、特に「具体的な世界」「(他人の)独自の考え方」「特質を含む自己」など、「具体的なもの」を意味構成する力である、とキーガンは述べている。
ソシオパスが抱えるのは「知能の問題」ではなく「倫理観の問題」
10歳の天才児の知能指数が平凡な35歳のそれより高ければ、たとえ35歳には抽象的思考ができて天才児にはできないとしても、天才児のほうが「知能が高い」と思われがちだ。だがこの10歳の天才児と平凡な35歳をさらに比べていくと、10歳児はとても頭がいいが、きわめて幼いこともわかるだろう。ちょうど、前述のソシオパスと診断される人がそうであるのと同じように。
銀行強盗のウィリー・サットンと新聞記者が交わした有名なやりとりで私が最も面白いと思うのは、サットン以外の人は皆、その答えを滑稽だと思っているが、当のサットンは大まじめである点だ。
「ウィリー、なぜ銀行に押し入ったりするんです?」
「なぜって、銀行には金が保管されているからです」
一方、ソシオパスのティーンエイジャーは、私たちにとって、10歳児には見えない。身体にしろ生活の仕方にしろ、10歳児のそれではないのだ。私たちは彼らを、ティーンエイジャーだと思う(そう思うべきであるかのように)。ティーンエイジャーに対する私たちの期待に、彼らに応えてもらいたいと思う(そう思うべきであるかのように)。そして、彼らの精神的能力はそういう期待を理解できる段階にすでに達していると、当然のように思っている(そう思うべきではないのに)。
私たちは知らず知らず、ソシオパスのティーンエイジャーは、「持続的カテゴリを超えた」次元の意識を持っているものと信じ込んでいるのである。その結果、私たちは次のように感じ、そして批判するようになる。彼らの倫理観は、信頼できる人間として私たちが期待するレベルに達していない、いやそれどころか、そもそも彼らには道徳観念がない。彼らは大人を利用している、いやそれどころか故意に善意につけ込んでいる。彼らの内なる精神生活は、私たちが期待する複雑さを欠いている、いやそれどころか空っぽだ、と。
実際には、ソシオパスは倫理観に欠けるわけではなく、私たちが求める倫理観を持っていないだけである。
ある女子刑務所に、ロクサーヌという女性が収容されていた(※3)。売春に万引き、すり、さらに、他人の生活保護小切手を盗んだり、ほかの人のクレジットカードを使ったりしたのだ。自分のニーズを満たす必要があるときは別だが、盗むのは悪いことだという認識はあった(「私がすることのなかで盗みは最悪のこと」)。面白半分に万引きする人は絶対に間違っているとも思っていたし、「誰彼かまわず寝るのは売女だ」とも思っていた(「代金をもらわないなら、間違ってる」)。
ところが、もし誰かがやはり必要性があってロクサーヌの小切手を盗んだらそれは正当なのかと尋ねられると、ロクサーヌはこう答えた。「いいえ、正当じゃない」と。R・ブレイクニーとC・ブレイクニーが述べているように、ロクサーヌの倫理観は、「私が他人の小切手を盗むのは正しい、なぜなら私にはその小切手が必要だから。そして他人が私の小切手を盗むのは間違っている、なぜなら私にはその小切手が必要だから」ということらしい。互恵関係はないとしても、考え方として一応、整合性はある。
ソシオパスの内面は「空っぽ」ではない?子どもとの共通点
ソシオパスの内面世界は、本当に空っぽなのだろうか。というより、私たちがソシオパスの気持ちに寄り添ってその内面的な経験を「自分に重ねて」も、その経験が私たちを満たすことはないとわかるだけだろうか。重ねてみる対象は合っているが、「重ねる」場所が合っていないのだろうか。
もしかしてソシオパスは、自分を空っぽなどとは全く思っていないかもしれない。ふつうの10歳児のそれと同じ次元の意識を使っているのかもしれない。敏感な親はたいてい、10歳のわが子が暑い日に冷たい飲み物をねだることが多いのに気づくが、子どもが近視眼的に自分の利益を追求しても、それを内面が「空っぽ」であるサインだとは考えない。
いやむしろ、潜伏期の子ども(エリクソンは「必死で」「勤勉さを獲得しようとする段階の子ども」としている(※4))というのは、計画と目標と意味構築された欲しいものだらけだ。それらを実現するために道具として役立つなら誰であれ、何であれ、子どもたちはかわいらしいやり方とはいえ、利用してやろうとするが、そんな子どもたちのことを、私たちは中身がないとは言わない。おそらく、子どもたちの内面世界はぎっしり詰まっている。気持ちを共有できる相手より、道具としての相手でいっぱいになっているだろう。
いずれにせよ、子どもあるいはソシオパスにとって、内面世界は空虚でも空っぽでもない。蝶の幼虫は、たとえ将来羽が生えることを知らなくても、自分は地面の上にしかいられないとは思わないのだ。
ソシオパス(今は「反社会的気質を持っている」と表現される)と診断されたティーンエイジャーは、文化からの期待に応えられない人たちの最たる例かもしれない。むろん、大半のティーンエイジャーは、どの次元の意識を持っているのであれ、ソシオパスではない。
ただ、ソシオパスと診断されたティーンエイジャーの環境―要求される次元の複雑さで世界を構成できていない/「キャパオーバーのお手上げ状態」になっている/周囲の人に適切に理解されていない――はいずれも、すべての若者が10代のある時期に向き合うことになる環境の極みと言えるのではないだろうか。
外部からの認識論的要求と内面の認識論的能力のミスマッチが、思春期のある時期の特徴なのだ。いずれにしても、ある人の精神に対する環境からの要求が、その人の現在の精神的能力より高いレベルであることは、悪いことなのだろうか。
参考
※1
ソシオパシー(社会病質)に関するより詳細な私の考えを知りたい場合は、以下を参照。
R. Kegan, “The Child behind the Mask: Sociopathy as Developmental Delay,” in W. H. Reid, J. W. Bonner III, D. Dorr, and J. I. Walker, eds., Unmasking the Psychopath (New York: Norton, 1986)。
私の考えを検証するものとしては、以下を参照。
P. B. Walsh, “Kegan's Structural Developmental Theory of Sociopathy and Some Actualities of Sociopathic Cognition” (doctoral diss., University of Pittsburgh, 1989; University Microfilms International, no. 89-21423).
非行・問題行動を構成主義的発達理論の立場からさらに考えたい場合は、以下を参照。
C. Blakeney and R. Blakeney, “Understanding and Reforming Moral Misbehavior among Behaviorally Disordered Adolescents,” Behavior Disorders, 16: 120-126; C. Blakeney and R. Blakeney, “Reforming Moral Misbehavior,” Journal of Moral Education, 19 (xxxx): 101–113; J. Hickey and P. Scharf, Toward a Just Correctional System (San Francisco: Jossey-Bass, 1980)
; and
R. Selman, L. Schultz, M. Nakkula, D. Barr, C. Watts, and J. B. Richmond, “Helping Children and Adolescents Improve Their Social Conduct: A Developmental Approach to the Study of Risk and Prevention of Violence,” Development and Psychopathology, in press.
※2 H. Cleckley, Mask of Sanity (St. Louis: C. V. Mosby, 1941).
※3 R. Blakeney and C. Blakeney, “Knowing Better: Delinquent Girls and the 2-3 Transition” (unpublished paper, Harvard University, 1977).
※4 E. H. Erikson, Childhood and Society (New York: Norton, 1963).
ロバート・キーガン
ハーバード大学教育学大学院
名誉教授

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